企業価値向上のための経営

このエントリは日本の大企業の企業価値経営に関する筆者なりの見解を述べたものである。いうまでもなくこれは筆者の個人的な意見であり所属するファームを代表するものではない。また一部にはコーポレートファイナンスの用語を用いているがあまり細かいことは理解しなくても根底にあるメッセージは伝わると思っているので、用語が多少分からなくても企業経営に関心のある方にはぜひ読んでいただきたい。

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2014年に経済産業省が公表したいわゆる伊藤レポートではROEが「少なくとも」8%を上回らないと株主資本コストを上回らず株主の視点で見て当該企業は価値を創造していないといえるが、日本は総体としては米国、欧州よりもROEが著しく低く価値創造していない水準であることを指摘している。(コーポレートファイナンスに明るくない方は詳細には捉われずに一旦は「企業はある一定水準の利益率を出さないとコーポレートファイナンスの見地からは価値を創造していない」という意味だと思ってもらいたい。)ROEは財務レバレッジで人為的に引き上げることができるために指標として望ましくないと指摘する一部の経営者もいるが、この財務レバレッジの影響を取り除いたROICとWACCのスプレッドで見てもその傾向は全く変わらない。つまり日本企業は総体としてはコーポレートファイナンスの意味では価値を創造してないのである。

企業価値経営の観点からドライに考えればこのような事態における処方箋は比較的シンプルである。価値破壊事業のうち売却できるものは売却し、それが難しい事業や製品や地域単位などのもっと細かい粒度のビジネスであれば撤退をしそれに伴って浮いた人員は再配置をするか削減するのである。そしてそのような事業に投下されていた資金や人員を自分たちが得意な事業に大きく投下するのである。そしてこのような大胆な経営資源の分配を機動的に実施する規律を導入するのである。そしてもしも価値破壊事業を撤退しても成長が見込める事業がなければ資金を株主に還元するし、また場合によっては身売りを考えるかもしれない。少なくとも多くのアメリカの大企業の経営者ならこのようなことに真っ先に着手するだろう。

一方で日本の経営者がこのような状況と解決策を認識していないのかと考えると必ずしもそうでなはないと考えられる。日本の経営者も決して馬鹿ではないために、少なくとも今の利益水準がコーポレートファイナンスの見地からー企業価値経営の見地から、と言い換えることもできるー望ましくないことは大半の経営者は理屈としては理解はしており、論理的な解決策も認識していると思われる。ただそれを実施しないのは業界を代表するある著名なシニア・コンサルタントの言葉を借りれば以下のようである。

株主価値向上を経営の正とした場合であり、日本の経営者はいまや形の上ではガバナンス強化やIRの実施など体裁を整えていますが、彼らは必ずしもそれを経営上の正義とは考えていないでしょう。彼らにとって会社の存続と雇用の維持は優先課題であり、非効率であっても財務基盤を厚くして、激変緩和を行うことを是としているはずです。もっと引いてみると、(中略)資本の論理を徹底することにより企業や事業の優勝劣敗が促進されて結果として資本の生産性は高まるが、同時に頻繁な雇用調整や社会的ストレスが発生し、所得格差も際立つような社会に対するレディネスやコンセンサスは今の日本社会には成立しておらず、むしろ低成長に喘ぎながらも、皆で肩寄せ合ってまったりと衰退していくことが暗黙の社会的デフォルトではないでしょうか。

これは元産業再生機構のCOOで現在は経営競争基盤 (IGPI)のCEOの冨山和彦氏も日本の経営の現場では「会社には共同体的精神が存在しムラ社会的論理が優先される」といった旨を多くの著書で述べている。これは筆者自身の経営コンサルティングの現場で得られる感覚とも一致する。筆者の知る経営者の中には、まさに「ムラ社会的論理」を優先してどう考えても利益が望めない事業を十年以上に渡って続けていた人物もいた。この経営者はメディアに実力経営者として頻繁に登場しており実際に成果を上げてきた人物であり筆者もとても尊敬しているしある種の憧れは抱いているがそのような実力者であっても「ムラ社会的論理」を乗り越えようとしなかったことはとても印象的であった。

