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力なき者たちの力

共産主義教のプロパガンダは古臭く,今では信じる人などいなくなりましたが,新自由主義教・資本主義教や自己責任真理教のプロパガンダは高度に洗練されており,それがプロパガンダだと気付かせません.

最近でも気持ちが悪いことが続きました.鬼滅の刃の大ヒット,ゲド戦記を称賛する声,池江選手の「個人の感想」に対する共感,私には何故こんなことが起こるのか”感覚レベル”や”共感レベル”ではわかりませんでしたが,ある種のプロパガンダになっているのだろうなと思っていました.そしてたまたま,100de名著で取り上げられたヴァーツラフ・ハヴェルの「力なき者たちの力」を読んでいたら,「まさにこれだ」という箇所がありました.その後の記述も現代の日本のことを書いているかのようで興奮しました.

以下は「力なき者たちの力」と「100de名著の解説」の引用です.

イデオロギーは本質的に極めて柔軟であるが、複合的で閉鎖的な特徴から世俗宗教のような性格を帯びている。どのような質問に対してもすぐに答えが出される。その答えは単なる一部として受け止めることが出来ず、人間という存在の奥深くにまで介入している。形而上的、実存的な確実性が危機に瀕している時代にあって、寄る辺なさや疎外を感じ、世界の意味が喪失されている時代にあって、このイデオロギーは、人びとに催眠をかけるような特殊な魅力を必然的に持っている。さまよえる人びとに対して、たやすく入手できる「故郷」を差し出す。あとはそれを受け入れるだけでいい。そうすれば、ありとあらゆるものが明快になり、生は意味を帯び、その地平線から、謎、疑問、不安、孤独が消えていく。

(略)

このようにしてポスト全体主義体制は、人間が一歩踏み出す度に(スローガンとして)接触してくる。もちろん、イデオロギーという手袋をはめて。それ故、この体制内の生は、偽りや嘘で塗り固められている。官僚政府は人民政府と呼ばれる。労働者階級という名の下で、労働者階級が隷属化される。(略)表現の不自由は、自由の最高の形態とされる。(略)権力は自らの嘘に囚われており、そのため、すべてを偽造しなければならない。過去を偽造する。現在を偽造し、未来を偽造する。統計資料を偽造する。全能の力などないと偽り、何でもできる警察組織などないと偽る。人権を尊重していると偽る。誰も迫害していないと偽る。何も恐れないと偽る。何も偽っていないと偽る。

このような韜晦のすべてを信じる必要はない。だが、まるで信じているかのように振る舞わなければならない。いや、せめて黙って許容したり、そうやって操っている人たちとうまく付き合わねばならない。だか、それゆえ、嘘の中で生きる羽目になる。(ヴァーツラフ・ハヴェル「力なき者の力」)

ポスト全体主義は、手袋をはめた見せかけの姿(現代でいえば街中の広告、テレビCM、ネット情報など)で人々の生に接触していく。そして、その「嘘の生」をただ受け入れるだけで、体制を承認することになり、そのことが体制を体制たらしめるとハヴェルは考えた。つまり、ポスト全体主義の本質は「嘘の生」という見せかけの世界であり、それは特定の権力者が支配する制度ではなく、そこに関係する誰もが関与し、積極的にであれ、消極的にであれ、体制を承認してしまうような世界なのだ。

「自発的に体制に奉仕させるシステム」には、個々人がそうした方が自分に害がなく得があるのではないかという空気が醸成される要素があり、そのような空気が醸成される背景には、「良心」や「責任」という倫理的なものと引き換えに、「物質的な安定」を確保せざるを得ない現実、今自分が享受している権利を失ってしまう不安がある。

ハヴェルの分析は、ポスト全体主義にとどまるものではなく、消費社会が過度に進んだ西側社会、つまり、現代の先進国の世界も射程に入っている。

(略)儀式を拒み、「ゲームの規則」を破る。抑えられていたアイデンティティと尊厳を再発見する。自由を実現する。かれの拒絶は「真実の生」の試みとなる。(ヴァーツラフ・ハヴェル「力なき者たちの力」)

ちょっとした疑問や胸騒ぎをきっかけに、スローガンを掲げるのをやめる。自分があまり意識せずに行っている一つの「所作」の意味について、立ち止まって考える。こういったことが重要だとハヴェルは言いたいのだろう。

「ゲームの規則」を破って、あるべき"ゲームを中断した"。そして、それは単なるゲームに過ぎないのを明らかにした。(略)王様は裸だと言った。だが王様は本当に裸だったため、極めて危険なことが起きた。(ヴァーツラフ・ハヴェル「力なき者たちの力」)

ハヴェルは、ポスト全体主義(と現代)の特徴として、権力が匿名化されていることを指摘している。人間は、その「見せかけ」の世界の中で融けてしまい、主体性が失われる。そのため、個々の人間は、「顔のない人間」、あるいは「人形」として排除される。そこにあるのは、すべての人が空気を読み、期待された役割を演じる予定調和の生活だ。しかし、"目覚めた人"のようにその生活を逸脱し、自分で考えた振る舞いをすると、当然その「見せかけ」の世界の根幹が揺らいでしまうのだ。


映画「マトリックス」あるいは「トゥルーマンショー」みたいですね.

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