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「余白」に生きる。「余白」に生かされる。

HIROBAの新しい企画、「余白」から。

「余白」について考えを深めていこう。

「余白」とは…?

そもそも、「余白」とは何だろう?

記事の中では、ものづくりの余白として、いろんなものが挙げられている。

歌においての余白は歌詞の”行間”であり、メロディの”休符”
建築における余白(=空間?)
デザインにおける余白(=空白?)
演奏における余白(=グルーブ?)
小説における余白(=読者の推理?)
漫才における余白(=会話の間?)
法律における余白(=法律の運用?)

まあ言われてみれば、余白なんだが、よく考えると、余白ってなんだ?

余白とは、何もないこと?

でも、歌詞の行間は、確かに文字は何もないが、そこに聞き手はなにかを感じるわけで。何もないけど、何かある。
デザインの空白も、その空白を含めてデザインが構成されている。何もないけど、何かある。

では、身近な話に落とし込んで、大学生にとって「余白」とは何なのだろう。

遊びだろうか?じゃあ、遊ぶように楽しく研究すること、それは「余白」だろうか?
それとも、一人で何もせずぼーっとしている時間だろうか?
はたまた、大学時代は〝人生のモラトリアム〟と呼ばれるぐらいなのだから、大学生活自体が「余白」なのだろうか?

逆に、「余白」に対置されるものを考えてみよう。真っ先に思い浮かんだのは、就活である。余白とは縁遠い存在のイメージ。スケジュール帳がいろんな会社名で埋まっている様子が思い浮かぶ。

では、そんな就活から「逃げる」、あるいは「サボる」ことは、「余白」か?
「サボり」というとマイナスなイメージだが、「余白」というと、なんかいい感じ。
〝僕は今、就活の代わりに「余白」を生み出しています!〟

はい。ここまでうだうだ書いてきて、結局「余白」とは、「目的性」が想起されない存在のことなんだと思う。

<何かの目的のために行動する>、それはある意味前進しているということだ。目的というゴールに近づくことだから。
一方で、この社会、目的のない存在が極めて少なくなってはいないだろうか?

あらゆるものが、何かの目的のため、そしてその目的を果たす手段の一部として動いている。例えば、子どもの遊びでさえ、「○○の知能が伸びる!」といううたい文句のもと、子どもの外部に目的が置かれている。

すべてが歯車の一部として動いている感じ。
もっと物事が目的から外れて、偶然の出来事に価値が置かれてもいいのではないか。

歯車から外れてみるのも、この社会で生きるには大事なことなのだな。それって、いわば「自己完結」。”ただただ楽しいから”、”自分が満足しているんだからそれでいいじゃない”、そんな思考が、歯車から人を開放し、目的にとらわれない「余白」を楽しませてくれるのかもしれない。

そんな余白を楽しんでいるとき、幸せな偶然が舞い込んでくるんだろうな。

「余白」について考えていたら、今の世の中が目的という名の歯車にがんじがらめにされていることを痛感した。

言葉のなかの「余白」――「余白」とは、愛だ。

言葉とは、抽象的すぎると意味がわからず、具体的すぎると全体像が読み取れない。

「余白」と抽象。同じようで、どこか違う。

抽象的でもあり、具体的でもある言語がある。それは、プログラミング言語だろう。情報の送り手と受け手で全く同じ情報が共有される。細かい部分の意味も伝わり、全体像も伝わる。

では、プログラミング言語と人間の言葉は何が違うのだろう。
それは、受け手の受け取り方だと思う。

プログラミング言語では、受け手が何であっても同じ情報を受け取る。
一方で、人間はたとえ同じ日本語を話す人でも、受け手によって言葉の受け取り方は異なる。

いわば、<「増田叶夢の」日本語>、<「水野さんの」日本語>のように、同じ日本語でも、実際違う言語を話しているようだ。

そんな人間の言語の中で、「余白」は、どんな役割を果たすのか。

水野さんは、記事の中でこうおっしゃっている。

ガーッと感情が盛り上がったときには、「好き」は「好き」でしかないんですよね。細かいことは本人がわかっているから。クラスのA君を好きになって、今までは友達としての距離感だったけど、一歩踏み出すことができて、彼の特別な存在になれたときの「好き」なんだとか。でも、その子は多分、これまで人生で味わったことのないその感情を「好き」っていう言葉でしか言えないわけですよ。だからこそいちばん強いというか、濃い。それを周りが説明しちゃうと、興ざめしちゃうんじゃないかなって。僕はそういう感情を持ち上げてあげるというか、包んであげる感じになるような「余白」を意識して、歌を作っていますね。

感情を「伝える」のではなく、「持ち上げてあげる」ための余白。

人間の言語である以上、伝えようと思ったことの100%が伝わるわけではない。思いを言葉にした時点で、伝わらない部分が出てくる。

だからこそ、受け手の感情を持ち上げてあげることで、言葉が意味を持つ。

細かいことは本人がわかっているから。」―相手を信じている。

それはもはや、「自分の思いを伝えたい!」を超えているのではないだろうか。
相手に寄り添う、相手のための言葉。言葉で愛を送る。こういうことか。

今の僕にはそれはできないな。「伝えたい!」という気持ちがやっぱり言葉に出てしまっている。

「伝えたい!」という思いを実現するには、相手を信じることが大事なんだな。
自分の思いを満たすためには、他者に貢献しないといけない。よくできた世界だ。

おそらく、相手を信じ、相手の感情を持ち上げられるスペースとして言葉に含ませるものを、「余白」というのだろう。

「余白」とは、愛だ。

ちなみに… 僕の感じるいきものがかりの「余白」

アフタートークです。僕の感じるいきものがかりの楽曲の「余白」について少し語らせてください。

今回のHIROBAの記事を読んで、いきものがかりの「ぬくもり」が思い浮かんだ。

作詞作曲は水野さんではなく、山下さんなのだが、僕はこの曲の余白に思いを持ち上げられた。

この曲を聞くと、いつも中学校の帰り道のあの細い道を思い出す。
一人で、しっとりと歩いている。あたりは薄暗くなり始めている。物寂しいけれども、どこかあたたかい。

ふるさとに咲くはずの淡い花
何故だろうその花の匂いがした
確かなことなど何もないから
不確かな明日を信じてみるよ

なぜかこの歌詞にやさしさを感じている。

言いすぎることもなく、ただあたたかい思いを自分の中に浮かび上がらせてくれる1曲。

自分のどの感情が持ち上げられているのか、正直言葉にならない。
けれども、この歌詞は、今の僕を支えるものになっている。

山下さんがどこまで「余白」を意識して曲を書いたのかはわからない。けれども、僕は確かにこの曲の「余白」に、支えられている1人だ。

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