星かけものになる季節

題:最果タヒ著 「星か獣なる季節」を読んで

この「星か獣なる季節」の、月並みに平凡に幼くて、でも屈折して抗いながら折れそうに繊細な心を、示唆に富んで描く文章そのものが、この文章が描く青春そのものがとても好きである。ライトノベルとは思えない、味と深みがある。17歳の感情と行動が繊細にかつ果敢に展開されている。著者の実感からなのか、観念ではない実在的な重みが作品の底に敷き詰められていて、ラトノベル的な五人の殺人事件を起こさなければならなかった青春の心と行動を描く小説として堪能できる。その筋書きも緻密さに満ちている。無論、若干の小さな欠点があるが述べることなど必要ない。更に、本書は「星か獣なる季節」が前半部にあたり殺人が起こるあらましを述べている。「正しさの季節」が事件後の生き残った者たちの思いを描いている二部構成で、小説全体の構成的な仕上がりも、カミュ作{異邦人}と同様に完璧といえる。でも、こう言っても分かりはしないだろう。それには他の同様な作品と比べるのが分かり良い。でも、この手の作品は吉本ばななの何かしらの作品、川上未映子の「ヘヴン」くらいしか読んだことがないのでそれらを参考にしたい。

ただ、吉本ばななの作品は純に青春小説的な青春を描いた作品だったと思うし、川上未映子の「ヘヴン」は明らかな失敗作である。これらを比較対象にするのは何か気が引ける。でも、読んだ当時の感想文は正直なはずで、あるかと思い探してみたら、吉本ばななの作品はなかったが、「ヘヴン」は若干書いていている。もう十年も前の偽りのない感想である。加筆修正して柔らかく論調を修正して掲載するするつもりが、かえって幾分批判の論調が強まったかもしれない。

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以下、約10年前に書いた「ヘヴン」の感想文である。文章は若干修正されている

内容は簡単に述べると斜視の少年とダザイくて汚い女の子(ロンパリと生ごみ)とが苛めにあう話である。書評ではこの苛めを通して、哲学的世界が広がっているように書かれていたが、あまり期待していなかった。その通りにありきたりのお話のように思われる。明らかに意図する所が表わされていない。というより、著者の資質そのものが通常の日常的感覚から派生して、日常の表面を撫でさすっているだけと思われる。川上さんには期待していて残念なことではある。

天国も地獄もここにある、ここがすべてだ。こうして僕たちにゆく場所もなく、ただひとつの世界しか生きられない、選べる世界などない、ということが著者の主張だと理解している。つまりこの現実は耐えて生きていかなければならない、その通りでそれ以上何も述べることはない。当り前のことを述べているに過ぎない。斜視の手術をし終えたあとで見るこの世界が、ただ美しかったとは、架空の世界ではないこの現実である。この現実に著者は美しさも含めてある種の奥行を持たせようとしているのだろうか。私はもっともっと、この現実の歪みを、斜視を通して極度に歪ませて欲しかった。この現実を、文章に行動も含めて鋭利に乱雑に破壊的に記述して欲しかったのである。

ありきたりなこの現実の表層上に彼女は立脚している。斜視の目に映る世界がピカソの絵のように、相対性原理の時空のように、この歪んだ現実が表現されることを期待していたのである。これらが描き切れていないことは読む前から薄々感じていたが、歪み狂うこの現実の上に立っていない観念的な悩みでしかない、そのようにしか描き切れていない作品である。観念を織り込ませて作り上げた小説は、よほどの技量がないと読者を納得させることはできない。文章が空回りして文字面だけを追って読者は小説の中に入っていけないのである。

細かいようだがこの「ヘヴン」には「涙」という言葉が何回でてきただろうか。その数の多さ。僕もなぜか中途半端に描かれていて優柔不断である。もっと悩ませたらいい。コジマの肉体にもっと悩んでもいいし、苛める奴らを殺すことに悩ませてもいい。その他は省略。
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つまり「ヘヴン」は「いじめ」という観念を小説化しているのに対して、「星か獣なる季節」は観念と言うより、17歳の多感な若者の感性を小説の題材にしている。今思うと、もはや記憶でしかないが、「ヘヴン」は「いじめ」られる側を描こうとしたが、著者はむしろ「いじめ」る者の方が好きと思われる。結局、作品が作品の目的と内容を違えて表現されているために実感が乏しくなっている。むしろ徹底した「いじめ」を描き切れば良かったのである。最後の男女の場面は、傘の柄が二人を突く刺し通すくらいに徹底しなければ「いじめ」なる悪は描けない。著者の思い描こうとした観念を著者の文章そのものが裏切っている、それ以上に自らの悪への嗜好を明晰に観念として把握していなかったために生じている。この悪を認識して描こうとすれば相当な倫理の欠如を要求する。でも、著者の文章が裏切って倫理の欠如を表現できない。著者は観念として温め育ていていた悪を捨て去るか、悪そのものから逃げ去るしかないのである。このように「ヘヴン」は観念に基づいて書いた観念小説でありながら、観念を深めることができずに、どうしても半端な拵え物になっている。

