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細切れの風景


20年以上前の話なんだけど。


7月の昼下がり。Tさんの宅にお邪魔して、まだ来ない友人を待ちながら二人で世間話をしていた時だった。

「itouさん、この前、あそこの歩道を翔くん(長男)と歩いてたでしょ?」

と、突然、尋ねられた。

私は、何の事かわからず、きょとんとした。

「ほら、あのオレンヂ色の日傘をさして、翔君の手を引いて歩いてたんじゃない?ベランダで洗濯物干してる時に、お見かけしたのよ」

同じマンションに住むTさんの説明に、ああそうかも、と私は返事をした。確かにその日は、息子を病院へ連れて行った。

でも、なんでそんな事、気にするのかな?

私のいぶかしげな視線に答えるように、Tさんがちょっと言葉に詰まりながら言った。

「別に深い意味は無いんだけど、itouさんが幸せそうで、羨ましくなったの」

「えっ、羨ましい? 私が?」

私はびっくりした。当時、私は妊娠中で、長いつわりの後の夏の暑さに、バテ気味だった。その上、数か月前に息子が小児喘息と診断され、大きなお腹を抱えて数日おきに病院通いをするのは、とても大変だった。他にも気がかりな事はあり、Tさんや親しい友人達は私のメンタル具合を知っていたはずだ。なので、「幸せそう」と言われて戸惑ってしまった。

Tさんは、もごもごと言葉を続けた。

「私、最近、齢のせいか、昔の事を想い出すのよ。上手く言えないけど、その頃の何でもない日常が、幸せな瞬間だったと感じるの。」

何と答えたか、全く覚えていない。この話題は、そこで途絶えた。



Tさんと初めて会ったのは、子どもの幼稚園の保護者会だった。

当時、3年保育は珍しくて園児が少なかったので、クラスの全員が親子で親しくなった。私は最初の子ども、Tさんは三番目の子の入園で、彼女の方が育児の先輩だった。が、彼女は飾らない人柄で、先輩風を吹かせることは無かった。それに、人に意見を押し付けたりしない性格だったので、すぐに友人の輪ができ、私もその中の一人になった。

子どもを通してのママ友はたくさんいたが、結局、Tさんとそのグループが一番長続きした。幼稚園3年間、小学校6年間、時折会って、たわいもない事や家族とのやり取りなどをおしゃべりしてきた。

その後、私達一家は、息子の喘息の回復を願って、千葉から神奈川の海辺の街へ越した。息子は、田舎暮らしが随分と不満だったようだが、お蔭で喘息は良くなった。

Tさん達とは、年に一、二度しか会えなかったが、それぞれの近況報告や親族の愚痴を、時間が許すまでしゃべり合った。会う回数は減ったけれど、私はずっとあの街の住人のような感覚だった。



変わったのは、311の後だ。


あの街は、千葉県でも汚染が酷い場所だった。

いろいろ調べるうちに、そこに住み続けると放射能の影響で病気になるかもしれない事がわかった。若い人にもその可能性があると確信するようになった。

あの街には、Tさんや友人、息子の友達が大勢いる。隣の市には、実の両親と妹家族が住んでいる。

両親には、あれを食べるな、あそこへ行くな、と口酸っぱく言った。Tさん達と会う時も、放射能の警告をした。最後は、本まで書いた。が、誰もそこから動かなかった。

「itouさん、心配してくれてありがとう。でも、私はいいんだ・・・」

私が放射能の話をすると、Tさんは必ずそう答えた。

互いに、家族や実家の事情をよく知っている。Tさんが動かない、動けない理由があるとわかっている。だから、そう言われると、話はそこで終わってしまう。

Tさんの沈黙は諦めで、私の沈黙は了承だった。



数年後に母が亡くなり、その二年後の秋に父が亡くなった。

松の内が終わった頃、Tさんから寒中お見舞いの手紙が届いた。

Tさん自身が経験した家族間の確執や愛情について書いてあり、私の健康を気遣う言葉で結んであった。が、心がささくれ立っていた私は、ちょっとツッケンドンな口調で愚痴っぽい手紙を書いて送った。後から後悔したが、今度会った時に詫びを入れればいいや、と思った。Tさんなら許してくれるだろうから。Tさんは、気にしてないよ、と言ってくれるだろう。


今年、Tさんからの年賀状はなかった。この年になると賀状欠礼の知らせが多い。

『私、喪中ハガキを見落としたのかなぁ。そのうち、近況報告が来るかもしれない』

と、考えていたが・・・。


先月、親しい友人から電話が有り、Tさんが亡くなったと知らされた。

癌だった。

昨年の秋に発見されたが、その時はすでに手術ができない状況で、2月にホスピスケアで息を引き取った、と。

病気になる原因は一つじゃない。Tさんが癌になった事を放射能と決めつけるつもりはないが、でも、もし、福島の事故が無ければ、今もお元気だったかもしれないと考えてしまう。




2月に息子が結婚した。

新型コロナウイルスの感染拡大が始まる中、息子夫婦は、マンションを探して慌てて引っ越した。披露宴は秋の予定だが、できるかどうかわからない。

私は、親として何もしてあげられないのが申し訳なく、そして、とても残念に思っていた。

「いいじゃないか」

と夫が言った。

「何かあれば、必死になって探してくれる人が、親以外にもできたんだ」

うん、わかってる。わかってるんだけど・・・。



二階の一番奥の息子の部屋に立ってみた。

必用な物は運び出され、今は価値が無くなった様々な物が無造作に置いてある。

眺めているうちに、息子の思い出が湧いてきた。

「子どもは細切れの写真だ」

と、どこかで読んだ。

言い得て妙だな。部屋のあちこちに散らばった息子の思い出は、何でもない日常を切り取った風景だ。

その風景は、細切れのまま、私の記憶の中にひっそりと仕舞われていく。


あの日、日傘をさして息子の手を引く私の姿に、Tさんは、どんな風景を視たのだろうか?  

聞きそびれた事を後悔した。



Tさんのご冥福をお祈りいたします。


(終わり)


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