夜空は青色

題:最果タヒ著 「夜空はいつでも最高密度の青色だ」を読んで

著者の小説「星か獣になる季節」はとても良かったと記憶している。本書も映画化になったとのことで読むことにした。ところが、小説ではなくて詩である。なんて馬鹿なんだろう、映画化は小説をもとにして行われるとの先入観に支配されていたのである。それにしても映画の製作者はイマジネーションに富んだ人なのだろう。著者の詩は「グッドモーニング」と「死んでしまう系のぼくらに」を読んでいる。「グッドモーニング」は怒りに満ちていて良かったが、「死んでしまう系のぼくらに」は端的に言うと軽質な詩である。無論、言語感覚は鋭くて良い文章も結構あるのだが、言葉を流した軽さを表層として描いている。詩人の本質は幾分謎に包まれていたけれど、怒りは消失してしまい、軽さの表面から意味のある深部に降りて行かないのである。

本書「夜空はいつでも最高密度の青色だ」も「死んでしまう系のぼくらに」と同じことが言える。ただ、一つ違うことは、縦書きの長めの詩は良い。この長めの詩は稀有な才能を感じさせる。でも、横書きの短めの詩が在り来たりで単に言葉を綴ったとしか言えない。この本を読む前にレヴィナス著の「存在の彼方」へを読んでいることが影響しているのかもしれない。「存在の彼方」は哲学書でありながら、とても長い永遠に続くかと思われる長編詩とも言える。この本を読んで圧倒されているところに、「夜空はいつでも最高密度の青色だ」も読んでも釣り合いは取れない。なお、本書は44編の詩からなり、その中で、7、8編が良かった思う。そのなかでも「夏」、「聖者のとなりにはいつも狂者がいる」が良かったと思う。激しい怒りに満ちているためである。なぜ、こうした激しい怒りの詩を著者は書かないのだろうか。怒りの詩で思い出すのはランボーであるが、著者はもうランボーのような人生の反抗期を過ぎ越してしまったのであろうか。

著者の多く使用する単語「愛」、「孤独」、「きみ」「わたし」、「暴力」、「星」などの単語を拾って「集中化と拡散」、「粘着質と静音化」、「無化作用の意味」、「暴力性の隠ぺい」、「抽象化の変質」、「リリシズムの涙」などと題して論評も可能であるが、著者の表す意味の深部を理解できないために止める。もしや著者は憂愁や悲哀や孤独な潔癖性に、暴力的な残酷さを織り交ぜて意味のある言葉を使用し、意味の表層を語っているだけなのかもしれない。もし無意味の意味を語ろうとするなら、意味のある言葉と文章を、否定し打ち消して抹消する文章も加えて記述しなければならない。この付加されるべき文章がなくて、単に意味を含んだ言葉で綴られているために表層を描いた軽質な詩に見えるのかもしれない。「あとがき」にレンズのような詩、あなたの中にあったものをあなた自らに見せる詩を書きたいと言っていたが、わたしの裸の言葉を見せることであなたに共感して、もしくは拒絶してもらう詩を書きたいと言っているのだろうか。わたしの裸の言葉そのものが鏡になってあなたを映すことができることも確かなのである。

これ以上長く書くことはせずに著者の詩を読んで感じたことを簡単に箇条書きにしたい。そして、レンズのようではない不透明なとても泥臭い即席に作った詩を紹介したい。私はまだ反抗期にいて何事にも反抗したいのである。これは「聖者のとなりにはいつも狂者がいる」をもじったものである。なお、著者の詩を読んだ感想を箇条書きにすると以下のようなものになる。
1) 言語への信頼性がある。言語の全体が意味を持ち伝えることができると信じている。そして、確かに何かしら伝わってくる。
2) この言語は表層を表す静的なものである。白石かずこのような動的なものではない。波動力学的な躍動感を持たない。谷川俊太郎のような軽質な配置転換的な性質を持っている。実はこの表層の静的な言語が深層を覗かせて、谷川俊太郎とは異なって深層があることを指し示している。
3) 静的な詩が逃げるのではなくて生を責めている。生を責めて追い詰めようとする。言語の全体が肉体を失せさせ、魂の内なる形相を表そうとする。でも、魂の内なる形相の意味を表そうと言葉が懸命にもがくほど、著者が意識しているかどうか分からないが無意味性が明らかになる。
4) 魂の内なる時間と空間が歪であり抒情を含んでいても、無意味性が明らかになろうとも、著者の文章はそのためにこそ、むしろ正統な叙事として魂の軌跡を的確に表すことができる能力を持っている。ただ、その能力は秘められたままでまだ表れていない。
5) きっと心の叙事的な叙事詩、それも長編詩が、もしくは小説形式こそが一番著者に適切な表現形式となる。つまり、魂の表層を長い文章で綴れば逆に無意味性が意味を持ち浮き上がってきて、読者により多くの感動と共感をもたらすことができる。

