もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第3話 仕事の学び方(その3)

※ 最初から読みたい方は、もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第1話 仕事の仕方と学び方から読むことをおすすめします。 
※ 第3話の最初から読みたい方は、もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第3話 仕事の学び方から読むことをおすすめします。

 第3話 仕事の学び方(その3)
 アヤメは、お客さんが来始めても、小声で独り言を言いながら仕事をしていた。もっとも、アヤメにとっては、それは独り言ではない。エア後輩に話しかけているのである。
 芋焼酎のボトルを取ってくるように言われるとアヤメは、アヤ助に話しかけた。
「アヤ助よ。芋焼酎と麦焼酎は違うのだ。注意するのだぞ」
 とつぶやきながら芋焼酎のボトルを探し、間違えないですんだ。
 カラオケを歌う人がいると、「アヤ助よ。さっきすでにカラチケはもらっているから間違ってとらないように注意しろ」とエア後輩に話しかけ、同じ歌で2回カラチケをとることはなくなった。
 10時ごろ沢田さんが来た。
 アヤメは「アヤ助よ、沢田さんのコートを預かろうとするのはNGだ。ゆめゆめ忘れてはいかん」とつぶやき、コートを預かろうとするのを思いとどまった。
 お客さんからは、「何を一人でぶつぶつ言ってるの」と時々聞かれた。
 そのたびに、「仕事を覚えやすくなるようにエア後輩というのをつくり、後輩に教えるつもりで話しながら仕事を覚えていくとうまくいくんです」と正直に答えた。
「ふーん。そうなのか」
「その後輩の名前はアヤ助って言うんです。女性にしてもおかしくない可愛い15歳の男の子で、とっても素直な後輩なんですよ」
 それを聞くと少し引く人が多かったが、なんとなく「そんなこともあるのかなあ」という感じでみんな妙に納得した。一生懸命やっているのが伝わっているからなのだろうか、それ以上突っ込む人はいなかった。
 この日は、先生と呼ばれている70歳くらいのおじいさんが来ていた。
 先生とアヤメは、昭和30~40年代の歌謡曲の話をしていたが、不思議なことになかなか話が合う。
 先生が聞いた。
「あんでアヤメちゃんはそんなに古い歌を知っているの?」
「うーん、私はおばあちゃん子で、時々おばあちゃんと一緒にカラオケに行ったり旅行をしたりするからだと思う」
「ふーん。珍しいね」
「珍しいかな」
「アヤメちゃんは、『3つの事実』っていう歌を知ってる?」
「あー、知ってる。ちあきナオコの歌でしょう」
「そう。歌える?」
「歌ってみようか?」
 デンモクを持って来て、ちあきナオコのところを見たら確かにその歌はあった。
 順番が来てアヤメは歌い始めた。

 …例えばあなたが恋っを、恋をしたなあーらー
 3つの事実を聞いって、聞いてほしいいーのー
 1つ人より力持ちいー
 2つふるさと後にしてー
 3つ未来の大物だー…

 歌い終わると先生を初めとしてみんなが拍手喝采。
 そして、例によってエリコのリアクションも快調だ。
「なんで…、なんでお願いではなく事実なのか、面白いー。面白いでござる。うっしっしっしっし。わっはっはっはっは、いっしっしっしっし。うっきょっっきょっきょ…」
 アヤメちゃんは店の大スターになっていた。

(アヤメが使えるめどがたってよかった)
 と思うとマスターは気が緩み、近くの焼き鳥屋にお出かけして、ハイペースで酒を飲んだ。
(アヤメみたいな子も一人くらいいた方がいい)
 たまに、残念系のキャラクターで中高年の男性に人気がある女の子が入ってくるが、今まではわりあい続かないことが多かった。実務的な仕事ができなくて他の女の子とうまくいかない場合が多いからだと思う。
 いくら強みを生かすと言ってもまったく実務ができなかったらしょうがない。今回の場合は最低限のことはできるようになりそうなので、うまくいくかもしれない。
 いい気分になっていたら携帯電話が鳴った。
「今お客さんが二人しかいなくて、その二人も帰りそうなんで、そろそろ閉めますか」
 リナからだった。
 時計を見ると午前2時。
「そうしようか。今帰る」
 マスターが店に戻るとすでにお客さんはいなかった。
 今日は、反省会はしないで、戸締りをして帰ることにした。
 
