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 大杉栄 エピソード 1/2 ある日、心うちひしがれて、永井荷風

 大杉栄の思想と行動は本文にまかせて、初めて知ってご存じない人のために、少しばかりのエピソード。

1、
 ある日、永井荷風は心うちひしがれて、たぶんに派出所より大きい警察署の近くを歩いていた。

ふとそばに車が止まり、過激な犯罪者集団だろうか、列をつられて、ちょうどその警察署に送り込まれようとしていた。最近よく聞かれる「政情不信」に批判している若い連中のようだった。
たびたび声も聞かれ、多少共感することはあっても心やさしく気弱なカレ、ひと一倍反抗的気質があっても気持ちを外に出すことができないで、文学好きのカレにはとても柄にあいそうにもなかった。
こんな場面を横目に見ても、何ひとつできない無力さが漂っていた。
このとき以来、カレが好んだ江戸時代末期の憂世みたいに世の中を超越して、捨てたように社会の裏道を歩いていこうと決めた。

2、

 赤旗事件でやられて、東京監獄から千葉監獄へ連れてゆかれた、二日目かの三日目かの朝だった。 はじめての運動に、いっしょに行った仲間の人々が、中庭へ引き出さ れた。半星形に立ちならんだ建物と建物との間の、かなり広いあき地に石炭殻を一面にしきつめた、草一本生えていない殺風景な庭だ。
 受持の看守部長が名簿をひろげて、一列にならんでいるみんなの顔とその名簿とを、しばらくの間見くらべていた。が、やがて急に眉をしかめて、幾度も幾度も僕の顔と名簿とを引きくらべながら、何か考えているようだった。
「お前は大杉東というのの何かかね」
 部長はちょっと顎をしゃくって、少し鼻にかかった東北弁で尋ねた。
 名簿には僕の名の右肩に、「東長男」とあることは知れきっている。それをわざわざこう言って聞くのは、いずれ父を知っている男にちがいない。その三十幾つかの年恰好や、監獄の役人としては珍しい快活さや、ことにその僕に親しみのある言葉の調子で、僕はすぐにどこかの連隊で下士官でもやっていたのかなと思った。
「先生、親爺おやじの名と僕の前科何犯とをくらべてみて、驚 いてるんだな」
 僕はそう思いながら、返事のかわりにただにやにや笑っていた。それに、こんなところで父を知っている人間に会うのは、少々きまりも悪かったのだ。
「東という人を知らんのかね。あの軍人の大杉東だ」
 部長は不審そうに重ねてまた尋ねた。
「知らないどこの話じゃない。そりゃ大杉君の親父さんですよ」
 それでもまだ僕がただにやにやして黙っているので、とうとう堺君が横あいから答えてくれた。

大杉栄『自叙伝』

 常に人生の明日がわからない生き方をしていた大杉は早めに自叙伝を書き、出だしはこんなふうに始まった。

戦後まで生きて評価され、回顧する荒畑寒村さんの自叙伝は、職工の昼休みの弁当時間、包んでいた新聞を見たことから始まっていた、このときから人生が変わった、そこには萬朝報の幸徳秋水と堺俊彦の退社の辞が載っていて、象徴的な始まりで物語を思い起こさせた。
昨今のメディアに似て、生活と身に危険を及ぼすものにことのほか弱くて、なんの批判もなしに国の政策に対して茶坊主みたいに追随するのを嫌い、日露戦争に反対して新聞社を退社したのだった。
戦争に勝ったからいいようなもので、戦争に行く人々や国民に危険を及ぼす戦争を拒否してい
た。

それと変わって大杉の自叙伝の始まりは、いまもなお断続的に続く、いまここにあるものを感じさせて、完結されたことを感じさせない。
勝海舟や坂本龍馬はじっさい存在していても、物語として完結し、大杉の場合は教科書に名前が載っても、学校ではいまなお解説されない危険な現在進行形のものだった。

3、
 月を見る刑務所内。

そのとき刑務所の鉄格子から見える月は、とても白く映えていたかもしれない、やおら大杉は近くにあった食器を手に握ると、壁をトントンたたいて仲間らと確認しあっていた。

「月に吠える者は
孤独な私の感情を聞いてもらいたくて、ともに愁いを持つ人と享受したいと願い、
またいっぽうで月に叫ぶ声は、
反抗の狼煙をあげるかのごとく、ともに闘う同志を呼びかけ、
満月の夜は、なぜか体がウヅク女性にも惹きつけあうものがあった。」

 少し照れますけど、以前書いていた「月を撃つ」の中からおもわず引用してしまいました。

同じ月を見ても、人によって違って見える。

「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月もちづきころ
と歌った西行は世を捨てたように虚しい心を携えながら、満たされない恋の歌も歌い、月を見て心を照らしていた。