それに対して「星か獣なる季節」は17歳なる多感な感性を描こうとして、現代的な地下アイドル、憧れに恋、学校での男女の機敏な振る舞いなどを、5人の殺人事件をポップに含んでいながら真実味を持たせている。これは著者の感性が若者に寄り添っているために、むしろ著者自身の思いなのか、いかに殺人事件が馬鹿々々しくとも、17歳という星か獣になる季節、できそこないの季節の正統な悩ましさを、表層であっても描き切ることができている。無論、機微に短文にて区切り、単語などを配置転換させるなどの言語表現が小説全体の表現を下支えているのはいうまでもない。著者がこの小説で訴えていることにとても関心がある。それは現象を、出来事を見る目の空無さである。一文だけ引用する。『ただわかるのは、だれも正しいわけじゃない、間違っているわけじゃない、そんなことはどうだっていいんだ、ということなんだ』(142頁)

この文章は心の拠り所とする倫理からの明らかな逸脱を示している。「どうしようもなった」のではなくて、「そんなことはどうだっていいんだ」とは絶対的に確かな拠り所とする倫理などありえない、心から追い払われていることを示している。無論、行為としての表現は殺人を犯してもその具体的な描写は殆ど何も書かれていない、でもこの文章が表現することは正しいだろう。つまり、心や行動は常に機微に動いて渦を巻いて反転し強弁する、心そのものを描いているためである。著者はこうした機微な17歳の心の運動を必死になって綴ろうとする。こうした著者の態度と感性が心の絶対的な支え所を失った若者たちに支持されていることはなんら不思議ではない。

著者の表現は、大人へ潜り抜けなければならない年齢があるなら、その移ろいゆく齢の季節を描いている。この季節は軽蔑すべき季節である。先に述べたように本小説はそれほど甘くはない。ある種のニヒリズムが流れていると思うのは錯覚なのだろうか。デカダンやシニカルな小説以上に、ライトノベルながらニヒルさを潜ませている。直感ながら、この虚しさは、17歳を過ぎても、37歳を過ぎても、57歳を過ぎてさえ纏わり付いているだろう。なぜなら、著者は若者の心理を描きながら、むしろ年齢を無関係に人間に寄り添う感性を持っているためである。すると軽蔑すべき季節は、根を持つ落葉樹であっても、移ろいゆくたびに季節などあらかた失って、根無しの枯れ木になる。ニヒルさは常に深まって行かざるを得ないためである。ただ、著者には深めようとせずに表層を徘徊する何らかのジレンマも持ち合わせている。もしかすると著者は哀愁に媚びてエレジーに陥ることをせずに、ただ生きることの切なさを切々と書いているのだろうか。根源的な深みへの到達をどうも拒否している、この深みとは登場人物の本心の表出である。登場人物はこの深みを果たして持っているのか、持っていて隠しているのか。心の奥底に隠されているとしたなら、ニヒルさなのか、人間への切ない感情なのか、むしろこの感情の枠内に押し込めようとする抑圧する力、もしくは解放する力なのだろうか。この辺りは著者の資質の根源に触れる問題であり、これら各種のバランス性とともに、著者の作品を読み進めていけば明らかになってくるかもしれない。

「ヘヴン」が天国を約束しているならば、「星か獣になる季節」は救いようのない地獄を約束する。でも、著者はこの地獄をこそ楽しみ、言葉に情感の正義と律動の賢しさを装わせて、すこぶる滑らかな筆使いで、幾分歪ませた文章を懸命に綴っているに違いないのである。この「星か獣になる季節」にこそ何らかの文学賞をあげたい気がする。果たして貰っているのだろうか。

以上

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。