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「短編コント」  みんな、おまえが悪い (侏儒ものがたり)


 * 現在のいま在る情況は、常に大人みたいに分別があり理性があるように思われて


1.

 つね日ごろ、知って言わないことと、知らないで言わないことの差は天と地の差があると夏目和尚は考えていた

 中国に禅を広めたダルマのように頭だけではなく、少林寺拳法を教えて身体も鍛えたものだった

 同じように、日ごろ知を知って鍛えていなければ、いざというとき相手のいうことがなんでも正しく思ってしまう

 平和のときは政治なんて興味ないね、といっている者が情況が変わって戦争状態になったら、ものごとがもっともらしく見えて支持したり、また平和になって落ちついたら、今度は戦争はくだらないという


 現在のいま在る情況は、常に大人みたいに分別があり理性があるように思われ、政治家のいうことが正しく思えてきて、後で失敗したり戦争で敗北したら、じぶんたちをタナに上げて非難するのがいつものお決まりのパターンである

 選挙違反したら、みんな秘書のせいにするといって政治家を非難するくせに、国民のじぶんたちもあまり言えたものじゃなかった

 “ ほんとうなんです、政治家の人に言われたからしただけなんです、何も知らなかったんですウ、軍人さんの言うとうりにしただけなんです ”


 日ごろ知を鍛えて、じぶんの考えを持っていないと、あとで後悔して泣きじゃくるのが関の山だった 
(それから朝乃山、ホント大丈夫かな、応援してます)

 それゆえ政治とか文学は知ってオモテに出さなくてもこころがけ、受けて立つ姿勢を常に弟子たちに学ばせていた 


2.

 ところで、
「みんな、私が悪いのです。ここは世間の皆様にナニハトモアレお詫びします」

 というのが日本男性の美学とはいえ、さっきも言ったように無意識な責任転嫁も免れたく、ましてや昨今アメリカの訴訟文化も入ってきて、みんなおまえが悪いといいたがるアメリカ人のモットーに似て、文明や文化の衝突が起き、もはや日本的コンセンサスだけでは通用しなくなってきた

 アプリを開けば、利用規約とか同意とか後で文句いわれないように但し書きを多く読まされて、逃げ道をつくっているようだった

 そうは言ってもそこはそれ、知識を知ると自慢して、とかくじぶんの考えていることを披露したがるのが若い者の常で、弟子たちは昨日も今日とて、会えば討論が始まるのだった


 いまも、禅寺の文学院では茶川ちゃがわと菊珍が何かと言えば、もめていた

「資本主義社会では、
自由だといいながら、むかし植民地支配して、いま覇権主義(やくざ方式のシノギ)で金もうけして、1パーセントの人間が富を独占しているじゃないか」

 と茶川がいえば、
ここでも性格も主義主張でもちがう、菊珍が対抗した

「社会主義なんか、
平等だといいながら、国内では思想統一して絶対主義でしかも隣国を圧殺して、1パーセントの人間だけが自由を謳歌しているだけだといった」

 みんな、そっちが悪いに決まってる、それでも足りなくてさらに
自由だといっているのはじぶんたちの国民だけで、他国民は自由なく攻撃虐殺されているじゃないか
おまえたちこそ、平等共産といいながら国民を不自由に弾圧しているだけだ
などと、平等が先に優先するべきだ、いや自由が先だとか言いあらそっていた


3.

 そんなある日
困ったモンだと和尚はなげいていた

かつ」っといって、弟子たちにイッカツしていたのに、これもまた形から入るのが若い者の常で、
会えば若い者どうし先を争って、相手に向かって、喝っていっている始末だった

 そこで弟子たちを集めて、
その中から日ごろ、革新だ、ちがう保守だ、おまえの考えは間違っているといいあっていた茶川と、菊珍を前に出してこういった

「神代のとき、イザナキとイザナミが天の御柱のまわりをお互い逆からまわって、愛を確かめあったことがあった。女から声をかけたらダメで、男からプロポーズしたらうまくいったという、なんだかよくわからない神話がある。
いまそんなこと関係なく、おまえたちの男ふたりの目の前に金堂がある。おまえたち二人、向こうがわの正面で背中合わせで反対に歩きながら、この目の前の正面に来たら、お互い声をかけて見よ」

 言われた二人、おたがい反対がわに歩いていって、目の前の正面で顔をあわせると同時に、喝っとノタマわった

 そこで和尚は二人にたずねた

「おまえたちはお互いに、相手をみて声をかけた。さて、おまえたちのどちらが主人のじぶんで、どちらが対象のおまえなんだ」

 そう問いかけられた二人、キョトンとして立ちすくんでしまった、どちらなんだろう
すると、そこに天の声がした

かぁつ! バカもの」

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