「天使のきもちになって」

人の時間はいいかげんだ。のびたり縮んだり、弛んだり、錆びたり、乾いたり、みじめでまじめで、際限なく自由で不自由で、そして俺たちはなんとなく、人の時間の外側に、もうすこしちゃんとした時間があるんじゃないかと、そんな気がしている。そいつが、できれば世界とか歴史とかそんなみみっちいものじゃなく、もうすこし清潔で柔らかいものだったらいいと俺は思う。なんとなくそれを天使と呼んでみる。

人の頭はいいかげんだ、けど現に人は生きてるし、世間が騒ぐほど空虚なもんでもない。まあまあちゃんと生き物として生きてる。頭がいいかげんでも生きてるってことは、頭だけで生きてるわけじゃないってことだ。スピノザもフロイトもドゥルーズもそこは同意見で、なんとなく外側があって、人は知らずそこを生きている。たとえばそれを天使と呼んでみる。

呼べば返事があるもので、問題は郵便受けの開け方、いろいろあるんだろうけど、歩いて探してみる。暮らしのなかに探してみる。どこか別の時間がめくれる場所わめくれる瞬間、人の時間と天使の時間が、ぐらぐらっとまぜこぜになるような。日没や夜明け、あるいは渚、あるいはコーヒー、あるいはミサイル、人の時間に亀裂が入る瞬間、あるいはすばらしい音楽、すさまじい文学、それは事件、事故、そういうものについて考えている。

「天使になって」にはいくつかの時間がある。いくつかの夜明けがある。それらが重なる一瞬、天使の気持ちを知る一瞬、そういうものがちゃんとある。へんな場所にじゃなく、暮らしのなかにそれは必ずある。過去とか未来なんてみみっちいものじゃなく、今も、今が流れている。それをつかもうとした、その端っこをつかんだ、やっとつかんだ、僕の宝物だ。今日も日が暮れた。今日も夜道を歩く。神保町の隅の喫茶店で今これを書いている。年始の町は寂しげだけど、じきにカフェオレも冷める、そろそろ帰ろうと思う。

東京パピーズ 木村太郎

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