経営コンサルティングの社会的意義

先日、プライベートで珍しく学生と話をしたら「経営コンサルティングの社会的意義は何か?」といった質問を受けた。そこで本エントリでは少しこのテーマに関して自分なりの意見を述べたい。

この質問をしたのはこれから就職活動を始めようとしている学生であり、上記の問いは就職活動を考えるに当たって考えたものだと見られるが、大前提として就職活動においてはこういったことはあまり考え過ぎるべきではないと思っている。理由は就職活動をすると、妙に頭でっかち・理屈先行になってしまうためでる。「社会的意義」「自分の価値観」「ミッション」「社会への貢献方法」などといったことを考えることをいわゆる就活本などでは推奨されるし、それは一定程度は意味があるとは思うが、多くの学生は(就業経験がないこともあり)頭でっかちになり全く身を伴わないものになってしまうために、過度に考えすぎるべきではないと私は思っている。そのため社会的意義といった難しいこともあまり考えすぎずに、一定の外形的条件を満たした上で、後は面白そうな仕事を選べばいいと個人的には思っている。

その上で本題の経営コンサルティングの社会的意義をいくつかの観点から考えてみる。

まずは一つ目。そもそもビジネスとは製品・サービスを提供しその対価を得る行為であるため、自由市場においては顧客が望んだものを企業は提供しているといえる。顧客は他のどの提供者でもなくこの企業を選んでいる時点でそれは顧客にとって論理的にはベストな製品・サービスを提供していると捉えることができるため、それ自体は価値があることと言える。企業活動を通じてこのような製品・サービスを持続可能な形で提供し続けられればそれは社会的意義があることと見ることもできる。ここで述べている持続可能な形とは、法令を遵守しながら、取引先や従業員に正当な対価を支払い、税金を納め、投資家が期待できるリターンを提供し続けることができれば、それは立派な社会貢献と見ることもできるだろう。(もっとも日本企業は総体としては投資家が期待するリターンを提供しているかは議論の余地がある。)

このような見方をすれば当然、経営コンサルティングファームにも社会的意義はあると言える。(なお通常は経営コンサルティングファームはパートナーシップ制を採っているため、上場企業のような期待リターンとは少し異なる。)これは一つの理屈ではあり個人的にはこれを満たすだけでも十分に尊い活動だと心の底から思っているが、人によっては「社会的意義」はこれでは不十分かもしれない。

二つ目。もしも「社会的意義」を、企業活動を通じて取引の範囲を超えてステークホルダーに対してプラスの影響を提供すること、と定義してもう一度、最初の問いを考えてみたい。顧客(経営コンサルティングの観点ではクライアント)が当該製品・サービスを購入することで更にこの顧客が何らかの付加価値を生み出し、更に顧客の顧客が価値を生み出す、といった発想であり「社会的意義」の大きい業界であればその範囲と価値が大きいことになる。この視点で考えると、経営コンサルティングは個人的には経営、より広くはビジネスマネジメント、というものに一定の貢献はしているのではないかと考えている。BCGのプロダクトポートフォリオマトリクスに代表されるように経営コンサルティングファームから生まれたビジネスマネジメントの思想などはそれなりにあり、これらは直接のクライアント企業以外に対しても影響をある程度は及ぼしたとは言えると私は思っている。経営コンサルティングの活動から経営/ビジネスマネジメントシーンに対して社会に対してポジティブな影響が「滲み出ている」感覚である。

特に日本に関しては詳細は割愛するがいくつかの観点で考えても、あるいは経営コンサルティングの現場からの素朴な感想としても、明らかに経営/ビジネスマネジメントというものに課題があると私は思っている。経営コンサルティングファーム各社がさまざまな活動を通じて僅かかもしれないが、今後も企業の経営/ビジネスマネジメントに対して貢献ができるのではないかと思ってるし、そう願っている。これは立派な「社会的意義」であるといえるのではないだろうか。