また株主からのガバナンス上の問題もあるだろう。会社は少なくとも法的には株主が所有しているものであり(もっとも株主至上主義が普及しているアメリカでも最近はやや揺り戻しの動きはあるが詳細は割愛する)、企業が価値を創造せずに結果として株価が上がらなければ経営者を批判し場合によっては社長をクビにする。これは大袈裟ではなく日常的に生じていることである。いわゆるアクティビストだけでなく他の形態の投資家であっても経営者が企業価値ないしは株主価値向上に十分な仕事していないと思えば、必要に応じて社長の再任に反対票を投じるのである。代わりに株主の期待に応えられたら経営者には大企業であれば何十億円単位の莫大な報酬が入るという強烈なアメとムチの仕組みが導入されている。

一方で日本の資本市場を見るとここまでドラスティックな構造にはなっておらず経営者が株価を上げていないことで強烈に批判を浴びたりクビになったりすることはまずないし、統計は見たことはないがおそらくはアクティビスト以外の機関投資家の取締役の選任に関する行動原理も大きく異なるだろう(スチュワードシップコードの導入で幾らかの変化はあったが、それでもまだ欧米と比べると大きな差はある)。もちろん経営者の報酬の水準も欧米に比べると著しく低いことはよく知られるところである。また社外取締役も実態としてはいわゆる社内取締役を中心とした経営陣が選んでいるために、極端にいえば厳しいことは指摘しない「ゴルフ仲間」が就任し、結果的にガバナンスが効きにくいという意見も多く聞く。このようにエクイティガバナンスがかなり効きづらい状況になっていると考えられる。よく指摘されている通り日本の大企業の多くでは90年代前半までは銀行によるデットガバナンスにより一定の規律が効かされていたが90年代後半以降は銀行の影響力は弱まった一方で株主によるガバナンスは制度上はできたとしてもその実効性は乏しかったといえるだろう。

なおここまでは総体としての日本企業と欧米企業の比較を述べてきたが、そもそも欧米企業を手放しで称賛しそれを目指すべきだとは主張をしたい訳ではない。ただ欧米企業は総体としては株主価値あるいは企業価値を創造してきたのに対し、日本企業は総体としてはむしろ価値破壊をしてきて結果として株価も何十年にもわたって上昇していないことからは目を背けるべきではないだろう。いわゆる「日本的経営」のあり方や「株主至上主義の弊害」に関する議論も必要かもしれないが、それは少なくともある程度の価値を生み出してからの議論だろう。

ある有名なエンゲージメントファンドの幹部はその背景には上記で述べた共同体的精神が根底にはありつつも、日本の企業の多くは使用人を兼務する取締役(いわゆる社内取締役)によって経営されておりこの社内取締役は長期にわたって従業員として勤めてきた人たちから選ばれ、また「ムラの外と内」では大きな情報格差が存在するために、内部昇格の取締役でないと経営が務まらないという制約もあると述べていた。(この問題は指名委員会等設置会社の誕生により組織の体裁上は理論上は解決できる。)個人的にはこの指摘は半分は正しいが半分は必ずしも正しくないと考えている。(まだ日本では必ずしも例は多くはないが)業界歴は長くはないいわゆるプロ経営者が外部から来て大きな実績を挙げている例もある通り、経営は事業の仔細を知らなくても本来はできるものであるため「情報格差問題」は案外に経営レベルではないのではないかと考えている。一方で日本企業のように内部昇格が中心だと経営を担う幹部クラスであっても営業・製造・営業といった機能的な知見はあっても経営の知見は乏しくまたその準備ができていないケースも多いため「情報格差があるから外部人材は活躍できない」という理屈は当てはまらないと思っている。むしろ業界歴が長いが経営者としての経験や知見に乏しい人よりも、業界知見はないが経営者の経験のある人の方が高い実績を上げられると個人的には考えている。

ただし経営リテラシーの問題は存在しているとは思っている。欧米ではMBAが発達しMBAを持った30歳前後の人材が幹部候補生として雇用されており本人も会社もその自覚があるために経営への意識が高く、またさまざまな経験を通じて経営リテラシーが伸びやすい環境があるだろう。またそのような環境であれば必ずしもMBAを出ていなくてもMBAで学ぶような基礎的なコーポレートファイナンス、戦略、マーケティング、オペレーションなどの概念が知らず知らずのうちに普及しているのではないだろうか。一方で多くの日本企業は先ほども述べた通り機能的な知見は持ってもマネジメントという文脈での経験は乏しいのではないかと考えられる。

