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はじまり

年末でショップが閉店して
1月に入ってから怒涛の引っ越しを経て
解体工事業者が入った。

ショップの前を通るたびに
あの大きなガラス張りの窓から
どんどん内装が撤去されていっているのが見えた。

カウンターが解体され
壁に貼っていた木材が全部はがされて
床には瓦礫が積み上げられていた。

それを見るたびに
なんとも不思議な気持ちや考えが湧いてくることに気付いた。

ひとつは、作るのには時間がかかるけど、壊すのってあっという間なんだなー-ということ。

もうひとつは、かつて祖父や祖母のお葬式で毎回感じたことを思い出した。
火葬場で「最後のお別れです」って言われるとき、悲しみがピークになってめっちゃ泣いたのに
骨となって出てきたときには、ある意味さっぱりした感じになって
「喉仏が大きいね」とか「脛の骨が強そう」とか言ってたこと。

ショップの瓦礫の山を見ながら、それとちょっぴり似た感覚におそわれた。

さらに、解体が進んでいく様子を毎日見ていたら
「私はこれが見たかったのかも・・・」というのがふと湧いてきた。

完成したものだけじゃなく
壊れていくプロセス。そして創られていくプロセス。

それをもっと大切にしたかったのかもしれない、という想い。

二年くらい、SNSの発信に力を入れてきた。
きれいな景色やおいしそうな料理や、可愛く撮れた自分や、
日常で遭遇する「これいいかも」と感じた瞬間を
どんなふうに切り取ってアップしようかな、と考えたり
新しい講座ができたら、それがワクワクするものになるようにどうやってブランディングしようかな、と考えたりするのが
すごく楽しかった。

他の人のSNSの使い方とかも見て、憧れたりそこからインスパイアされたりしてた。

でも、ショップの閉店が近づくにつれて
その大好きだったすべてが煩わしく思えてきた。

この、「SNS大好きだけど大嫌い」っていう感じ・・・
この2年間ずっと繰り返してきたよね。

投稿するの楽しい♪
でも、思ったような反響がないと悲しい。
そして、そんな自分がイヤだ。
素敵な投稿見るの楽しい♪
でも、どこかで自分と比べちゃったりして落ち着かない。
そして、そんな自分がイヤだ。

自己表現したい!という強い突き動かされるような欲求があるんだけど
それ以上に「どう見られているか」が気になるときがある。
そして、そんな自分がイヤだ。

ここから、一歩深く入っていけるときが来たんじゃないかな、と感じた。

だから、仕事で必要な作業以外、基本的にSNSと関わることをストップしてみた。

そして数か月たったいま・・・

ショップの解体を目の当たりにしながら

完成したものだけじゃなく
壊れていくプロセスや創られていくプロセスも
ちゃんと自分で見てあげたかったんだと感じている。

自己表現は、究極的には自分が自分を見ているよ、受容しているよということだと思うんだけど
きれいな景色やおいしい料理やキメ顔の自分ばっかり見たがっている自分に
嫌気がさすことを繰り返してたんだ・・・

けっこう、衝撃的な感覚だった。

同時に、ショップの閉店という出来事を体験してきたことで
SNSに載せたい自分だけじゃなく、もっといろんな自分をちゃんと見たいってなったことにも感動した。

ショップは本当にたくさんの贈り物をくれた。
存在していたときも、壊れたときも。

その贈り物を受け取って活用していくために
これからしばらくは、自分のプロセスを丁寧に見ていこうと決めた。

いま、何に情熱を感じているか。何を避けようとしてるか。
どんなふうに自分に、そして世界に対応してるか。
どんな気持ちでこの仕事をしてるのか。

どんなときでも、そのときの自分をただそのまま見てあげたいし
それを受容したうえで、肯定したり励ましたり軌道修正したりしてあげたい。

いままでもノートには日々いろいろ書いてきたけど
それはあくまでもインスピレーションの元ネタのように扱って
そこから完成させたもののほうが価値があると判断してたけど・・・

プロセスや体験から学んだことや得たことだけじゃなくて
プロセスそのもの。
体験そのもの。
そっちもちゃんと、大切にしたくなったから。

それを2023年の「自分実験」にしてみよう。

なんだかワクワクしてきた!

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