やや脇道には逸れるが経営コンサルティングファーム各社はさまざまな論考を対外的に発表しているが、これはなかなかインパクトのあるものを出すのは簡単ではないと思っている。このような論考はそもそもフィーが発生しているわけではなくある種「片手間」に行われていることが多いということは現実的な問題としてはあるが、より本質的には経営コンサルティングファームはクライアントに対して個別解を提供していることを生業としているため、クライアントが存在せずにさまざまな聞き手がいる中ではどうして論考が一般論となってしまい迫力がなくなってしまうためである。もちろんプロダクトポートフォリオマトリクスくらい洗練されたものであればコンセプトに斬新さがあるために十分に迫力が出るし、それを目指すべきではあるが、やはり経営コンサルティングファームは一般論ではなく個別論を生業としていることを考慮すると各種の論考はなかなか迫力が出ないのである。(この辺りは大前研一氏の名著「企業参謀」でもシンクタンクと経営コンサルティングファームの違いについて少し述べられていた。)

三つ目。最後に代替可能性の観点で考えたい。実はこの視点で考えると、経営コンサルティングというものは業界としては「無くなってもほとんど企業は困らないし、また特に消費者からも悲しまれない」特徴がある比較的珍しい業界ではないかと思っている。建設機械業界はなくなったら世の中が立ち行かなくなるし、任天堂のようなエンターテインメント企業であっても代替可能であはあるが少なくとも業界が無くなったら悲しまれるだろう。ところがこの世の全ての経営コンサルティングファームが明日から消えて無くなったとしても特に困らない。(もしも顧客の活動が立ち行かなくなることがあるとしたらそのようなサービスは果たして経営コンサルティングなのかは怪しいと私は思う。)ビルを建てるには建設機械が必ず居るが、経営においては経営コンサルティングは必須ではないのである。

もし私の最も付き合いの長いクライアントに対して、業界全体が無くなることを伝えに行ったとしても「いやあ、それは残念です。でもこれからは、これまで色々と頂いたアドバイスを思い出しながら自分たちでやっていきますね。今までありがとうございました。」とだけ感じ良く言われ、このクライアント企業は特段の問題もなく活動を続けるだろう。結局のところ、経営コンサルティングはサービスとして考えると、そもそも利用しない、言い換えると内製化できる性質があり、本質的には”Nice to have”なサービスなのである。これは医師、弁護士、弁護士、建築士、投資銀行部門などのいわゆるプロフェッショナルファームと比較しても珍しい性質であると思っている。(投資銀行部門に関してはM&Aアドバイザリーは内製化は理論上は可能であると思っている。)

この「無くなっても困らない」という性質があり、そもそも依頼しない(理論上は内製化する)という選択肢があることは業界の振る舞いに強い影響を与えると私は考えている。なくても困らないサービスだからこそ、一つ一つのコンサルティング/アドバイザリーがシビアに見られるのである。経営コンサルティング業界でプロフェッショナリズムの重要性を語られるのはいくつかの理由があるが、その一つはこの特性があるからこそであると思っている。私自身はこの職業にいくらかの年数を過ごしているため慣れたとは思っているが、それでも「いつ依頼されなくなってもおかしくない」という感覚は厳しいし緊張する。ある種の恐怖もある。

もちろんどのような業界であっても業界内では原則としては競争が存在するために、どの企業も個別には顧客からの要求に応えなければいずれビジネスを失うことになるため当然、緊張感は存在する。そのため経営コンサルティングが特別であるとは思っていない。しかしそれでも比較としてそもそも業界として無くても問題ない性質がある方がシビアさは増すのは自然と言えるのではないかとも思っている。

幸いなことに経営コンサルティングファーム各社は「本質的には不要」な業界において、これまでのところ発展し続けてきており、これは偉大な先人たちがシビアなクライアントからの要求に総体としては応え続けて価値を出してきたことの証左だと思っている。この職業に従事しているのであれば、このことは肝に銘じておくべきことだと思っている。

この学生からの質問を通じてこのようなことを考えたのである。

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