いっぽう西行と同じ歳の平清盛、たぶん草鞋みたいな立派な履き物もない裸足同然の部下の仲間とともに、荒れた大地で月をあおぎ見ていただろう。
かれは朝廷に対する藤原純友や平将門の反乱よりも、朝廷の体制そのものが変わる新しい人間の登場を予感していた。

 そして時は流れても空には、まだ月はポカリと浮かんで、存在していた。
孤独な魂をたずさえ近代人の自我を歌う萩原朔太郎によって、月はふたたびわれわれの前に姿をあらわし、「月に吠える」で絶唱された。
そんな萩原朔太郎とひとつ違いの大杉栄も、違うまなざしで刑務所の鉄格子の中から月を眺めていたに違いない。

先ほどの勝海舟と坂本龍馬は、もう江戸幕府はかじ取りはできない、と見切りをつけ徳川慶喜に体制奉還を願った。
でも新しい政府を求めても、真の国家体制そのものに疑問を持つ現代人の登場は大杉栄を待たねばならなかった。
勝海舟と坂本龍馬は物語として完結しても、大杉の思想と行動はいまなお現役だった。

平清盛は源氏・北条の正当化のために悪役にされ、大杉栄の場合、商業的資本主義のアメリカに反対するものはすべて悪であるという今の日本政府から、意見を問わず危険人物と見なされても、江戸幕府の公敵である高野長英が後に明治政府から名誉回復されたように、用心棒のアメリカの存在有無しだいで変わるようです。


4、
 大杉栄を追悼する座談会があった。

 ライヴァルで日本のレーニンといわれ、年上でもあった山川均が、かれの生前を振り返り、どう思いだしても歯を食いしばってがんばっている顔が浮かんでこないと述懐していた。
じっさい過酷を極めた弾圧の中でも、深刻な顔は浮かんでこないで、人には厳しくて鋭く見え、柔和にも感じられる大きな目だけが浮かんできたそうだ。

でも、ともに闘った荒畑寒村さんは知っていた。二十歳過ぎの頃、ともに警察にひっぱられて、裸にされ、上から押しつけられ袋だたきになったときに、とても悔し涙を流していた。


5、
 二十歳のころハーバード・リードの現代芸術論を読んでて、ふと著者の紹介文を見たら現代最高のアナキストとあった。

えっアナキストって、テロリストと同じじゃないの、と驚いた。
その当時幼くて、いかに学校教育やテレビと
新聞に冒されているか思いさらされた。
いくら生まれたときから資本主義の中で育ってきたからって、逆パターンの中国と北朝鮮の子どもだった。

カミュがアナキストで、サルトルがマルクス主義者と聞いて戸惑いこんがらがって、ボクって何、資本主義者かな、あーこわ。

そういえば数年前亡くなった評論家の鶴見俊輔さんが、若い頃アメリカにいたとき、警官から職務質問を受けた。
おまえは何者だ、と問われ、アナキストだと言ったら、こっちへ来いと引っぱられていったそうです。


6、
 春三月  縊り残され 花に舞う

 大逆事件のおり、これ幸いと口実をつけられ幸徳秋水は無実の罪で処刑された。
大杉は刑務所にいて、からくも身が拘束されていたので、国家政府も口実ができず身は逃れた。
そのときの幸徳への寄せ書きの中に大杉の句がひとつあった。
「春三月  くびり残され 花に舞う」

この幸徳秋水の本名は幸徳 傳次郎こうとく でんじろうといって、中江兆民の貧乏書生をしていたときに兆民(本名は篤介とくすけ)の数ある号の中からもらった。

余談ですけど、じつは大学生の頃、自分の家みたいにいつもボクの下宿に来ていたO君は、変わった名前の歌手、井上陽水と同じ福岡県の田川育ちだった。
本名なら、中国風の音である「ようすい」でなく、戸籍では訓読みだといわれ、ググってみれば「あきみ」とあった。
たぶん憶測で、父親が尊敬していた人にあずかってつけたかもね、わかんないけど。


7、
 男の顔は履歴書
とはよく聞かれる言葉で、以前作家の野坂昭如がある雑誌の対談で大杉栄のことに話題が移り、おもわずつぶやいていた。
「どうしたら、あんな顔になるんだろう」

じっさい大杉栄はご存じのように女性が好きで話題を提供して、とても子煩悩だった。
あるとき子どもが道端で、我をはって泣き叫んでいた、誰のなだめも聞かない。
そんなおり、ちょうど通りかかった大杉、しばらく子どもと見つめあっていたら、大きな声で泣き叫んでいた子どもは急に心ほころんで柔和になったそうだ。
大杉はヒッヒヒと笑いながら、その場を離れていった。


大杉栄

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