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【VOICE】Vol.126 #30 坪井 清志郎

色んな場所で過ごした幼少期

経歴を見るといろいろな場所で暮らしていますが、生まれはどこですか?

生まれは埼玉です。父さんが福岡出身で福岡に住んだこともありますし、家族の仕事でいろんな場所を転々としながら3~4歳頃にはインドネシアに住んでいたこともあります。幼稚園の年長くらいの時に川崎(神奈川)に引っ越して、小学校2年生の夏頃に富山へ引っ越してそこからは富山で高校3年生まで生活しました。

サッカーを始めたのは、どこの場所で、いつ頃ですか?

川崎で小学校1年生の時にサッカーを始めました。きっかけは小学生になる時に母さんから「何か習い事をしてみたら?」と言われて、仲の良かった友だちが近所のクラブチームに入っていたので僕もやってみようと思いました。

川崎市ということは、川崎フロンターレはどんな存在でしたか?

フロンターレ、めっちゃ好きでしたよ。スタジアムにもよく行っていました。一番覚えているのはFW我那覇(和樹)選手です。

小学校2年生以降は富山県で深くサッカーに向き合っていくようですが、どのようなチームに所属していたのですか?

地元のサッカー少年団です。シュートやボールを蹴ることを、めちゃくちゃ練習した記憶が残っています。ひざ下の振りをめっちゃ練習させられました。個人のスキルを重視して教えてくれていた気がします。浮き球のボレーだったり、シュートのシチュエーションの練習も多かったです。

ずっとFWですか?

FWか、トップ下でした。得点を取ることが一番楽しかったです。一番目立ちますから(笑)。

強いチームでしたか?

いや、そうでもなかったです。僕が加入した小学校2年生の時に僕の同級生は一人しかいなくて、すごく田舎の地域で強くはなかったです。

でも、僕が転校した学校で声をかけたりしながら14人くらい集まったんですよ。それからは自分たちの世代でちゃんとサッカーをできるようになって、最終的には県の上位に入るくらいになりました。

プロを目指すために強豪校へ

中学時代はカターレ富山のジュニアユースに所属していますが、そこはどんな経緯がありましたか?

進路のことは何も考えていなかったですが、当時の監督から「カターレのセレクションあるけど受けてみたらどう?」って言ってくれて、それで初めてセレクションがあることを知り、「じゃあ受けよう」と思いました。カターレの存在はもちろん知っていましたし、試合を観に行ったこともありました。でも、下部組織があることや、どんな仕組みなのかは全然知りませんでした。

小学校時代とはどんな違いがありましたか?

県内の上手な選手が集まってきていて、田舎の決して強くはなかったチームとは別物でした。でも、「その中でもやれていた」という実感はあります。ただ、自分より上手な選手が多くて、スタメンで出場できたり、出場できなかったりという感じで、ずば抜けていた選手ではありませんでした。なので悔しい想いをしたことは多かったです。

ユースに昇格するという道はありましたか?

面談はありました。でも、その時に「ユースには上がれない」と言われました。辛かったように思います。泣いていた記憶があるので。

そこからどうしようと考えましたか?

もちろんサッカーを続ける気でしたし、見返したいという気持ちもすごくあったと思います。

県内で名門の富山第一高校に進学されていますが、他にも選択肢はありましたか?

選択肢はありました。サッカー推薦や授業料免除みたいなお話をいただいた高校もありました。でも、本当にプロを目指すならば富山第一で活躍するしかないと思ったので、その選択をしました。

ということは、中学卒業時点でプロ志向だったんですね?

そうですね。漠然とサッカー選手になりたい、サッカー選手になるものだ、という風にサッカーを始めた小学校1年生の頃からずっと思っていました。挫折を経験しながらも、落とされても自分の中では何となくプロになれると思っていました。自分を信じていました。

富山第一高校のサッカーについて

シンプルで、前線のスペースを活かしながら、そこまでつなぐというイメージはなかったですね。もちろん年代毎に所属選手の色に合わせていたとは思います。僕が高校3年生の頃はつなぎながら戦うスタイルになっていました。

その中で僕が2トップで大竹(将吾 ※現・ヴィアティン三重)という選手と組んでいて、大竹は身長が大きくて収められる選手だったので、つなぎながらも苦しくなったらそこにあずけて、2トップでなんとか打開するという試合もありました。

富山第一高校はプロにFWを数多く輩出していますよね。例えば、柳沢敦選手(鹿島などで活躍。元日本代表)、西村拓真選手(現・横浜FM ※日本代表)、中島裕希選手(現・町田)、小森飛絢選手(現・千葉)など。その理由は何か浮かびますか?