さて、泥臭い詩は次のようなものである。

あなたの背後には人魚がいる

性別も何もない、生きも死ぬもしない、死んでも生きている、亡霊のように格好よくはないが、あなたがまだベッドの上に寝っ転がっていたときに、ぼくは魔法瓶からピンク色の産湯を飲み込んで、溜め込んだ水量を、美しい概念のように、胃の底から搾り出した絵の具のように、意識の底に蠢いている泥水のように、嘔吐する血色のように優しく降り注ぎたいんだ、あなたにそうする夢を見ている。

庭先の木綿色に咲いた花はあなたの化身だろう、聖なるあなたの裸身が目に浮かぶ、どうもベッドは肉色をしてあなたを庭先に放り投げだしている。海の底から人魚が現れてきてあなたになりたいと望んでいる、人魚は庭先のベッドの土の中に眠る、いつも波音を聞きながら、人魚はあなたとなって眠っている。あなたが人魚なのではない、人魚があなたなのである。

ベッドから爽やかに唄う、セーレンのようなあなたは船員たちを虜にする、きっと土の中でも人魚が唄っているだろう。誰がどのように唄おうとも、船員たちは気もそぞろに人魚なるあなたの美しさに焦がれて、遠くから見詰めている。聖なるもの美しさは声の響きとなって水平線を超えて青い宙の彼方を超えて、どこに行くのだろうと考えることもできない遠くの果てへ届くのか、ぼくはただうっとりと聞いている。

どこにも誰もが70億人の人間も含めて庭先に押し寄せてくるのは午後の曳航、愛を捧げるために押し寄せてくるのは単語と数字の列、あなたは真昼の照り返しを受けながら仕分けをしている。肉と数字を土の中に埋めてあなたなる人魚が抱くと、忽ち溶解する粘液がこの地に流れて木綿色に咲いた花の栄養分となる。あなたはますます美しくなり声の響きがますます清廉さをまして、青い宙の彼方からも70億の70乗もの生き物がやって来る。

あなたはベッドに横たわりながら人魚にこれらの生き物を溶解させて青い宙の彼方を眺めている。ますます美しくなってますます清廉な歌声は誰をも魅惑しようとも、いつしかもう一人としてやって来ない日が来る。あなたは白いシーツの上で裸身をくねらせながら蕩けた肉と数字の孤独な列を指で掬っている。舐めると淫猥な味がする、あなたの淫らな指をぼくが舐めてあなたを唄わせたい、けれどあなたはくねって寝返りを打つだけである。

ぼくが居ることに気付いていない、あなたは曳航の終わりの訪れを知ってか、土の中に誂えたベッドの中で眠ろうとする。聖なるあなたを人魚と一緒に抱き締めたい。ぼくは愛しているのである。でも、あなたはもはやこの青い宙には誰も居ないことを知って、ぼくがこの庭から覗いていることも知らない。虫けらやミミズとしてでもベッドの傍にいたい。でもあなたはもはや背後の人魚を抱いて粘液の海に浮かんでいる。

もう眠る時刻であるのだろう、粘質の海は人魚なるあなたを果てのない彼方に運んで、眠りの中に偽りの着衣を身につけさせて、そうして少しずつ剥いでいる。あなたの意味を無意味さも明らかにするために偽りを剥いで素裸にすると、人魚は脚を出すのだろうか。あなたの脚は美しくて、隠しておくのはもったいない。もう唄わずに声は漏れずに静けさだけがあり、白く艶やかな脚が一本ベッドに投げ出されている。

読み直してみると、やはり泥臭いしあまり良くない。あなたと人魚の諸関係が描き切れていないし、生き物の表現も不分明である。反抗とは難しいものである。

以上

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。