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都立野津田高校の生徒指導における謹慎と謹慎解除

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 三つの仕事


 東京都の教員採用試験に受かって新規採用1校目に勤めたのが、都立野津田高校という町田市にある学校でした。
 もうかなり前の1990年代のことなのですが、意外と現在でも変わっていないところもあるかもしれません。
 学区で最底辺だということを聞いていて、「どんな学校かな」「もしかして怖いところ?」などと生徒に対して大変失礼なことを思っていたのですが、わりあい生徒たちも自分の授業をよく聞いてくれて、先輩の先生方にもそれぞれ学ぶべきいいところがたくさんあり、「ありがたいなあ」「来てよかったなあ」というのが勤め始めてからの印象でした。
 高校の教員の仕事は大きくわけて教科指導・分掌の仕事・部活の顧問の3つがあります。
 教科は、教員採用試験で受験した科目を教えることになっていて自分の場合は英語、分掌と部活の顧問は前年度の職員会議ですでに決まっていて、生徒部と野球部の顧問でした。
 分掌というのは、教務部・生徒部・進路部・担任といった教科指導以外の生徒指導及び学校運営などに関する学校の仕事で、生徒部というのは、他校では生活指導部と呼ばれる場合もあるようなのですが、主に狭い意味での生徒指導(生活指導)と生徒会に関する仕事でした。
 生徒指導といういのは、教科指導・生活指導など生徒を指導する仕事すべてを指す場合もありますが、狭い意味での生徒指導というのは、「(主に校内で)たばこを吸った」「バイクで登校した」等校則を破った生徒を謹慎処分にして指導する仕事が中心でした。謹慎というのは一言でいえば、悪いことをした生徒を授業に出られないことにして、校内の別室とか自宅で作文を書いたり勉強したりさせて、反省しているかどうか教員がチェックする境遇に置く、という処分です。
 当時は、たばこを吸ったりバイクで登校したりする生徒が多い時代だったので、けっこう毎日のように謹慎に入る生徒がいて、「忙しかったなあ」という思い出があります。
 生徒会関係の仕事というのは、日々の生徒会役員たちの仕事・生徒総会・体育祭・文化祭などの運営等です。建前は生徒の自治活動ということなのですが、教員が後ろから操っている、ということになりがちでした。
 生徒部を2年やってから1年の担任になり、3年勤めたところで他の学校に異動しました。
 自分から異動希望を出したのですが、今から考えると「もう少しいた方がよかったかな」と思います。
 どうしてそういう気持ちになったのかうまく説明しにくいのですが、当時は、「早く別のところに行ってみたいなあ」と思っていました。

 
 謹慎

 野津田高校の英語科の教員をしていた頃、英語という教科を教える仕事、生徒部という分掌の仕事、野球部の顧問の仕事、と基本的にこの3本柱で仕事をしていたのですが、一番印象に残っているのは生徒部の仕事のその中でも生徒指導の仕事でした。
 生徒指導の中で、特に大きな比重をしめていたのが喫煙・バイク登校などの悪いことをした生徒を指導する前述の謹慎という指導でした。誰かが捕まえて、その子を謹慎に入れて担任の先生や他の生徒部の先生と協力して指導するのですが、人によって指導方法とか考え方が微妙に違っていて、戸惑うこともありましたが勉強になりました。
 特に教員間で意見が分かれがちなのが、謹慎を解除する時です。
 謹慎の期間は、例えば初回の喫煙がX日とか喫煙またはバイク登校の2回目はY日等だいたいの目安が決まっていたが、学年及び生徒部の教員が生徒の反省状況を見て「どうもあんまり反省していないようだ」とみなされると日数が伸びることもあり、謹慎を解除するかどうかは、本人の反省状況を見た学年及び生徒指導部の教員が合同で会議を開いて決めていました。
 なお、謹慎を解除するかどうか決めるために、学年や生徒部の教員が個室に入っている生徒の様子を見たり、話をしたりしに行くことを「見きわめ」と呼んでいました。
 他の学校から異動してきた人に聞くと、野津田は日数を伸ばす場合が比較的他の学校よりも多いようでした。「生徒指導に熱心だ」ということもできるし「真面目にやりすぎている」という言い方もでき、いいことなのかどうかは難しいところでしょう。
 なお、謹慎以外に「校長説諭」とか「学年説諭」といった、謹慎にはならないが悪いことをした場合に誰かがお説教するという指導方法もあり、これらを合わせて特別指導と呼んでいます。 
 以下、何人かの生徒を指導した時の様子を書いていきます。

