ランボー全詩集

題:アルチュール・ランボー著 鈴木創士訳「ランボー全集」を読んで

「猫町」と「巴里の憂鬱」に続いて、ランボーの「地獄の季節」を読みたい。もう、既に、何年か前に本書を購入し、そのまま放置している。読んでみると、小林秀雄訳「地獄の季節」と比べ、当然なことに訳が異なっていることに気付く。本書では「ある地獄の季節」となって、「ある」が付加されている。鈴木創士の解説では、相応に理由がある。フランス語の理解できない者には受け入れるしかない。昔、フランス語を独学していたことを思い出すが、一年もしないうちに挫折してしまった。まあ、致し方ない。読み比べると、鈴木創士の訳の方がよさそうに思われる。言葉とリズムが美しい。従って、本書を読むことにする。

詩編はすらすら読めるのに、「ある地獄の季節」と「イルュミナシオン」もいいなと思いながら読めるのに、読後に何もイメージが浮かんでこない。「猫町」や「巴里の憂鬱」の散文詩でもそうした傾向があった。でも、確かにある種の情景は浮かんでいた。これは、「ある地獄の季節」が情景を含んでいない、心の思いを率直に述べただけに起因するのではない、何か理由があるはずである。すると、小林秀雄訳「地獄の季節」はイメージが浮かびやすくするために、言葉と言葉とを繋げ結び付けていることに気付く。きっと意訳しているのだろう。鈴木創士訳の「ある地獄の季節」では、読んでいる時にはすぐさま納得する。けれど、どうしてもイメージが浮かんでこない。綴られている言語間に距離がある。ただ、全体とし呪詛し苛んでいる心だけが、声として言葉として残響してくる。これらの文章の引用は避けたいが、サミュエル・ベケットの言語表現に幾分近いのではないかと思われる。

鈴木創士の解説では、これを「乱調」の詩学と指摘していて引用させてもらう。『制作年代は本文の末尾に詩人自身が記しているとおり一八七三年である。つまりこの作品はランボーが十九歳のときに書かれたのだが、別の見方をすれば、一方で驚くべき早熟さ、いや、いや早熟という言葉ではほとんど何も言い表したことにはならないような成熟と老獪を、同時に叛逆のみずみずしさや狷介孤高とともに、混乱や激情のなかにあって示すものになっているのである。そのためにはどうあっても「新しい言語」が必要だった。つまり「ある地獄の季節」は、詩人が身をもって体得した「乱調」の詩学をシステマテックに実践した第一の作品であると言うことができる』新しい言語とは、訳者の述べるイメージを超えた視覚や韻律を超えた乱調であるばかりではない、シーニュの欠如である。象徴や概念の欠如である。ただ、叫ぶ声だけが、言語だけがある。

こうした詩人を論じることなどできない。モーリス・ブランショやジル・ドゥルーズを調べてみたが、マラルメやカフカなどについては結構論じられているが、ランボーは少ない。マラルメには「骰子の一擲」や「真昼や真夜中」などの概念があり、カフカは作品そのものが象徴となっている。サミュエル・ベケットでは木霊し響き渡る言葉そのものがシーニュである。ブランショを少し調べたが「文学空間」において『ランボーが、詩による決定的結末が強いるかずかずの責任を、砂漠の中にまで逃れてゆくのはこういう時だ』と述べている。こういう時とは芸術家が感じる『自分が世界から自由なのでなく世界を奪われている・・自己を支配しているのではなく自己から離れ去っている』と感じる時である。これだけではあまりにも素っ気ない。

ドゥルーズが「批評と臨床」の「第5章 カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について」の一つとして、ランボーの「〈私〉とは他者である」を取り上げている。主体と言う狂気は蝶番のはずれた時間に対応している。これは時間における〈私〉と〈自我〉との二重の背き合わせであり、時間こそが両者を関係づけ縫い合わせている。ここでドゥルーズが論じるランボーの文章を引用したい。『木がヴァイオリンになるのも仕方がないことです!・・銅が目覚めるとラッパになっていたとしても、銅の落ち度ではありません・・』(「批評と臨床」70頁)である。同一個所を「ランボー全集」の書簡集から引用すると『「私」は一個の他者です。木ぎれが自分をヴァイオリンだと思い込んでも仕方がありませんし、・・もし銅が目覚めてラッパになっているとしても、銅には何の落ち度もありません』(「ランボー全集」470頁、477頁)

このランボーの表現はアリストテレス流の解釈である概念―対象関係の鋳型であるとドゥルーズは指摘する。即ち、概念としての諸形式=形相(ラッパ-ヴァイオリン)は現動態にある形式で、対象としての諸素材=質量(銅-木)の方はただ単に潜勢態である質量であるような関係である。一方、カントはある意味先に進み、〈私〉とは概念でなくすべての概念を伴う表象である。〈自我〉とは対象ではなく、自身の持続的な変動に無限の変調に自らを関係づけるところのものなのである。概念―対象関係はカントにおいても存続しているが、もはや鋳型ではなく変調を構成するような〈私―自我〉の関係に二重化されているとドゥルーズは述べている。この概念-対象が時間と現象の新たな形式的諸関係を生み出していくのである。

ランボーの偉大な表現の力を獲得する思い出の場なる概念―対象なる鋳型の構造とドゥルーズが記述する時、はっとさせられる、とても明確にランボーの言語を言い得ている。ランボーでは私なるものが心や物に結びついて、ある種の枠にはまった型構造を指し示していて、言葉による形式変換が頻繁に行われているのである。形式変換とは〈私〉を他者として押し付ける、分断された心の冷ややかな言語操作上の機械的な規則性である。この規則性は時間とともに変動し変調することがない、固定的なものである。

まあ、こうした面倒な話を続けるのも良いが、難しくなるから止めほうが良い。ランボーの詩はただ単に読んで楽しむのがいい。それにしてもこの「ランボー全集」は厚い。持ち運びなどせず、寝床だけで密かに楽しめということだろうか。注釈のない薄い本もぜひ出版して欲しいものである。

以上

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。