"感想"に対するすべて

ひらめきマンガ教室6期聴講生のもち鎧さんが、御本人が書かれた同教室制作コースの、これまでの作品感想をすべて削除した件について、無関係ではない、というか、ほぼ原因はじぶんにあるだろうという憶測に基づいて、じぶんが関わった部分について書こうと思う。

これまでもち鎧さんは6期生の描いたネームすべてに感想を書いてくれていた。書いてくれていたんだけど、正直言って、おれともち鎧さんの「感想」との相性は最悪だった。腹を立てていた。おれの作品(マンガ)からわかるとおり、おれのネームは完成度が低い。じぶんがマンガを描くことが下手なのは自覚しているし、自覚しているからこそこの教室に通っている。もち鎧さんの(おれに対する)感想は、その技術的な未熟さを意識的に突いてこようとする、間違いを指摘することそのものに価値を置く、そういうものに、見えた。

一番つらかったのは、完成稿に対する感想はひとつもなかったことだった。もしかしたらあったのかもしれなかったけれど、おれには見つけることができなかった。ネームから完成稿に仕上げる過程にいちばん注力していたので、それはとてもつらいことだった。

8月29日、おれはもち鎧さんのツイートに上に書いたような返信をした。あそこに書いてあるおれの気持ちに間違いはない。実際につらかったし、もちろんその主原因はおれにあるのだけれど、正直言って、じぶんだけでこの気持ちが解決できる自信がなかった。当時、もち鎧さんは「感想を書いてほしくない作者の方は指摘してほしい」と記事の頭に書いてくれていて、それでも、そんな権利がじぶんにあるとは思えなかった。主任講師が「感想を書かないでくれとは言わないでくれ」とガイダンスで言っていたのも覚えている。表現の自由の権利の問題もあった。じぶんの勝手な"お気持ち"だけで、その原因や責任を書き手に転嫁しているように見える。それでもああやって書いたのは、このまま残された選択肢が、究極的には、おれが耐えられなくなって筆を折るか、これからはもち鎧さんの感想からおれを除外してもらうかの、その二択しかないように感じてしまった。

結論から言うと、おれがもち鎧さんにしたツイートは間違っていた。
その一方で、こういう結末は、こころのどこかでは予想していた。

おれはもち鎧さんが記事の冒頭に書かれていたとおり「今後は、じぶんの作品だけを除外してくれ」と書いた。「これまでの感想を消してくれ」と書く権利はおれにはない気がしていた。そして、できるだけ正直にじぶんの気持ちを書いて、返信した。DMなどのクローズな場でそういうやりとりをするのは間違っていると思っていて、それはやはり、こういう事態になったときの責任の所在を、きちんと公に明示しておくべきだと感じていたからだ。

もち鎧さんはすぐに返信をくれて、これまでの記事からおれの作品について書いた部分を消すと言ってくれた。おれはすぐに、お礼のツイートを短く返して、この件は終わった。

でもあのとき、ほんとうは違った。おれがしてほしかったのは、これまでの感想をすべて消してほしい、というのではなく、これからは書かないでほしい、ということだった。最後の返信を返したとき、それを指摘する勇気もエネルギーも、すでになくなっていた。

今だからわかるが、あのときのおれは「あなたにそんなこと言う権利はない」と、もち鎧さんから反論されたかったのだと思う。

あのとき、おれがすべきだったのは、どうしてつらいのかきちんと書くことだった。きちんと伝えることだったし、そして、尋ねることが必要だった。

「なにを目指してその指摘をしているのか」
「努力した部分にもなにか言ってほしい」
「できれば次回から完成稿も見てほしい」

指摘されること、未熟さを言われること、それらは必要なことだと頭では理解していて、その原因が作品のつくり手であるじぶんにあるのも理解できる。でも、それでもなお、こころが耐えられなかったのは、感想を書くもち鎧さんの、書き手として、大袈裟に言うと人間としての部分が、その文章からはほとんど見えなかったのがいちばんつらかった。ひどい言い方をすると、BOTのように感じられてしまうときもあった。

おれたち制作コースの人間は、作品のつくり手は、たしかに感想に飢えている。ほかの感想の書き手が言っていたように、嫌なら見なければいいのかもしれない。ぼくら作品のつくり手が「感想をやめてくれ」ということが、感想といういわば"共有財産"の恒久的な喪失につながるというのもわかる。そしてなにより、感想の書き手には書くことへの権利、表現の自由がある。

