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東日本大震災・原子力災害伝承館を訪れて


景色

ただっ広くひろがる海岸線と土地を見ながら、都会の人が都会の外に出たときに感じる典型的な開放感と爽快感に私は浸っていた。
しかし、何気ない景色も、無数の人の苦しみと悲しみの跡かもしれないということを知れば、たちまち違ったように見える。

2011年3月11日、多くの人がいまだに覚えているこの日付は東日本大震災が起き、東北や関東地方の太平洋沿岸が未曾有の津波に襲われた日である。地震と津波が襲った後、原子力災害に見舞われ、多くの人がその日常を捨てることを余儀なくされた。
被災地の実際の様子を見たいと思いつつ、10年の間も一度足を運ばなかった私は友人の誘いもあって、ついに被災地を訪れる機会を得られた。緊急事態宣言に被ってしまったため、必ずしも十分に回れなかったが。

向かう途中でふと見知らぬ他者の苦しみを知ることの意味ってなんだろうと考えた。しかし、それが愚かな問いだとすぐに気づく。
私たちの生活を支えるものを一つ一つ見ていくと、いかに私たちの生活が見知らぬ他者に支えられているかに気づく。買い物に行った時に、私たちが買うもののほとんどは話したことはおろか、会ったことすらない人によって提供されたものである。生産者、卸売業者、運送業者、小売業者など見知らぬ他者の働きが幾つにも重なって、私たちは生活していける。私たちの生は見知らぬ他者の生に支えられているのである。だからこそ、見知らぬ他者の生に想いを馳せることは、自分の生に想いをはせることでもある。
見知らぬ他者の悲しみと苦しみの跡を見ながら、そして聞こえぬ声に耳を傾けようとしながら、私は気付かぬうちに自分の生、自分の心の奥深くを見つめていた。

何気ない景色と先ほど書いたが、積み上がった黒い袋を見ると、何気なさに綻びが生じ、たちまち生々しさに変わる。原発周辺の地域では除染作業が進んでいるが、放射線を浴びた可能性がある土砂は袋に入れられ、そこかしこに積み上がっている。
今回私たちが向かった双葉町では未だに人が住んでいないという(おそらくここで働いている人は寮やホテルみたいなところに泊まっている、もしくは町の外側に住んでいるだろう。)。黒い袋たちはその事実をさらに生々しく印象付ける。

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(※とある建物の屋上から撮った写真。少し遠くの方に黒いビニール袋が積み上がってることがお分かりいただけるだろうか、、)

日常

双葉町についた私たちは東日本大震災・原子力災害伝承館に向かった。本館は東日本大震災に関する展示、さらには東日本大震災以前の歴史や人々の暮らしを伝えるものである。
入館して最初に簡単なビデオを見ることになる。ビデオは高度経済成長期から始まり、日本が経済成長によってエネルギー需要が高まるなかで、原子力がエネルギー源として注目されるようになったという福島に原発が成立した背景がまず紹介される。そして、福島で人々が原発と共存するようになった後、2011年3月11日に東日本大震災が起きた。津波が街を飲み込み、人々の日常を二度と取り返せぬ場所に無惨に引きずり込んだ景色は、何度見ても心に重くのしかかるものである。ビデオ上映前に、津波の映像を見たくない方は一言教えてくださいという注意がスタッフからなされるが、生活を奪われた・大切な方を奪われた当事者の痛みは計り知れないものである。

ビデオを見た後に、我々は展示へと足を運んだ。展示ではまず事故が発生する前の人々の暮らしや原発が地元の経済を活性化したという側面が紹介される。そして、多くの住民が原発をポジティブに捉えようとしていたことが展示から伺える。「原子力の利用」と書かれた小学生の習字の作品、体験学習で学んだ原子力の可能性について書いた小学生の作文、そして街に掲げられている「原子力 明るい未来のエネルギー」という看板。

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(※街にある看板。こちらの写真は様々なメディアで取り上げられている有名なものである)

展示が東日本大震災のコーナーに移ると、津波の映像や原子力発電所が爆発した当時の映像など、何度も見たはずなのに当時の心の痛みを生々しく甦らせるものが並ぶ。震災関連死者2313人という数字、救助の際に使われた潜水服、地震の衝撃で歪んでしまった照明器具、震災時に自治体や発電所で使われたホワイトボード、震災時の生々しさを伝えるものが続く。
様々な展示の中で、特に私の印象に残ったのは、打刻に使われていたタイムカード、郵便ポストや子どもが使っていたぬいぐるみなど人々の日常にまつわる展示である。これらはいずれもどこにでもあるようなありふれたものである。しかし、そのありふれた日常を捨てざるを得なかった人たちがいたということを、これらの展示物は何よりも雄弁に伝えている。我々は往々にして犠牲者数や避難者数といった全体像を表すものに注目してしまうが、当事者たちが味わった喪失や痛苦は一つ一つ個別で具体的なものである。
この日常の喪失を強く象徴する印象的な写真が一枚ある。退避した住民が一時帰宅を許された際に、ある少女が防護服をきたまま自宅のピアノを弾いてる様子を写した写真である。自宅のピアノという日常的なありふれたものなのにも関わらず、少女は防護服という非日常的なものを着たままそれを弾いている。日常的なものであるピアノと非日常的な防護服を対比させることで、日常がもはや非日常と化し、容易には元に戻らないことをこの写真は伝える。

祈り

伝承館を出た後に、すぐそばにあった海岸を歩く。この何気ない場所にもかつて津波が襲いかかり、幾多の生命が奪われたことを考えると、今こうして歩いている自分の生命がいかに貴重なものかを痛感する。
この地を去る際に、小さく手を合わせて祈りを捧げた。この行為が誰かの具体的な悲しみや痛みを和らげるかどうかはわからない。しかし、祈りという行為には今生きている命も、すでに失われた命をも無条件に肯定する作用があるように思う。この地を訪れて、実際に声なき声に耳を傾けようとしてはじめて、私は記憶し続けることの大切さを本当の意味で理解できた気がする。

時間の関係や緊急事態宣言による閉館、さらには道路の封鎖など様々な原因によって訪れられなかった場所も多々ある。
またいつか訪れることを決意し、福島の地を去った。

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(※伝承館の近くにある海岸を堤防の上から撮った写真)

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