 A君の場合


 A君はこの学校にしては勉強がよくできる生徒であると同時に、大人の顔色を見たり相手に迎合したりするのが上手く、やや悪賢いところもありました。
 A君がある時バイク登校でつかまり謹慎に入り、規定の5日が過ぎる前日に学校に登校して、学年と生徒部の教員が見きわめを行いました。
 この時にA君を見た教員の感想。
「確かに頭がいいので教科の課題もちゃんとこなしているし、反省文もきちんと書いている。しかし、どうもマニュアルどうりで、謹慎期間がなにかの役に立ったという感じはない。ただ単に今まで知っていた処世術を発揮したというだけで、謹慎期間中に何かを学んだということはないだろう。しかし、ちゃんと基準を満たしているのだから解除しないわけにはいかないだろう」
 自分も見たのだが、Aという子は確かに勉強するのがそれほど苦にならないようで教科の課題はほとんど完璧にこなしていました。反省文や反省日誌には「反省した」「もう2度とこんなことはしないと心に誓った」「どうしてこんなことをしたのかと激しく後悔した」等どこかで見たようなまさにマニュアルどうりの文が並んでいました。質問すると「バイクに乗って登校すると自分が危険であるばかりでなく、制服を着て乗ったということで野津田のイメージを損なうことになり学校のすべての人に迷惑がかかる…」等すらすらと答が返ってきました。
 でも、これでバイク登校をやめてくれるかと言えばどうも心もとない。もしかしたら本当にやめてくれるかもしれないが、これからはもっと見つからないようにやるかもしれない。そうは言ってもこれ以降はやるにしてもより見つかりにくい方法を工夫することだけは確かで、それなりに多少の教訓にはなりえているのかもしれません。教員たちはそれほど晴れ晴れとした気持ちではなかったのですが、合同部会では規定の最低日数で解除すつころになりました。

 B君の場合


 Bという子が、これもまたバイク登校でつかまり謹慎に入りました。
 Aとは違い大人の顔色をうかがったりするのが苦手は子でした。
 文章を書いたり漫画を描いたりすることが好きで、現代の高校生には珍しく哲学書や文学書をよく読んでいました。
 「見きわめ」の時に書いてきた反省文はそれまでに見たことがないような独特のものでした。「…朝起きて時計を見た時に、私は狼狽した。普通にバスに乗って登校しては1時間目に間に合わないことに思い至ったのである。…」「…ドアを開け、自転車置き場のところにいった。そして自転車に乗ってみた。するとあることに気がついた。…」「自転車が壊れていることに気がついた私は、今日だけオートバイに乗って学校に行くというとんでもないことに思い至ってしまったのである。…」といった小説調でした。
 ふざけているのか真面目なのかが今一つわからなかったのですが、本人と話してみるといたって真面目に反省しているようでした。
 合同部会では、解除するのはもう少し様子を見た方がよいという意見も出されたのですが、担任の先生はB君のことを弁護しました。
「もう少し頭が悪く、本など読まない子なら、『バイクなんかに乗ってなんてバカなことをしたんだ』とそればかり訥々と書くしかないのでそれが胸をうつが、Bは頭がよいがゆえにかえってこんな文章になってしまう。しかし、本当は反省している。Bの場合は変な方向に頭が回転するので、人と同じようなことを書くのは嫌だという性質がありそれで損している。本人にもそのことはよくい話したので、ここは解除の方法でお願いしたい」
 この発言がそれなりに支持され、この合同部会の結論は、Bの謹慎解除でした。
 Bにとっては、「世の中には誰でも書けるような平凡な文章や、誰でも言えるような平凡な言葉が物凄く重要になる場面というのも確かに存在する。不本意でも相手に通じるようなごくありふれた表現方法が必要な場合があるものだ」という教訓が得られたのでしょう。

