見出し画像

美しい君がいる、君の美しさというようなものはない

 「美しい花がある、花の美しさというようなものはない」という有名な一節は、昭和の文芸評論家、小林秀雄の作品「当麻」の一節である。その文章中では、ざっくりといえば「美しさ」という観念に囚われるべきではないという意味合いで使われているけども、色々と考えさせられる一節だと思う。たとえば、「花の美しさ」は音楽や絵画といった芸術で表現することができるかと問いを立てたとき、僕は「ノー」と答えるだろう。「花の美しさ」は普遍的なものではなく、花を直接的に目の前で観察した本人が「美しい花」と感じることに重きが置かれるからだ。何をもって美しさと為すかは、その花と向き合った本人にしかわからない。見る人、すなわち認識者があってはじめて美しい花に出逢える。また見方をやや変えてみれば、ある人にとっての「花の美しさ」は、その一時々々で変わるものでもあるから、一期一会、まさに「花の美しさ」と固定されたものは存在しないとも言える。「美しい花」だとその向き合った一瞬で感じること、それが全てであるような気がしてならない。

 そんなことを僕は君と会うたびに思ったりする。僕は君との時間を重ねれば重ねるほど、君が心から優しい人なんだと気付いてしまう。その「優しさ」をいくら文章で表現しようともできることではない。(いやそもそも君の僕への優しさを表現することで、誰かに見せたいわけでもないし、むしろ独り占めしたいなんてね。)
 そう、「君の優しさ」ではなくて、「優しい君」・「美しい君」と感じられることに、なによりも幸せを感じているし、それが明日も生きてみてもいいかもしれないっていう精神剤だったりする。そしてなによりそれは、「君が今日も生きて存在してくれていること」に支えられているし、「優しい君を認識できる僕が今日も生きていること」に支えられている。これからもこんな感じで二人の時間を創っていけたらなと思ってる。一瞬一瞬の「美しい君」をこれからも僕は感じていきたい。

 密かなラブレターかもしれない。公開するものではないかもしれない。だって僕と君にしかわからない世界の話だから。でもこれだけは伝えさせてほしい。僕が好きな君の名前の話。あなたはあなたのその名前の通りの人だと思います。僕も君のようになりたい。
これからもどうか。

~曲紹介~
Dear/Mrs.GREEN APPLE

扉の先には何があるかわからないけど
誰かがきっと貴方を待ってる
目の前の今日へ踏み出す勇気も無いけど
振り返ってみれば足跡は続いているから

左胸の鼓動を感じてる
右の脳で君を愛してる
両の手で誰かに触れて
私は今日も生きてる

涙も枯れてしまう
哀しみを食らう日もあるけど
貴方はきっと強さも持ってる
「生きていけない」
無気力な私を「無価値」だと思っても
立ち止まって見れば風をまた感じられるから

左胸の鼓動が止まるまで
ちゃんとこの世界を愛したい
両の腕で誰かが抱きしめてくれるまで
今日も生きてる

左胸の鼓動を感じてる
右の脳で明日を夢見てる
小さな掌の中で私は夢を握ってる

幼さでパンを作って大人びてジャムを塗ろう
いつかきっと出逢う貴方を探してる

 時の行方に任せて不安も味方にしてさ
ターコイズの光の奇跡を纏って
「強く誓う愛みたい」

壊れそうな場合、私の肩に寄りかかってさ
お互い甘えてみましょう
さぁ 次は何処へ行こうか

ここに記す

貴方へ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?