見出し画像

題:天沢退二郎著 「光車よ、回れ」を読んで

天沢退二郎は詩人である、以前彼の詩集を読んだときは良かったと記憶している。ところが結構小説も書いているのを知って選んだ一冊である。読後感は、幻想的な児童文学であり、現実と想像が混じり合った大人向けの軽い読み物である。結構、冒険小説や探偵小説の要素も含まれていて、大人も楽しんで子供の頃を思い出しながら読むことのできる小説である。

「現代詩文庫11 天沢退二郎詩集」を久しぶりに少し読むと、直接的に言葉を発しながらその言葉はイメージを拒絶している。もしくは断片的にしか浮かばせない。ただ、その拒絶した個々の断片化された言語を通じてある種の総体的なイメージが浮かんでくるのである。このイメージは空間的に鮮やかに浮き上がらせるのではなくて、脳髄や知覚器官に浮かんでいるはずと錯誤させるもので、何もありはせずに、イメージがあると感じさせるだけの詩が多いことに気づいた。つまり断片化された言語がいつの間にか、幻想ともイメージとも言えない総体的なある種の感覚を刺激し励起させて何かを感じさせていたのである。こう言っても分かりはしないに違いないので、あとで文章を引用したい。

「光車よ、回れ」は詩文とは異なって、大人でも子供でも読むことのできる簡単な普通の文章である。あらすじは、生徒たちが瀧子なる芯の強い少女を中心としてグループを作る、一郎はこのグループに加わる。そして、敵と戦うために三つの光車を探し始める。敵はどうも二組いる。黒い大男を従えた水魔神と緑色の制服を着た者たちの二組である。水魔神は釣り針で愛しい女の子を失っている、このため釣り針を逆に武器にして針を飛ばして来るのである。緑色の制服たちは、なにやら不気味に大勢いて、人をさらったりする。瀧子たちは空いた工場をアジトにして敵と戦いながら光車を見つけ出していく。一郎の大家のおじいさんや瀧子のおじいさんが地霊文字で敵から逃れる方法を知らせるなど支援してくれる。オモテとウラの世界が出現したり、水流が途方もなくあふれ出たり、水溜りに水死体が生じたり、現実を超えた世界が幻想的に描かれている。遂に、瀧子たちは三つの光車を集めることができて、襲おうとする敵と戦うのである。三つの光車の威力に水魔神は負けてしまう。緑色の制服を着た者たちは見かけなくなる。こうして物語は悪との戦いに勝つことができる。ただ、瀧子やおじいさんはどうなるのか、一郎も含めて、皆日常の世界に戻ることができるのであろうか。

ここで本書「光車よ、回れ」の解釈などしても意味がないため、天沢退二郎の本書に拘わると思われる詩と散文の一部を紹介して終わりとしたい。

――詩の一部の引用――
    影

追われていてあるときぼくはふとまっ黒な家の前に足をとめた。その石はソプラノサックスの臭気を晴れた空へ放ちながら表面全体に川を流しつづけていた。晴れた――といっても空にはきみの骨たちがちらばり勃起した太陽の肉腫に完結しない断章がくりかえしあらわれ音もなくぬれていた。ぼくはその家に入れば隠れおおせると思っていたわけではない。ぼくの後頭部は燃えていたが心臓にはたえず水が滴っていて人間たちの手の握力のとどくはずはなかったから、しかしその石に四肢で抱きついて血まみれになることはぼくの逃走のためでなく、未来のあらゆるものとの婚姻のためあるいは少なくとも交接のために必要であるとぼくの舌は直感したのであるが・・

――「現代詩の倫理」の一部の引用――
詩がつくりだす世界=詩的現実は、日常的現実の向こう側にオーバー・ランして「すべて」に対して開かれる非日常的日常の原形質性空間であり、ぼくらの詩がかち得るはずの力は、そのつくりだした非現実空間の深さ、その深さがもつ、オニリックな力学構造の反動力、それにぼくらが与えることのできる秩序の質にかかっている。・・

こうしてみると、やはり「光車よ、回れ」は現実と幻想が、非日常的日常として描かれているのが分かる。天沢退二郎のこの空間は、昨今ではだいぶ変質しているようである。即ち、変質というより空間そのものの存在が日常、非日常に拘わらず問われている。即ち泉鏡花が非日常的な異界なる空間を描きながらも、もはや異界とは失われている。空間は時間の元にこそ解明されるべき日常なのだろう。空間は日常的に在りながら短縮も拡大する、以前ならば異界と言っても良かったが、異界よりも時間に付き従い変幻自在に姿を変貌させているのである。蛇足ながら、「光車よ、回れ」の最初のページにはその真ん中に、ただ「フーコーに」と書いてある。フーコーは人間の未来に対して幻想など持たずに悲観的だったと記憶しているが、天沢退二郎がフーコーに捧げる真意は良く分からない。

以上

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。