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革命のはじめ方【レッスン26】忠義について『武士道』新渡戸稲造著

『忠義』これは現在では死語になってしまった感がある。今までの義・勇・仁・礼・誠・名誉を理解していただけましたら、『忠義』の概念も理解いただけると思う。しかし『忠義』もまた現代までの言葉の濫用を重ねるなかでその価値を貶めされてしまった。『忠義』とは組織に利用され、使い古される馬鹿者のようなイメージになってしまった。
それは断じて違います。今回は本当の『忠義』を探ってみます。

『忠義』とは、目上の者に対する服従および忠誠である。
これは組織においてメンバーを結びつける力。あらゆる種族や境遇の人々に間に存在する道徳的結びつきである。これを明文化するのが難しいので、忠義ではないパターンを示した方が分かりやすいと思います。
■臆病者や恐怖心からくる連帯感は忠義ではない
・主君の気まぐれの意志、妄念邪想のために自己の良心を犠牲にする者に対して武士は低く評価する。むざむざ一生を敵に過ごす者も武士道では評価しません。
・心の底では我が身の事ばかりを図る者も評価しません。

「各人が皆、他の者と同等である」という『個人主義』および『意味のない平等』の概念が蔓延してしまっていては『忠義』は生まれない。
また「他の物より自分は勝っている」という個人主義やグローバリズムの競争社会でも『忠義』は生まれない。
『忠義』とは義・勇・仁・礼・誠・名誉を有する封建社会で奇跡的に生まれた結晶なのである。

私は忠臣蔵が好きなのです。雪の中の討ち入り、桜の中での切腹などは『忠義』という概念のおかれた状況を表しているみたいで儚く美しい。『忠義』はもはや過去のもので、その立場はまるで雪の中にいるように世間は冷たいことを象徴している。桜の花は、一瞬だけ輝いた『忠義』であったが、すぐに散っていってしまうのを象徴している。
今の世代に忠義を語るのは本当に難しいことなのかもしれない。例で挙げた臆病者や恐怖心からくる連帯感に溢れている。これは断じて『忠義』ではない。会社でも同じことが言えるし、我が身に照らしても心苦しいです。
また官僚が政治家を庇うのも、政治家の秘書が庇うのも忠義ではないのである。これは臆病者の為すことで蔑みの対象となる。

◇◇東京ハバナの理屈の想定外のコーナー◇◇
我が国はいったいどうなってしまったのか。国家、社会、会社、あらゆる組織で『武士道』は消えてしまった。自分の上司が、忠義を立てるべき者か、どうか。そんな疑問が起きることが虚しいですね。


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