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秀太ブチギレ事件、半分は演技だったんだよね【下柳剛連載#23】

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気の緩みを引き締めたいとの思いから

 若手への“愛のムチ”は何も鳥谷敬に対してだけじゃなかった。ちょっと話は前後することになるけど、あの一件についても触れておこう。世に言う「秀太事件」だ。

 あれは2007年10月1日のこと。勝てばクライマックスシリーズ進出が決まるという横浜(現DeNA)戦の5回裏の出来事だ。試合は初回に飛び出した今岡誠の先制3ランなどで阪神が5点をリード。先発したオレも打たせて取る投球で反撃を許さず、この回を無事に投げ終えれば10勝目の権利を得られるという状況だった。先頭の内川聖一に四球を与えたものの、8番の石井琢朗を遊飛に打ち取って一死一塁。続く代打・呉本成徳に計算通りの二ゴロを打たせて併殺でチェンジ…と思ったら、二塁の関本健太郎(現・賢太郎)からボールを転送された遊撃の田中秀太(登録名は秀太)の足がベースから離れていて、まさかのオールセーフ。

エラーする秀太(2003年9月、甲子園)

 まあ仕方ない。プロが「仕方ない」で済ませちゃいけないけど、ミスはある。気を取り直して1番の仁志敏久に狙い通りの遊ゴロを打たせて今度こそ併殺でチェンジ…と思ったら、秀太がグラブの先で打球をはじいて、併殺どころか一死満塁の大ピンチだ。オレはマウンド上でヒザから崩れ落ち、グラブをグラウンドに叩きつけた。

 まだ続く。今度こそはと2番の相川亮二を遊ゴロに打ち取ったら、秀太が大事に行き過ぎて、二塁でアウト1つ取れたものの一塁はセーフ。オレはもう一度、グラブを叩きつけた。

 この様子は動画投稿サイトに「下柳、キレる」のタイトルでアップされているそうなので、時間のある人は実際に見て確認してほしい。頭にきていたことは否定しないけど、心底ブチ切れていたわけじゃなかった。半分は演技だったんだよね。その証拠に、金城龍彦を右飛に打ち取ってベンチに戻るオレはニヤリと笑っている。

先発した下柳。秀太の失策後にグラブと帽子を叩きつけたのは、演技の側面もあった

 あそこまで分かりやすい態度を取ったのは、チームに漂っていた気の緩みを引き締めたいとの思いがあったから。立て続けに遊ゴロを打たせる投球をしたのも、秀太がエラーを引きずらないように気遣ったからだった。

 昔に比べて監督やコーチ、先輩選手が若手をどやしつけるようなこともなくなった。時代の流れと言ってしまえばそれまでだけど、オレは先輩たちにそうやってプロの厳しさを教わってきたし、教わったことは後輩たちにも伝えたいと考えてきた。こんなウルサ型の先輩が一人ぐらいいてもいいでしょ?

ロッテに4連敗…悲しすぎた2005年日本シリーズ

 プロ野球選手にとっての最大の目標は、所属するチームの優勝だ。その上で貢献度が高ければ評価もされるし、励みにもなる。そういう意味で、2005年は最高のシーズンだった。

 岡田彰布監督のもと、チームはぶっちぎりで優勝。オレは同い年の金本知憲が引っ張る強力打線と鉄壁のリリーフ陣「JFK」にも助けられ、15勝3敗で「最年長」というオマケつきの最多勝のタイトルまで獲得した。これで文句を言ったら、罰が当たるってもんだ。

 それなのに、待っていたのは文句の一つも言いたくなる結末。そう、なすすべなく4連敗で敗れた日本シリーズだ。相手はレギュラーシーズン2位からプレーオフを勝ち上がってきた、ボビー・バレンタイン監督率いるロッテ。03年と同様に下馬評では「阪神有利」と言われていたけど、ふたを開けてみたら勢いの差は歴然だった。

2005年の日本シリーズを制して甲子園で宙に舞ったのはバレンタイン監督だった

 相手が「下克上だ」って士気も最高潮になっていたのに対して、まだプレーオフ制度を導入していなかったセ・リーグの覇者は、ひたすら待つだけ。3位の西武と優勝したソフトバンク相手に、7試合の死闘を演じてきたロッテ打線はスイングも鋭くて、どうにもならなかった。

 初戦は7回裏濃霧コールドで1対10の大差で負けて、2戦目も0対10のワンサイドゲーム。3戦目に先発したオレがもう少し粘れれば良かったんだろうけど、そのころには審判もロッテの勢いにのまれていたようで、併殺だと思ったのが「セーフ」と判定された。

 結局その日も1対10と完敗で、終わってみれば4連敗。あのときは冗談抜きに「こんなことになるなら、優勝なんてするんじゃなかった」って思った。ほんと、悲しすぎる日本シリーズだった。

 ただ、今になって思えば優勝しただけ良かったんだ。それ以後の阪神は優勝からも見放されているわけだし…。もっと残念だったのがオレとカネ、矢野輝弘(現燿大)の3人でお立ち台にも上がった08年シーズンだ。7月8日の時点で2位の中日に12・5ゲーム差、3位の巨人には13ゲーム差をつけて、ファンの誰もが優勝を信じていた。

お立ち台に上がる(左)から矢野、金本、下柳(2008年6月、甲子園球場)

 雲行きが変わったのは北京五輪の代表として藤川球児、矢野、新井貴浩の主力3選手が、ごっそりといなくなってから。驚くほどの失速ぶりで、巨人にひっくり返されて岡田監督は責任を取って辞任。この08年は11勝をマークして4年連続の2桁勝利は挙げたけど、主力選手の一人としてオレも責任は感じていた。

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しもやなぎ・つよし 1968年5月16日生まれ。長崎市出身。左投げ左打ち。長崎の瓊浦高から八幡大(中退、現九州国際大)、新日鉄君津を経て90年ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。2003年から阪神でプレーし、2度のリーグ優勝に貢献。05年は史上最年長で最多勝を獲得した。12年の楽天を最後に現役引退。現在は野球評論家。

※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。

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