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#11 自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ。

 2012年3月期、当社として14期目の決算で創業以来最大の赤字を計上する。当期純損失は15,384千円。資本金15,000千円の当社の規模では破格の赤字である。コツコツ貯めてきた内部留保も全て吹っ飛び、債務超過こそ免れていたが、繰越利益剰余金はマイナス15,956千円。純資産の部の合計は5,043千円まで減少していた。
 もちろん、これは突然起こったことではない。起こるべくして起こった結果である。創業3期目の2001年3月決算から2009年3月期までは多少の凸凹があったものの、平均年商は1億2000万円で推移し、キャバクラで浪費をしても、それなりに利益が出ていた。2008年9月に始まるリーマンショックもなんとか持ちこたえていた。
 しかし、2009年から2010年にかけて起こったトヨタの大規模リコール問題の影響は大きかった。また、悪いことは重なるもので、このタイミングでギリシャ、アイルランド、ポルトガルが債務危機になる。いわゆるユーロ危機である。尖閣諸島では漁船が海上保安庁の巡視船に衝突するという事件が起き、それまでくすぶっていた中国の反日感情が一気に悪化。そして2011年には東日本大震災が発生し、トヨタは甚大な被害を被った。さらに追い打ちをかけるように、タイで大雨が続き、洪水が発生して、部品供給が止まり、タイの工場がストップした。
 2009年に社長に就任した豊田章男さんだったが、就任されてから相次ぐ試練に「章男さん、大変だなあ。大丈夫かなあ?お気の毒だよなあ」と随分、心配してた記憶がある。しかし、何のことはない、その時、自分のお尻にも火がつき、ボウボウ炎上していたのである(笑)

是非に及ばず

 メインクライアントがこんな大変な状況だから、当然、弊社も大打撃である。かろうじて他のクライアントの売上で利益は確保できていたが、売上は大きく落ち込んだ。特に、東日本大震災の影響は大きく、当時、収益の柱だったジェイアール東日本企画の社内コミュニケーション改革サポートのJingleプロジェクト、ゼビオグループの理念浸透プロジェクトの仕事が一瞬で消えた。そして、震災は関係なくなぜか日本ユニシスの広報の仕事もなくなった。売上はたちまち3分の1に急減した。そして、資本金を上回る赤字を出してしまう。
 当時の決算書では、銀行からの長期借入金残は32,746千円。今改めて見直してみて、我ことながら「大丈夫か?このお金返せるのか?」と心配になる(笑)
 しかし、いま思い返してみても、当時は不思議と、お金に窮して疲弊していた記憶がない。決算書の数字を見る限りでは、夜も不安で寝れない状態になっていておかしくないのだが...。
 事実、1月に仕事上必要だったとはいえ、クルマを新型プリウスPHVに買い替えているし、期末にタイに行き、ミャンマーにまで足を伸ばしている。そして、親父を連れて九州旅行している。豪勢なもんだ。もっとも、この旅行をスタッフに対して会費制にした(結果、参加者は上坂さんたちだけだった)ことには、ちょっと、苦しさの片鱗が伺うことができるけど(笑)。
 本能寺の変にあって、森蘭丸から明智光秀の謀反と聞き、「是非に及ばず」と応え、燃え盛る炎の中、「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか...」と敦盛を舞った織田信長の心境だった?といえばかっこいいが、さにあらず。多分、僕はお金に無頓着というか、お金がないことに対して無痛症なのだと思う。

ブルーオーシャンへ泳ぎ出せ!

 僕は決して裕福な家庭で育ったわけではない。親父は町工場の工員だった。母親が内職で家計を支え、僕が小学校に入学してからは縫製工場で働き、そのおかげで僕は塾に通い、高校、大学へと進学させてもらえた。工場から自宅はかなり距離があり、途中には長く急な坂道があったにも関わらず、夏休みになると工場の昼休み時間に、炎天下、自転車を漕いで帰ってきて、昼ご飯を一緒に食べて、また仕事に戻っていく。そんな母親の背中を見て育った。すごく明るく働き者の母だった。
 母の実家は商売をしていて、幼い頃は裕福だったが、早くに父親が他界し、そこからは一転、お金に随分、苦労したようだ。そんな経験があったからだろう、母親は僕にはお金で不自由な思いをさせないようにずっと思ってきたようだ。
 小学生の頃はいつも福山の街に母親と一緒に買い物に行き、その度に天満屋という百貨店の最上階にあった食堂でポークカツレツを食べさせてもらった。それが当時の僕の最高の楽しみだった。ナイフとフォークの使い方を母に教わり、それを上手に食べて見せた。それを見て、満足そうににっこり微笑む母の顔はいまでも忘れられない。天満屋では母はいつも水だけを飲んでいた。
 時々、Tokyo Tomato Cafeでも似たような母子の姿を見かける。オムライスを美味しそうに頬張る息子を見つめる母の幸せそうな視線。僕はそんな光景を見て、22年前に他界した母親を思い出して、ジーンとなることもあれば、お店をやっててよかったと幸せな気持ちになることもある。
 そんな母に大事に育ててもらったおかげで、僕はお金に困った経験はない。その分、母が亡くなった翌年に後を追うように他界した妹には随分、不自由な思いをさせていたようだけど。生前、散々、文句を聞かされた。申し訳なく思っている。だから、母と妹には心の底から感謝している。そしてその分をおとぼけ親父にいま返しているつもりだ。
 話が逸れてしまった。そんなわけで、僕は金欠に対して無痛症である。いま現在も相当資金繰りはやばい。親父からの借金も250万円になったし、クレジットカードのキャッシングも100万円に達した。でも、まあなんとかなると信じているし、来月にはなんとかなりそうだ。生まれ持った金運にも感謝しないといけないと思っている。ご心配なく。
 実は2012年3月期からの赤字はその後、2018年まで7期連続で続く。この時は品川オフィスを売却したり、生命保険の解約といった決算書には現れない埋蔵金の発掘と株の運用でなんとかしのいだ。そして、2019年からはトヨタ自動車のモビリティカンパニー宣言に伴う特需で息を吹き返して、今日に至る。
 そんな状況下にあって、新規事業となるミャンマー・ビジネスは希望の星。当時の僕にはブルーオーシャンに見えていたのは間違いない(笑)。「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ!」を実践するには、最高の舞台だった。

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