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「5部作映画」としての『インディ・ジョーンズ』シリーズ/世文見聞録95【5部作映画談】

「世文見聞録」シーズン2。川口世文と木暮林太郎が最新作公開の「インディ・ジョーンズ」シリーズを「5部作映画」として総括して語ります。

○「5部作映画」としての『インディ・ジョーンズ』シリーズ

川口世文:さて、全体を“総括”してみるか。個人的な感想としては最後まで第1作を超える作品はなかった。理由は簡単だ──“聖櫃”以外にインディ自身が生涯をかけて追い求めていたものはなかったから。

木暮林太郎:それを第1作で見つけてしまったわけだから、自ずとそれが“完結編”になってしまったわけか。

川口:残念ながら第2作で以降追いかけている“お宝”は全部“後付け”なんだよね。

木暮:そもそも第2作が、偶然訪れた村の人々の願いを叶える話だったからな。

川口:その“動機付け”の弱さを反省したんだろう。第3作目ではそこを強化しようとした。でも、所詮“聖杯”は父親ヘンリーが追い求めてきたものだ。

木暮:なるほど、ここで完全にインディは“他人の探索をサポートする男”になってしまったわけね。

川口:でも、毎回“村人の願い”を叶えるでは弱すぎるから、必然的に“家族の願い”というテーマになった。

木暮:同時にインディ自身のバックグラウンドを描いたり、キャラクターを掘り下げたりすることもできる。

川口:しかも父親をショーン・コネリーが演じたことで映画的な父親である“ジェームズ・ボンド”との関係も描くことができた。まさに“アクション映画シリーズの語り方”の一つの“発明”だったと思う。

木暮:主人公自身の“アーク”が目的ではなくても、主人公が話の中心にいられるような仕掛けというわけだ。

川口:そう言い換えてもいいね。でも、個人的におれはそれが好きじゃなかったけどな(笑)

木暮:その流れでいくと、第4作のクリスタル・スカルはオックスリーという学者が探し求めていたもので、彼はインディの家族ではないけど、実の息子が慕っている人物だったという、やや遠回りな設定になっているな。

川口:そこで問題になるのが“パーティの人数”だ。第2作はウィリーとショーティ──これはまだいい。

木暮:彼らがいないと、相当に話が痩せちゃうからな。第3作は父親のヘンリーにブロディにサラーで、一気に“おじさん軍団”になる。

川口:第4作ではマリオンとマットの母子、オックスリーに“裏切り者”のマックまで加わり、インディ含めて5人のパーティになる。

木暮:なるほど、いろいろ遠回りな設定をしたしわ寄せがそこに来たというわけだ。

川口:クリスタル・スカルにしても、それを探索することが目的じゃなくて“返す”ことだからね。最後に得たのは“家族”──これはこれで悪くない終わり方だったけど、第1作からはずいぶん遠くに来てしまった。

木暮:その点第5作は息子のマットのみならず、ヘレナの父親のバジルも死んだことにしたおかげで、ヘレナとテディとインディの3人まで“減量”したわけか(笑)

川口:それも反省の結果だろうな。しかも第2作と比べると“女性の描き方”もアップデートされているしね。

木暮:ハリソン=インディが高齢化したことで色恋沙汰も描かなくてすんだ、ということもある。

川口:ただ、今後役者を世代交代させてシリーズをリブートしようとしたときには、こうしたヒロインとの関係性の描き方に苦労するんじゃないかな?

木暮:“インディ・ジョーンズVSララ・クロフト”みたいにせざるを得なくなるってこと?

川口:そこまで極端ではないにしろ、今更“パーティの人数”をインディ1人に戻すことは無理だろうし、そうなるといちばんの問題は“一人の考古学者が生涯をかけた探索”というテーマはもはや描けないってことだ。

木暮:なるほど、だから“インディ”という映画的なアイコンが生きられた時代も終わった、というわけだな。

このシリーズにこそ「運命のダイヤル」が必要だったのか?


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