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自己紹介です。

noteで日記を始めてから一か月が過ぎているが自己紹介を書こうと思う。
日記を書いていて、やはり自分のことを知ってほしいと思ったからである。

自分を一言で表すとしたらどんな言葉になるだろうか。

そう考えると、私の場合「てんかん」という病気を切り離して語れない。
てんかんは脳神経の病気である。よく精神疾患と混同されるがそうではなく、ハードウェア的な部分の疾患である。

てんかんの罹患者の割合は人口の約1%と決して数が多い病気ではない。そのため知らない人も多いと思う。

以下ではてんかんの話をまじえながら、年代を追って自己紹介を書きたい。長いですが最後まで読んでいただけると幸いです。

プロフィール

・出身: 埼玉県出身
・平成4年の早生まれ
・身長: 低い
・体重: 最近気になってきた
・最近ハマっていること: 読書と中華料理(特に麻婆豆腐)
・職業: 公務員
・好きな映画: ビューティフルマインド
・その他: 2022/11/25からnoteで日記をつけ始める

小学生時代

小学四年生の夏にてんかんを発症した。
当時の私は何も考えていないガキンチョだったので、病気になったことについて受け入れるでもなく、拒絶するでもなく、ただただ楽観的だった。

発作の症状は30秒ほど、首が左を向いて唸り声を上げてしまうというもの。要するに喉を含む首のあたりに筋肉の収縮が起きているのである。発作中に意識はあった。

そのまま入院する選択肢もあったが学業を優先させて、薬で発作を抑えつつ学校に通い続けることになった。
薬を飲んでいても発作は完全には止まらなかった。
みそ汁を飲んでいる最中に発作が起きてお椀をひっくり返したり、鏡の前で発作を起こして自分の発作中の顔を見てしまうなどのちょっぴり残念な経験を重ねながらも、学校生活を続けた。

発作は毎日5、6回の頻度で起きていた。発作の起きやすい条件は分かっていて、家にいるなどして副交感神経が優位である時、かつ、朝方などの眠気がある時である。そのため外出先で発作が起こることはほとんどなく、家にいる時に起こることが多かった。

月日が経ち翌年の春休みになって、予定どおり入院した。何も考えていないので、寂しいとか怖いとかそういう気持ちは無かった。入院先では様々な病気の人と知り合いになった。同じくてんかんを持つ人や、筋ジスの人やパーキンソン病の人とも友達になった。入院中は院内学級に通い、マンツーマンで授業を受けていた。

脳の腫瘍が原因だということで、脳外科手術により右前頭葉の脳腫瘍を摘出した。右前頭葉を切除したため一時的に左半身不随になったが、一カ月程度のリハビリで復活した。
そして約3ヶ月になる入院生活を終え退院した。

子供のうちは脳を切除しても回復が早いため、小児てんかんは外科手術が選択肢にある。一方で大人の場合は基本的に服薬により発作を抑制することになる。私は当時10歳と十分に若かったので、外科手術を勧められた。

手術をしてから、発作が全く起こらなくなった。ただこの時点では薬を飲み続けており、ここから少しずつ薬の分量を減らして様子を見ることになる。

お金もないのに医療費を捻出してくれた両親には感謝している。

中学生時代

部活は卓球部に入部した。仲良しの友人と選んだというだけで、他に理由はなかった。

抗てんかん薬は飲み続けていたが、分量は順調に減っていった。
そして中学3年生のとき、ついに薬がゼロになった。
主治医からは「治癒」を言い渡され、もう病気のことは忘れていい、と言われた。

高校生時代

男子校である。
部活は弓道部に入った。理由は何となくカッコ良さそうだったからである。
弓道部の同期とは今も交流が続いていて、1年に一回は顔を合わせている。この記事を書いている今年の年末にも同期との忘年会を控えている。

てんかんとは無縁の3年間だった。

大学生時代

ジャグリングサークルに入った。理由は新人歓迎会で誘われたからである。あまり熱を入れていたわけでもないが、ピルエットばかり練習していた。ボールを高く投げ上げ、一回転してからキャッチするのである。おかげで体幹は鍛えられた。

この頃はニコニコ動画にハマっていて、いわゆるニコ厨だった。ボーカロイド曲が好きで、独学で作曲を始めたりもした。

学部では情報工学を学んだ。勉強は周りについていくので精一杯だったが頑張った。
そして学部四年生の冬、卒論を執筆していて徹夜に近い生活を送っていた頃、てんかんが再発した。

今度は全身発作だった。朝起きてソファーに腰掛け、少しうとうとしていた時に、発作が起き、意識が無くなり、気が付いたら母親が横にいた。身体が思うように動かせず、母親に言われるまで何が起きたか分からなかった。

全身の筋肉が硬直するので、ひどい筋肉痛になる。脳のリミッターを外した全力なので、全身の筋繊維が千切れていしまう。筋肉痛が治るのに丸3日かかった。

急いで小中学校の時にお世話になった主治医に連絡を取り、再発したことを伝えて、服薬を再開した。発作が起こる条件がある程度決まっている(疲労があり、かつ朝方であること)ことから、薬は御守り程度として最小量だけ服用することになった。
薬を飲み始めると副作用で音が半音くらい低く聞こえるようになり、作曲の趣味をやめた。この副作用は一ヶ月ほどで治ったが、また作曲を始める気は起きなかった。

大学院に進み、卒業した。
就活では公務員の仕事を探した。

就職〜現在

公務員の仕事を選んだ理由の一つは病気で辞めさせられないからである。おかげで今でも勤めていられる。

最後の発作から3年が過ぎた頃、脳波の検査をした。脳波をみたところハッキリとてんかんを示すような脳波が見られないことから、主治医と相談して服薬を辞めることにした。

すると一ヶ月後、また再発してしまった。今度も全身発作だった。急いでまた主治医に連絡し、薬の服用を再開した。やはり薬は飲まないといけないらしい。

それから去年まで何事もなかった。2021年4月、少し忙しい部署に異動することになった。その年の10月、疲労が溜まっていたとき、それは突然起きた。

とある平日の仕事終わり、帰り道の途中で帰り方が分からなくなった。歩けども歩けども家に着かない。ここが何処だか分からないが足が止まらない。携帯の電池は切れていた。途中の記憶が曖昧なのだが、最終的に警察にパトカーで署まで送ってもらい、両親に迎えに来てもらうことになった。(念のため書くと逮捕とか傷害沙汰とかではなかった。)
今思えば、認知症の人の気持ちはこんな感じなんじゃないかと思う。

また急いで主治医に相談したところ、服薬中の抗てんかん薬の副作用で幻覚等が起きることがあり、特に疲労がある時に起こりやすくなる可能性があるとのことだった。

そこから薬を変えることになり、職場を半年ほど休んで薬の切り替えを行った。
この時は公務員で本当に良かったと思えた。
新しい薬は肌に副作用が出ることがあるらしいが、今のところそうした症状はない。

最後に

とまあこんな感じで昔から今まで、てんかんに振り回される人生だった。高校1年〜大学4年の間は本当にてんかんを忘れていられた。

同じ薬を飲み続けていると効果が薄まっていくとも聞くし、また発作が起こるかもしれない。が、それもまた人生ということで連れ添って行きたいと思う。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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