 マスターの自宅は少し遠いが歩いて帰れる場所にある。
帰り道、マスターはいい気分で歌を歌いながら歩いていた。

 もしもし、カメよ、カメさんよ
 世界のうちでお前ほど歩みののろい、ものはない
 どうしてそんなにのろいのか

 その時、後ろから追いついてきた自転車がマスターの横で止まった。
 黒っぽい服を着て、帽子をかぶっている。
 よく見るとそれは警察官だった。若そうな背の高い男だ。
「こんばんは」
 マスターは挨拶をした。
「こんばんは、悪いけどちょっとナップサックの中を見せてくれますか」
 別に絶対見せなければいけないという規則があるわけでもないが、逆らうとややこしいことになりそうなので、おとなしく赤いナップサックを背中からおろして、中身を見せた。
 警察官は「刃物はないかな?」などと言いながら懐中電灯で中を照らしていたが、中には、本とタオルとタバコしか入っていない。
 本は最近よく持ち歩いている『プロフェッショナルの条件』。これが懐中電灯で照らされた時にマスターは、「あっ、この本はなかなかいい本です。公務員の方も読んでみると役に立つかもしれません」と言った。
 警察官はそれには答えなかったが、ただし、この本があるのを見て、わりあい真面目そうな人だ、と判断したかもしれない。赤いナップザックが怪しくてビジネス書が真面目そうだというのも、なんだか表面的な物の見方で感心しないが、他に判断する材料がないのだろう。
「大丈夫そうだな。このへんに住んでいるのか?」
「そうです」
「仕事は?」
 正直に「スナック経営」と答えると「法令を守ってちゃんとやっているか?」などと突っ込まれそうでうっとうしいので、「会社員です」と答えた。
 警察官は、マスターの身なり・風体を見て、やや怪訝そうな顔をしたが、それ以上は突っ込まず、「気をつけて帰ってください。それと、あまり大きな声で歌を歌うと近所迷惑なので気をつけてください」と言って去っていった。
 
 次の日マスターが出勤してきて、店のノートを見ると、こんなことが書いてあった。

 アヤメちゃんは、一人でぶつぶつ言うようになって仕事ができるようになった。
                           (リナ)

 「一人でぶつぶつ」という表現はあんまり感心できないが、確かにその通りだ。
 と、マスターは思った。
 確かに、アヤ助とかいう怪しい変な名前のエア後輩とともに仕事をするようしたら、アヤメは失敗が急激に減って、生き生きと仕事をするようになった。
 もっとも、エア後輩作戦以外に不安や緊張を和らげるように声をかけることもした。
 エア後輩作戦の方が、「小学校の頃にやり残したことをする」というとても深い本質的な感じがするやり方だ。でも、「不安と緊張なのか、安心なのか」という選択も、もちろんドラッガーが言っていることで、大切なことなのだろう。
 どちらのおかげかはわからない。両方かもしれない。そこは正確にはわからないが、とにかく、こんなちょっとしたことでうまくいくようになるとは意外だ。
(本当に物事の習び方は人それぞれなんだなあ。スナックのマスターという仕事は、これはこれでなかなか奥が深い)
 でも、昨日はたまたまアヤメみたいな女の子が好きな中高年お客さんが多かったが、うちの店は若いお客さんも多いし、アヤメだけが絶大な人気を誇っているわけではない。仕事ができるようになったと言っても、完全なる残念系だったのが、多少普通になった程度で、ルカやリナに比べればかなり差がある。
 そこは、有頂天にならないように多少は引き締めた方がいいかもしれない。でも、それは不安や緊張を与え過ぎない範囲でやるべきだ。
(それにしても…)
 今日のアヤメのエア後輩に話しかけながらの変な仕事ぶりは、面白がられたり共感を呼んだり同情されたりして立派な売り物になっていて、改めてスナックというのは不思議な商売だと思う。
 人間的・心理的な弱点が売り物になる仕事というのは、現代の日本社会では珍しいのではないか。昔の私小説作家が似ているかもしれないが、今の日本で他にあるだろうか?
 マスターは、タバコを吸いノートに書いてある文字を見つめつつ、首をかしげながら考え込んでいた。

※ 次の話→もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第4話 賢くあろうとせず、健全であろうとしなければならない


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