 C君の場合


 C君は、A君やB君とは全然違うタイプで大物なのか少しにぶいのかわからない子でした。
まず、反省状況を見るために登校してきた時に反省日誌を見せてもらったら、これがある意味で傑作でした。
 謹慎中のそれぞれの日に何をしたか書く欄に、正直に「昼寝」とか「休憩3時間」などと書いてあります。馬鹿なのか正直なのかわからないと言うか、「馬鹿正直」あるいは「こういう場面で完全に正直になってしまうところが馬鹿」と言うのが正しいのでしょうか、とにかくこれでは真面目に反省していると見做すことはできません。
 個室にいてもらった時に、自分が「見きわめ」のために見に行くとどうもそわそわして落ち着きがありませんでした。
 こちらが話している最中に、「今行けばすいているからパン買ってきていい」などということを平然とさりげなく言います。
 「まったく何を考えているのかわからない」というのがピッタリでした。憎めない子なのですが、一体何をどう指導していけばいいのかわからなくなってしまいがちです。
「謹慎期間というのは、悪いことをして怒られている期間なのだから神妙にしていないといけないよ」
「そんな素朴が態度でいたらいつまでたっても授業に出られないから、もっと先生に気にいられるにはどうしたらいいか考えなさい」
 などというバカみたいな当たり前のことをかなり幼稚な段階の処世術みたいなことをお説教じみたしゃべり方で言うのですが、聞いているのかいないのかわからない。他の先生の感想も似たようなものでした。
 でも、いろいろな先生が言っていろいろと話をしているうちに、少しずつ反省しているような演技や自分が悪いと思っているような演技ができるようになっていきました。
 どうも、知能が低いわけではないようでした。
 今までのんびりとした環境に育ってきて怒られるたりいじめられたりすることが少なかったのでしょう。根性がひねくれているようなタイプと正反対で、「相手に合わせるにはどうしたらいいか」「どうすれば可愛がられるか」という問題意識に欠けていたのだと思います。
 謹慎期間が他の子よりも長くなりましたが、無事解除され学校に復帰できました。

 D君の場合


 D君は野球部のキャプテンをしている性格のさっぱりした好少年だったのですが、やや軽率なところもあり、ある時バイクで登校しているところを見つかってしまいました。
 正直に事実を認めて謹慎に入り、自分が見た「見きわめ」の時に持ってきた反省日誌・反省文の内容は「もう2度とやらないことを心に誓った」「深く反省した」等々実に率直な良いことが書いてありました。
 でも、勉強をするのが苦手らしく教科の課題をこなした量が少ない。一方反省日誌の1日の行動を書く欄には1日に10時間くらい勉強したように書いてありました。
 C君のように「昼寝」「休憩3時間」などと書くよりはましかもしれないが、10時間と書いてあるわりには全然勉強した跡が見えません。
 自分は、仕方がないので尋ねてみました。
「本当にこんなに勉強したのか」
「ちゃんとやりました」
「しかし、それにしてはあんまり課題がやってないなあ」
「すみません」
「こういう場合どういうふうに書けばいいかわかるか」
「…」
「確かに、ちゃんと勉強しているようなことを書いて先生に気に入られようという心がけが悪くないのだけど、1日に10時間も勉強したようなことを書いて全然証拠がないのでは片手落ちだ。こういう場合は『家の手伝い』という欄を増やせばいい。そうすれば親だって早く子どもが謹慎解除になって授業に復帰して欲しいと思っているから、手伝いなんかそんなにやっていなくても、『よく手伝ってくれています』と書いてくれるだろう。そうすればそれが証拠になる。もちろん本当はちゃんと1日中勉強したり作文を書いたりするのが一番いいのだが、もしさぼってしまったら、その時はちゃんと頭を使え。まあ、あんまり感心しないやり方だけど、この場合は簡単にバレるような嘘を書くよりはそうした方がいい。順番が違うかもしれないけど、これからは、親の手伝いなんかもちゃんとやるようにした方がいい。次に同じような機会があってはいけないんだけど、今回のことをよく覚えておくとなにかの役に立つかもしれない」
「はい」
 といったやりとりがあり、D君は速やかに解除になりました。

