マラルメ詩集

題:マラルメ著 渡辺守彰訳「マラルメ詩集」、マラルメ著 秋山澄夫訳「イジチュールまたはエルベノンの狂気」を読んで

マラルメの詩集は加藤美雄訳「マラルメ詩集 世界の詩31」を持っていたが、難しくて読まなかった記憶がある。読んでみてなぜか怖くなったことにも起因している。今回新しくマラルメ詩集が発刊されたと知って意を決し読んでみた。なお本書に「イジチュールまたはエルベノンの狂気」が無いと知り、別途この著作物も入手して読んでみた。これらを読んだ第一印象は難解であるが、沈潜する暗黒の内に虚無をも内包して、狂おしさに裂かれた思索が半獣神となって処女に付き纏うとも、付き纏われるのは処女ではない半獣神なる精神を生み出す言語そのであって、極度に怯えて存続と墜落を望んでいても思索を生み出さずにはいられない、この言語思考の鏡像が黒々とした闇の内に反射している。終わり尽きることもないこの夜が、自らの思索が、闇を黒く照らして、終わることのできない徘徊を続けて、清廉な処女を獣神の生贄として捕獲するために執拗に追い駆け続けている、黒々として沈潜するこの夜の闇への深い信仰を描いているのである。信仰とは進行であると共に停止であり、静寂でありながら蠢く闇であり、もはや望んでもいない終焉を、最後の期待の到来を、もはや無垢を奪われ純粋に言語の亡骸となった処女の到来を椅子に座りながら待っていることである。麗しい生きた処女なる言語が寄り添ってくることを待っていることである。ここまで書いて読み返したが、こうした文章がマラルメを理解したことになるはずはない。そこで、ブランショとドゥルーズの文章を少し引用して、理解に役立たせて感想文を幾分飾らせたい。

モーリス・ブランショの「文学空間」にて論じていたマラルメ論では、『言語が、全体の持つ現実性しか持たぬことを意味する。つまり、言語は全体であり――それ以外の何物でもなく、常に全体から無へ移行しようとしている。本質的移行、言語の本質に属する移行だ。なぜなら、語においては、まさしく、無が活動しているからだ。周知のごとく、語には事物を消し去る能力がある、消え去ったものとして出現させる能力がある、・・語が消え去るという事実によって語から光を引き出すあの動きを通して、結局は不在へ立ち戻る現存だ。暗さを通しての明るさなのだ』ただ、これはマラルメについて論じたほんの一部にしか過ぎないことに注意されたい。ブランショのマラルメ論はとても長くて読み応えがあるけれども、詩文で書かれていて良く分からない箇所もある。

ドゥルーズの著作物も探したところ「ニーチェと哲学」においてマラルメを論じている。ニーチェとマラルメの類似点として骰子論を記述しているのである。結局『偶然は、否定されるべき存在の如きものであり、必然は純粋な観念や永遠の本質という特徴をもつ。従って、骰子ふりの最後の望みは、自分の叡知的モデルを彼岸の世界の中に見出すということであって、この世界は、必然を「或る空虚でより高次の表面に」引受ける一つの星座であり、その世界には偶然の存在する余地はない。結局、星座は骰子ふりの産物というよりは、骰子ふりが極限へと、つまり彼岸の世界へと移り行くことである』と述べている。なお、ドゥルーズやガタリにとってアントナン・アルトーから思想の源泉を得ているのに比較し、マラルメの果たしている役割は少ない。あくまでニーチェ論の一部としての記述である。アントナン・アルトーはマラルメの半獣神の思想から、即ちエロディアードから相当影響を受けたようである。そういえば「ヘリオガバス または載冠せるアーキー」もマラルメから影響を受けた著作物であるのかもしれない。彼等の著作物を読むと、マラルメが沈鬱に沈潜して知的な人物であるなら、アルトーは狂気を発症した病的な人物であるに違いないと思われる。

 渡辺守彰訳「マラルメ詩集」を読んで訳文の難しさを感じた。本文に忠実であるほど分かりにくくなるのである。主語+動詞+目的語などに修飾語なども加わって複雑な文章を、渡辺守彰訳「マラルメ詩集」ではたぶん忠実に訳しているのだろう。目的語や補語が後ろに記述されていて瞬時に何が書かれているか判断できないことがある、というより過半が読んで言葉の関係性を見失ってしまうのである。そして主体が薄れている。こうした詩集は初めてである。秋山澄夫は『わたしの訳文に、主語・述語・補語関係が文明を欠く個所がままあるが、原文にてまさにそうなのであり、あながちに訳者の未熟とのみ断定されないようにおねがいしておく』と述べている。加藤美雄訳「マラルメ詩集 世界の詩31」では通常の文体で書かれていて、主体を明確した文章は理解しやすいけれども、少し物足りない。また、鈴木信太朗訳「マラルメ詩集」はこれらの本の中間であると思われる。ただ、文章は古文調である。無論、渡辺守彰訳「マラルメ詩集」が一番良いはずであるが厚くてかつ理解しにくいため、鈴木信太朗訳「マラルメ詩集」を現代文に変えれば一番良いと思われる。次は渡辺守彰訳「マラルメ詩集」の(注)を割愛してかつ「イジチュールまたはエルベノンの狂気」追加した本が欲しいと思う、主語に目的語や補語などが倒置されていたとしても慣れれば読むことができるのである。(注)は一般読者である私にはそれほど必要ない。詩集はランボーの「地獄の季節」のように薄いのが良いのである。ただ、研究の成果は別途(注)付きの本を出すのが良いと思う。

なお、何年か前、マラルメ全集が出版されているはずであるが、この全集には目を通していない。また、「イジチュールまたはエルベノンの狂気」は散文詩であり、草稿であったものをなんとか筋道を立てて出版したものである。イジチュールとは内部が悉く鏡でできた城、『マラルメの<城>』と秋山澄夫は述べている。それにしても詩を訳文に頼り、原文で読めないとはつらいものがある。マラルメ、ボードレール、ランボーを論じたいが準備不足であり、マラルメは1842年、ボードレールは1821年、ランボーは1854年の生まれとだけ記しておこう。論じるにはブランショが述べている、言語は『常に全体から無へ移行しようとしている』というマラルメに対する言語論、これはブランショ言語論でもあるのだが、この再吟味が必要である。言語の無化作用ではない、有化作用、即ち言語の伝達性を論じることでもある。

以上

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。