残酷な女たち

題:マゾッホ著 池田信雄/飯吉光夫訳「残酷な女たち」を読んで

マゾッホの作品は「毛皮を着たヴィーナス」や「魂を漁る女」は読んだことがある。マゾッホはジル・ドゥルーズが再発見した小説家である。無論、彼の「マゾッホとサド」なる評論も読んでいて、何度も日記に引用した記憶がある。もう少しマゾッホの小説を読んで彼の思想など調べてみたいと思っても、文庫本ではこの「残酷な女たち」位しかないのである。厚くて大きな本は嫌いなため致し方ない。

「毛皮を着たヴィーナス」は良い本である。鞭打つ女主人となるように取り交わした女との契約は実行される。男も女も契約を取り交わしたからこそ、鞭が唸りをたてて宙を舞うのか、自らが望んでいるからこそ鞭が空を切って鳴り響くのか分からなくなる。意識が混濁するのである。「魂を漁る女」はドラゴミラなる美少女が恋人を悪魔的な女から救う怪奇冒険恋愛小説でもある。読んでいてはらはらどきどきした記憶がある。

この「残酷な女たち」なる本は、「残酷な女たち」と称した中に、それぞれが題名を持つ八篇の短編からなる。これらは十頁程度と短い。残酷な女もいるが、意志の強い義に富んだ夫への愛に満ちた女もいる。また「残酷な女たち」とは別に「風紀委員会」と「醜の美学」なるやや長めの短編もある。「残酷な女たち」の八つの短編は歯切れのよい文章で、マゾッホの特徴をよく表している。即ち、自らの欲望を成し遂げるために意志の強い女や冷酷な女を描きながら、夫を愛していて敵を殺しさえする女もいる。毛皮を着ることを望む強い女たちを描いていると言えるであろう。

「風紀委員会」は女帝マリア・テレジアの作った風紀維持のための委員会の話である。女帝は愛人を持つ夫を嫉妬から監視する必要があったのである。お針子リーナとその母親の暮らす部屋に結局何組もの男女が隠れることになる喜劇でもある。結局、リーナは恋人と結婚できる、女帝は夫にまた体を委ねることができるハッピーエンドで終わる小説である。「醜の美学」はせむしのこびとの醜い男パウルが恋人を持つ美しい娘ヴェレスカに恋をする。恋人は美しい青年騎士である。男爵でもある。画家でもある醜い男は娘に毛皮を着させて肖像画を作るなどして娘の歓心を買う。娘は得意げになる。ある時、恋人との乗馬の時に娘は垣根を飛び越そうとして倒れる、この娘をせむし男は一心で助ける。それから二人は心を通わせ合う。というよりヴェレスカは醜い男に恋をするようになる。青年騎士とパウルは決闘する。瀕死のパウルを娘は助け、家を出て行こうとするパウルの足元に娘は身を投げ出すのである。

マゾッホの作品を読んだのは実は谷崎潤一郎の作品と比べたいとの思いがあったためである。谷崎と比較できる作家は日本にいるかどうかは知らない。無論谷崎の多彩な側面、伝統文化や愛おしい母への慕情やエキゾッチックな怪奇性などは、日本の作家と比べて論じることができる。ただ、谷崎の場合肉体が主でありマゾ的である。それならばマゾッホに頼る以外にないのである。マゾッホ以外にフランスのロマン小説にそうした種類の作家を見出すのも難しいだろう。他の作家と合わせて論じることで、谷崎の特徴がより露わになるはずなのである。谷崎のマゾ的な肉体性は、伝統文化という覆いを重ね持っていてきめ細やかである。この覆いを取り除けば執着するマゾ的な肉体はどうなるのか。その辺りを他の作家と比較して調べたかったのである。

この目的を達するのは難しい。マゾッホと谷崎の短編と比べると、人情や心理、サドやマド性の強度、文章の特徴、正義や悪など概念的横断性などにおいて違いがある。これらの一つ一つの相違を述べて彼らを論じることはまだしないが、明確に異なる点がある。それは空間に時間である。時の流れであり、空間の偏在性である。時間の永劫性であり空間の異質さへの憧れでもある。これらも今は論じることはしないが、マゾッホの「醜の美学」において気に掛かる点がある。

美しい娘ヴェレスカと醜い男パウルとの会話に出てくる、美しく生まれ出たことの偶然性と人間の内面的な本質との相違である。パウルは美しい女性はそれほど珍重するに値しない散文的なものであるけれど、詩をよびさます力を持っていて男から賛美されていいものと言う。ヴェレスカの美しさを褒めているのである。美しい娘ヴェレスカは、自分と同じくらい平凡で取るに足らない男を相手にするときは懸命に振るわなければならないと言っているのでしょうと言う。恋人にいらいらしているヴェレスカはこの恋人を非難しているのである。あんないかさま伊達男にきみにはもったいないと言うパウルに対して、ヴェレスカは嫉妬しているのでしょうと言う。パウルに心を引かれているヴェレスカは一方ではパウルのみにくさを指摘している。こうした美と醜との会話は、結局内面にたどり着く。パウルの内面は豊かさがある。この確信があるためパウルは騎士より幸福だと言う。

こうして美という観念に移るが、美と内面の話は表層と深部との問題に取り換えることができる。即ち、意味はどちらにあるのか。なお、意味とは心を捕らえられて心が束縛されることである。そして、この心を捕える外部にあるものが、表面に付着しているか深部に隠れているかの問題でもある。まさしく内面は深部に隠されているが、表面に現れ出なければ、行動に移させなければ豊かさなど分からない。つまり内面だけでは意味は現れ出ないのである。つまり、表層と深部との問題としたことが、そもそもどちらも表層を通じて意味が表れるため、間違いだったのである。では、言語表現ではどうなるのか。言語で述べられている表層が深部を覗かせて意味を成しているのか。つまり表層から隠れている深部の何かを探り当てることができるのか。この探り当てた何かが心を打ち、もはや解き放てない深い意味を成しているのか。こう考えていくとある程度の解を予想しているが、表層と深部と意味との関係は難しい。言語の総体的イメージ論を想定しているが、この時は表層と深部の区別がつかなくなる恐れもある。

以上

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。