更には解雇規制と人材の流動性の問題もある。法的にもまた社会通年的にも日本において解雇をすることは難しいとされており(ただし最近は昨日報道された武田薬品工業などのように黒字企業であっても希望退職を募る事例が増えてきた)、人員削減は最後の手段と位置付けられていた。また転職はだいぶ増えてきたとはいえ一部の能力の高い人たちを除いては、転職をすることによるデメリットの方が多い場合も多いと見られる。これは上記で述べたムラ社会的」特性に加えてスキル面の問題もある。いわゆるジェネラリスト型の採用と育成が日本の大企業の主体である場合が多く、特定企業の文脈では活躍できても必ずしもポータブルなスキルは身につかないために転職することは合理的な選択とはならないのである。

この雇用をどこまで守るかということは宗教論争的な側面も多分にあるがマクロ的には付加価値の低い事業から高い事業に人材が再配置されることによる社会全体としての生産性は論理的に考えて上がるだろう。逆に雇用の維持を聖域にするあまりに生じる弊害もある。コマツの企業価値向上に貢献した坂根元社長も不景気のときに生産性の低い米国事業の雇用を守ったが、反対に好景気のときに人員を機動的に増やせなくなってしまったために雇用を守る判断は必ずしも正しかったとは思えないと後に回顧している。またある大手電機メーカーのエースエンジニアが担当していた事業がなくなったために研修施設の警備員として働いていた、といった事例もあり、果たして雇用を守ることが社会全体にとって必ずしも最適とは言えないのではないかと個人的には考えている。少し穿った見方をすれば「雇用を守る」というスローガンの元に問題の先送りをして、結果的に国全体の競争力を削いでいるとも思える。

またここまではコーポレートファイナンス的な意味での価値創造・破壊という概念を述べていたが、いうまでもなく企業価値を向上することは投資家のためだけではない。儲からない事業から撤退し儲かる事業に経営資源を投下するという当たり前のことを繰り返すことで、事業の競争力は上がるのである。単純に考えて同じような能力の人たちが同じような製品・サービスを提供しているのであれば、そこに投下している研究開発費や営業費用や人員が多ければ、論理的に考えて競争には勝てるのである。実際にある事業は国際的に見ても競争力が高いが、不採算事業を抱えていたり収益性を十分にマネージしていないが故に会社全体としての収益性は低く、結果的に海外の競合よりも投資や研究開発費が劣っている、といった会社は多くある。このような状況であれば論理的には10年後、20年後にはシェアを大きく落とすことになるだろう。そして競争がグローバル単位になればなるほど合理的な経営が事業上の差を生むことになるだろう。つまり企業価値を上げるために合理的に行動することは事業競争力の向上にも結びつくし、また雇用も生み出すのである。

このように資本市場、労働環境、経営者のインセンティブ構造、人材育成環境などさまざまな問題が「がんじがらめ」となってしまった結果が今の日本企業の総体としての生産性の低さの背景にはあるのではないだろうか。そしてそのことはどれだけ言語化されているかはともかくとして大半の経営者、投資家、政府関係者は理解しているように思える。問題の在り処は分かっているが、がんじがらめになった結果、解決の糸口が見えていないのではないだろうか。

筆者自身も経営コンサルタントの端くれとして上記のような問題意識は持っているものの、やはりこれをどのように解決すればいいのかは正直なところ分からない。もちろん直接のクライアント企業に対しては可能な限りの提言はするし、またさまざまな形での問題提起はしているが自分の実力不足も多分にあるが、やはりそれだけでは限界を感じる。壁に突撃している感覚なのである。また投資家たちの中には似た問題意識の元に株主の立場からの働きかけも行っている。また官公庁も経済産業省を中心にさまざまなことに取り組んでいるし、特に2014年の伊藤レポートは大きな影響を与えたと思っている。そして何よりも企業経営者の中には似た問題意識から従来よりもドラスティックな取り組みを行い結果を挙げている経営者も出てきている。ただし関係者が個別に取り組んでいるだけでは、この問題は根深くそう簡単には解決されないとも思っている。さりとて残念ながらいい解決策もないのが実情であり、そのためにこれからも定期的に「クラッシュ」が起き続けるのではないかとも思っている。

ただ壁にぶつかり続けることには僅かかもしれないが一定の意味はあると思っているので、当面は壁にぶつかり続けようと思っている。

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