でもこういう葛藤が、作り手であるおれのなかにあったことも知ってほしい。感想の書き手に表現の自由があるというのは、言い換えれば感想も「表現」であるということで、そこにはまた読み手からの反応が避けられないということだ。そしてその表現は、おれたちつくり手の作品という土台のうえに成立していることも否定できないはずだ。どちらが偉いという問題ではない。であるならば、感想の書き手と作品のつくり手のバランスもまた平等であるべきだと思う。気に入らない"作品"について観ない(読まない)自由はたしかに存在するが、それはその作品が「Not for Me」な場合にのみあてはまるべきもので、作品というものの土台の上に成立する"感想"という表現物に、「嫌なら見るな」がそのまま当てはまるということには反対する。おれたちが無視しようと、その感想は俺たち以外に向けて発信されつづけ、そこに何が書かれていようと、おれたちには反論の余地もない。そして、作り手からの反応や反論が、感想という"共有財産"の喪失につながるという警告については、そうかもしれないと思う一方で、ではその共有財産のために犠牲になるのは誰のこころなのか、とも思うし、"財産"的な価値観からすれば、今回のケースは市場原理・競争原理的なものに基づいて、良質な感想のみが残っていくプロセスにすぎないので無視して良いという、乱暴で残酷な意見を招く危険だって存在するのではないか。

作品の作り手は感想に飢えている。だが正確に言うと、必要なのは感想そのものというより、信頼できる感想の書き手に飢えている。信頼できる感想の書き手というのは、少なくともおれにとっては、単に間違いや未熟さを指摘するような存在や、「作者のためのアドバイス」ではなくて、おれがあの未熟なネームに七転八倒して、そして完成稿でさらにのたうち回っているように、それと同じように、苦しみながら感想を書いてくれようとするひとで、そしてこれまで、そういう書き手にたくさん出会ってきた。感想がどの方角を向いているのかは問題じゃなかった。たとえそれが、書き手の嗜好全開の感想文であろうと、書き手自身の方を向いていようと、そこに書き手の人間性や、作品からなにかを得ようと苦しんだ形跡があれば、そこに信頼が生まれた。配信動画と比較して、文章だとそれがわかりにくいというのはわかる。今更だが、例えばもち鎧さんの感想が誹謗中傷だったとか、そういう話ではない。でも、少なくともあの感想を読んだだけでは、もち鎧さんがなにが好きで、なにが嫌いで、そしていったい、なにを目指しているのか、ぼくにはわからなくて、それがつらかった。

しかし、今いちばんつらいのは、結果的に、もち鎧さんの表現の権利をおれが奪ってしまったこと、そしてきっと、制作生やほかの聴講生も、もう読むことのできないもち鎧さんの感想を必要としていただろうということだ。

おれは、たとえおれの作品についてのみであっても、感想をもう書かないでほしいと依頼すべきではなかった。対話すべきだった。なぜなら作品と感想は平等で、作品と同じくらい感想にも責任が伴うからだ。であるならば、感想が、作品をよりよくするエネルギーや所作であるのとまったく同様に、おれたち感想の読み手、かつ感想を"言ってもらった"作品のつくり手にもまた、その感想を「よりよくする」手助けをする、その義務が生じるはずだ。だからぼくはあのとき、もち鎧さんから反論してほしかったし、怒ってほしかった。そうすれば、あの感想の、人間の営みとしての部分にきちんと対面して、歩調をあわせることや、あわせてもらうことだって可能だった。あれしか方法がないと感じて、それを選択してしまったのはおれの人間としての未熟さだし、恥ずべきことだったと思う。

ここまで書いたことにすら後ろめたさが伴う。すべてが感想の書き手への甘えのようにも思える。本来であればすべて、作品で挽回すべきことのようにも思える。そもそも、もち鎧さんは、あの一件が原因だとはひとことも言っていない。おれはもち鎧さんがどんな人間なのかも知らない。講座やその後の打ち上げで会ったことがあるのかもわからない。すべてが憶測で独りよがりなのはわかっている。それでも、おれはもち鎧さんに帰ってきてほしいと思う。あの感想文でなにを目指していたのかを知りたい。もしかしたら、それは一緒に目指せるものであったのではないのかと、いま、気がついた。

1年後、2年後、もっと先。

もしその頃の講座生が、感想の書き手として、あるいはおれと同じ受け手として悩んだ末にこの記事を読んでいるのならば、そこに必要なのは「対話」であるとおれは言いたい。感想を書く、その手を抑え込もうとすることは間違っている。でも、それを無視することも正しくない。筆を折るな。感想を止めるな。原稿をしろ。お互いに同じように苦しんで、何度も何度ものたうち回って、そして、ともに伸びていくしか、その解決方法はないのだから。

――R5.09.10「"感想"に対するすべて」
ゲンロンひらめきマンガ教室・第6期制作生
東京ニトロ

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