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根拠を持って否定したい(願望)

いやそれはどうなん、、
って思っちゃうこと、あるよね。

他人の意見に対して、自分の意見が異なることは他者を否定することになるのでしょうか。ある生き方を、肯定しないけど否定もしないって状態、あるんでしょうか。その人の生き方を見て、ああ私もこうなりたいなあと思わないことは実質その人の生き方を否定することになるんでしょうか。。

「否定」てどこからなの???
頭で思った時点、口に出した時点、攻撃手段として使った時点、
どこでそれは否定になって人を傷つけちゃうんだろう。

異なる善の構想を持つことは、合理的個人には必要な能力で、他者のそれを侵害しない限りは積極的に持つべきものらしいじゃん。
だからあなたの善の構想と私の善の構想(aka よい人生)が異なることに何の問題もない。ただ、私の人生を否定されるような気分になる時があるのはどうしてだろうねえ。

「慮る」
って言葉が好きです。。
自分が正しいか、相手が正しいか、そこは一旦置いておいて、相手の気持ちを慮る。相手に嫌われたくないとか自分を前者に見せたいとか見せたいとか見せたいとかはさて置き、相手が大切だから話を聞きたいっていう心構え。それさえできれば、妙な軋轢も生まれず、よりフラットな状態で相手の意見を理解しようとできるのでは。
逆にここの配慮がされていないって感じると、意見が対立することに対してじゃなくて、自分が慮られる対象じゃない、それほど私の価値は大きくないのかって思っちゃうのかも。
でもこれには相手への尊敬の気持ちが必要で、どこかで下に見るような慢心を持ってるとすぐに透ける。

全人類に対して尊敬ってするべき?
人に尊敬って何。
人って何。
特定のfeatureを尊敬しているなら、それはその人である必要はある?
私は何を持ってその人って認識してるんだろう。

ぐるぐる〜〜

そしてやっとタイトルへ戻る。
根拠を持って否定したい
(願望!)
そもそも否定って根拠なくできるものじゃない。
けど、そこの根拠がフワッとしてる場合、ちょっと突き詰めて考えると、意外と考えが変わったり、本当に否定したいのはそこじゃなかったりする。
でも表面の言葉だけを滑らせちゃうと、、
おおっと意図してた反応と違いますねえ、になっちゃう。
それを相手が気づいて突っ込んでくれた時は幸い。でもヒートアップしてる時は、「否定された!!」が先にきて、根底がずれてることに気がつけない。そうやって上澄みが黒ーい感情で隠れちゃって、ほんとの気持ちが見えなくなっちゃう。
本人も、最初は違和感を感じてたはずなのに、気がつけない。
年を重ねると、今までやってきたように感情を処理することだけ上手くなっちゃって、悲しさと怒りの区別がつかなくなっちゃうのかな。
それも頑張って生きてきた証拠だから、
怒ってる人には
傷つけてごめんね、ちゃんと聞いてるよって言ってあげたい。

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