 事例のまとめ


 こうしてみると、規則を破った生徒を謹慎させるのも間違いなく学校教育の一環なのだが、教科指導に比べると世渡り・処世術・演技をする能力などを指導している面があって、同じ学校教育の中の1分野なのだが、ものも見方や原理が異質です。
 高校生には、B君のように「他人から気に入られるようにしよう」「相手に通じるようなパーフォーマンスをしよう」という問題意識が極端に乏しい子、C君のようにあまりに素朴過ぎて世の中に出たらどうなってしまうのか心配な子、D君のように悪気はないのだがすぐにばれるような嘘を言う嘘のつき方が下手な子、等々がいます。
 そうした世の中に出て大人の社会に入ってから損しそうなところをうまく修正していくのが、特別指導の目標の重要な部分だと考えることもできるのだが、教員によって価値観・教育目的は違い、教科指導のように教育指導要領があって教える内容が具体的に決まっているというわけではありません。
 なお、自分が野津田にいた頃から7年くらい経って、10年経験者研修という制度化された研修にて少人数グループの中で各々事例を発表する機会がありました。
 そこでDの事例を紙にまとめて話したら「生徒に嘘をつくことを教えるのか」等々の批判を浴びて評判が悪かった。もちろん「生徒が本当に心から反省するように持っていく」という行き方の方が相対的には茶道で言えば表千家になると思うし、批判したくなるような気持ちもわかるような気がしたのですが、でも、自分自身が教員であるにもかかわらず「どうも教員とか指導主事は物の見方が一面的だな」「裏千家だって時と場合によっては大事ではないだろうか」と思ったのも事実でした。

 謹慎中の欠時をどう扱うか?


 最後に上記の問題について書きます。
 これは、教育困難校を中心にしばしば話題になる論点です。
 まず用語の確認なのだけど、欠時というのは授業の欠席時間数のことで、例えば「数学1の欠時が10」だったら、数学1に10時間欠席した。ということです。「年間の欠時数がX時間になったら、その教科は単位がとれない」という時間数が週の時間数に応じてそれぞれ決まっていて、欠時数がX時間になってその教科の単位がとれない状態になることを「教科の欠時がキレる」と表現します。
 謹慎中の欠時が問題になるのは、謹慎中の授業の欠席を欠時とカウントした場合に教科の欠時がキレてしまう場合です。
 自分が野津田にいた頃は、謹慎中の欠時も普通の欠時と同じように扱っていたので、謹慎中の当該生徒の欠時がキレてしまう直前になると、「ここはひとつ欠時がキレてしまう前に解除して欲しい」と担任が生徒部に泣きこんできて、「このまま欠時がキレてしまうと後々親が文句を言ってきたりして面倒だ」というような空気が形成され、生徒の反省とか教員による指導が十分とは言えなくても謹慎を解除してしまうことが多かった。
 謹慎中の授業欠席の扱いについては、「欠時としてカウントした方がいい」「カウントしない方がいい」双方の立場にそれぞれ理由があります。
「学校側が生徒に命じて授業に出させないのだから欠席として扱うのは適当ではない」
「学校の指導に従って自宅とか校内の別室でちゃんと与えられた課題をやったり教員に指導されたりしているのだから、出席と同じではないか」
 等が「カウントしない」という立場の根拠。
「自宅にいる時間に、本当にちゃんと反省して課題をやっているかどうかは、本人や親の申告では正確にはわからない」
「悪いことをして謹慎に入ったのに、それによって謹慎期間の授業の出席扱いが保証されてしまうのは合理的ではない」
「悪いことをして反省もしないで謹慎期間が延びれば伸びるほど、出席扱いの授業が増えてその面では進級できる可能性が高まるというのはおかしい」
 等が「カウントした方がいい」という立場の根拠です。
 これは、一概にどちらが正しいとは決められない問題で、どういう生徒なのかにもよると思います。
 普段から真面目に授業に参加して勉強している生徒が、たまたま出来心でたばこを吸って見つかってしまった場合だと、出席扱いにしてあげてもいいような気がするけど、普段から授業をずる休みすることが多い生徒だと、謹慎に入ったためにかえって授業の出席扱いが保証されるのはどうも好ましくありません。
 立場的には、当該生徒の担任の先生は直接保護者から文句を言われる立場なので「カウントしない」という方向が好ましいし、管理職(校長・副校長)もやはり保護者と対応する立場なので担任と立場・意見は似ていることが多い。
 生徒部の教員は、学校の秩序とか原理原則を重視することが多いので「カウントする」という立場を支持しがちです。
 最近は管理職の発言力が強くなってきて、謹慎中については授業を欠席扱いしない学校も増えてきて、そのぶん多少卒業できる生徒も増えたようなのですが、ここまで書いてきたような問題点・考え方があり、「卒業できる生徒が増えてよかった」という表面的・一方的・楽観的な見方ではすまないことだと思います。

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