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ワークショップやセミナーについて考え直す

今日のテーマはセミナーやワークショップについてです。私も時々興味本位で参加することがあります。あるいは、会社員時代には、キャリアのビジョンを見失って途方に暮れていたときに、何かきっかけはないかと思って縋るような気持ちで参加したこともありました。しかし、次第に足が向かなくなりました。当時から、セミナーやワークショップに参加すると、強い違和感を感じ、いたたまれないような居心地の悪さを感じたのです。今日はその違和感を解き明かします。しかし、それでもなお、セミナーやワークショップという形式によって「主体の変容」を試みることは必要なのだという話に繋げたいと思っています。

セミナーの欺瞞的風景

まず、私が観察したセミナーの風景を述べます。そこでは自信満々の声が大きい講師がいて、自己紹介の時に「営業成績全国1位でした!」みたいな掴みから始まります。リクルート出身で小さな人材会社を経営しているような人がやたら多かったです。

セミナー講師は子供だましのような薄っぺらい理論を滔々と述べます。古典的なアドラーの「5段階欲求説」のようなものです。セミナーの目的は「あなたにもできる!」という強いメッセージを伝えることにあるので、そのために都合の良いデータや学説を選んで紹介していることは明らかでした。強い政治性を感じる空間でした。欺瞞的な議論が大嫌いな私には到底受け入れがたい話でした。セミナー講師はまさにソフィストであり、扇動家です。好感を持てません。

しかし、驚くべきことに、そんなご都合主義のお話を目を輝かせて聞いている参加者がいるじゃありませんか。ニコニコしながらウンウン頷いています。オイオイ…。

セミナーの合間にワークショップが行なわれることもあります。隣の人と対話したりします。やはりというべきか、精神的にあまり健康でない人が多いんだなあと思いました。また、批評的な知性を持っている人も少ないです。素直に信じる、信じたい、そんなメンタリティの人たちでした。

わざわざ時間をとって、場合によってはお金も払って参加してくる人たちです。始めから信じたいと思って来ているんですよね。だから講師のほうもそれに応えるべく、断言調の話し方になるのでしょう。

私の目から見れば、それは健全でもないし、知的でもありません。くだらないゴミのような場です。以上が私の観察です。当然、私はセミナーやワークショップという形式の「学びの場」に対して否定的な評価をしています。

それでもセミナーは必要だ

セミナーやワークショップで目指すものは、単なる知識の伝授ではなく、参加者の「主体の変容」です。私たちが行き詰る原因のほとんどは人間関係にあり、それはロジカルな問題解決思考だけではどうにもならない「適応課題」です。つまり、現在の適応状態(安定状態)そのものに問題があるのであって、まったく新しい別の状態へと適応し直さなければならないのです。現状維持の引力に打ち勝って、別の安定点まで飛躍しなければなりません。そのためには、考え方も変え、習慣も変え、認知・認識の癖まで変えていかなければなりません。(認知行動療法に似ていますね。)このような「主体の変容」を実現するための仕掛けとして、「講師」という疑似的な権威を利用したり、「場」の力を梃子にしたりするのがセミナーの本質的な存在意義なのでしょう。

大なり小なり、参加者の心理的な「勘違い」を利用しているといえます。そこが私が引っ掛かるところで、道義的に不正な方法であるように思ってしまいます。とくに企業研修の一環として行なわれるセミナーには、どのような方向に参加者の主体を変容させるかという意図が感じられるので、ますます不信が増します。これは「コーチング」についてもまったく同じことが言えます。

ただし、もしセミナーが参加者たちを特定の方向に誘導するものでないならば、意義を認めても良いと思うのです。既存の人間関係のしがらみによって完全に行き詰っている参加者たちに、メタな視点に気付かせ、別の適応状態がありうることを直感し、できることならそのイメージを育ててもらう。そういう仕事には教育的な価値があると思います。

ワークショップを成功させるためには優れたファシリテーションが必要だと言われます。たとえば哲学カフェの小川仁志、本質看取の苫野一徳、臨床哲学の本間直樹などが言っています。たしかに有能なガイドがいなければ、一般市民同士が自由にお喋りしたところで何も生まれないかもしれません。しかし、ファシリテーターに権力が集中しすぎる問題があります。ですから、参加者はあらかじめファシリテーターについて知っていて、その能力や良心が信頼に足ると判断した上で、その場に参加するべきでしょう。

私は家庭教師ですから、マンツーマンで生徒と話しています。それもセミナーのような一期一会ではなく、定期的に、数ヶ月単位でじっくり付き合います。こういう指導環境であれば、あえてセミナーやワークショップのような仕掛けを用いなくても、主体の変容を促すことはできるだろうと思います。つまり、私というまったく異なる適応をしている主体を見ることによって、自然と気づくことがあるはずなのです。これまで自分が当たり前と思っていたことが、案外そうではないのかもしれないと。

そう思っているのですが、これが思いのほか子どものアンテナは鈍いもので、待てど暮らせど全然気づきません。他人のことなんてろくに見てないんですね。そうなると、もう少し意図的な仕掛けを施さなければダメなんじゃないかと最近は思い始めています。マンツーマンで対話しているだけでは、核心的な話になればなるほど聞き流されてしまいます。いろいろなワークをさせてみたほうがいいような気がします。

ワークショップのテクニックやコーチングの声のかけ方など、小手先の技にこれまで私は興味がなく、より本質的な教育哲学の錬成にのみ注力してきました。しかし、伝わらなければ意味がありません。論理や言葉では伝わらないことも多いです。もう少し、ゲーム性のあるワークを通してちょっとした気づきを促すとか、生徒に考えさせるような上手い質問を投げかけるとか、そういう技術にも目を向けた方がいいのではないかと思うこの頃です。



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