『ぼくは強迫性障害』で採用されなかった部分の原稿(その2)

※ ひとつ前の話→1 こだわり君の登場以前 気違い踊りをやっていた頃
 『ぼくは強迫性障害』という本を出版した時、編集の関係で出版された本から削られた部分があるので、それを公開しています。
 確かに致命的に重要な部分ではなく、なければないで本として成立すると思うのですが、あったらあったで面白いと思う読者もいそうなので、そこはなかなか難しいところだったと思います。
 下記の原稿です。

 第2章 私の強迫性障害体験記
 ―私の症状はこんな感じでした―

 両親の仕事
 これは病気と関係があるかどうかはよくわからないのですが、後に教員を辞めた原因とは関係がありそうなことです。
 父親は中央官庁に勤めるキャリア官僚でしたが、体調をくずし、精神的にも不安定で、私の小学校・中学校の頃は、わりあい家で静養していることもあり仕事が面白くなさそうだった、という印象があります。いつもつまらなそうに家で一人黙々と酒を飲んでいた姿を思い出しますが、どんな病気でどの程度休みをとって家にいたのかは、今となってはわかりません。酒を飲むのが好きで、飲み屋でお金が足りなくなり、母と二人でお金を払いに行ったこともありました。
 時々、食事の時などに仕事の話をしていましたが、「○○はバカだ」「××は失礼なことばかり言う」といった感じで、聞いていて嫌になるようなことが多かったと思います。
 こういう記憶が元になって、「公務員というのは、安定しているけどつまらない仕事なのかなあ」という印象が自分の脳に刻み込まれているような気がします。
 母は、本業は専業主婦なのですが、家でピアノを教えて家計を支えていました。弟子は15人程度いたと思います。いつも楽しそうに教えていて、「あの子はあんな子でこういう面白いことがあった」みたいなことをよく話してくれていました。
 「自分で商売をするのは、不安定だけど楽しそうだ」という印象がやはり自分の脳に刻み込まれていそうです。
 こういった家庭環境が、後の自分の公務員・民間ということに対するこだわりを生んだのでしょうか。
 もっともこのことを就職関係の面接などで教員を退職した理由として挙げるのは、親のせいにしているみたいで、どうも言いづらいところがあります。もちろん、「教員を辞めるのがいけないこと」というわけでもないのですが、よほど工夫して言わないと、いい印象をもたれないような気がします。でも、工夫してうまく話せば「自己分析力がある」という評価になるかもしれません。
 そのあたりは、現在になってもまだ「課題」なのかもしれません。

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