自由度がめっちゃ高いチームだったと思います。自分も好きなようにプレーしていました。

高校時代、一番印象に残っていることは何ですか?

やっぱり高校3年時の選手権です。3回戦で前橋育英に敗戦して終わってしまいましたが、自分自身の中でも悔いの残る試合でした。その悔しさが一番残っています。この年は(プリンスリーグ北信越で1位。坪井は18試合24得点で得点王)プレミアリーグにも昇格させて、選手権もこのチームなら優勝できると思っていたので悔しかったです。

高校時代はどんなパターンの得点が多かったですか?

ワンタッチゴールが多かったです。あとはドリブルで運んでカットインからのシュートも多かったです。キック力は既にありました。小学生からキック力はありましたね。シュートを打ったら止められてもGKが「手が痛い」って言ってる場面も試合中にありました。けがも少なくて、親に感謝です。

徳島ヴォルティスとの接点はいつでしたか?

聞いた話なんですけど、徳島の強化部が17年の第28節・金沢戦(4○0)に来ていた時に金沢周辺のホテルが取れなくて富山県に宿泊していたらしいんです。その時に学校関係者と徳島の強化部が会う機会があったみたいです。金沢戦はナイターで、僕らの試合が日中にあったので試合も観てくれました。先制されていたんですけど、僕が同点弾と逆転弾を決めることができた試合でした。それがきっかけで練習参加をすることになって、プロ契約にも至りました。高校2年生まではベンチで高校3年生でやっと出場できるようになっていたので、運の要素もすごく大きい出会いだったと思います。

言葉が正しいかわからないですが、挫折の連続でエリート街道ではなかったんですね?

その通りです。代表関係とか一度も絡んだことはありませんし、良くて地域の北信越選抜くらいです。

でも、プロ選手になると思っていたんですよね?

単純というか、考えすぎないので(笑)。でも、その中でも自分でやれることを見つけながら、どうすればプロになれるかを考えながら3年間やってきました。

自信と力をつけた、3クラブへの期限付き移籍

徳島でプロ生活をスタートして以降は、いろいろなクラブやカテゴリーを経験しています。それぞれ少しずつ話を聞かせてください。徳島で過ごしたプロ初年度の2018シーズンはどうでしたか?

めっちゃ苦しかったです。大好きなサッカーでしたけど、嫌々クラブハウスに行っているような時期もありました。朝起きて“今日も練習か”って思った時もありました。思い描いていたようには全然できませんでした。

全部が全部そういうわけではないのですが、自分のプレーが全然できなくて、体がこわばっているような時もあって、その時は一番辛かったです。試合に出場できる気もまったくしなかったですし、「何のためにサッカー選手になったんだ。サラリーマンをした方が良かったんじゃないか」って思った時もありました。

J3のブラウブリッツ秋田へ育成型期限付き移籍した2019シーズンについて

期限付き移籍した理由は、僕から「違う環境でプレーしたいです」と伝えて、代理人の方にも動いてもらいました。その時はメンタル的に同じ場所で頑張れる自信がなくて、もう一度試合に出場することを目指せるメンタルにならなければいけないと思って環境を変えたいと思いました。出場機会があるなら、カテゴリーを変えてでも行きたいと思っていました。

当時の秋田は間瀬(秀一)監督が指揮を執られていましたが、僕に興味を持ってくれて行くことになりました。でも、そこでも思い描いたようにはいかず、最初は出場機会を掴めましたが、最終的には7試合しか出場できませんでした。

挫折という感覚ですか?

挫折・・・。うーん、そういう感覚というよりは、単純に実力不足だったと感じさせられたのが率直な気持ちです。ここから落ちていくのか、這い上がるかは自分次第でしかないと思いました。

徳島に戻りたい気持ちはありましたが、そのためにもどこかで結果を残すしかないと思っていました。

JFLの高知ユナイテッドSCへ育成型期限付き移籍した2020シーズンについて

オフ期間、車で高知県へ向かっている時は「カテゴリーがどんどん下がって、どうするよ」と思いました。もちろん行ってからは「やってやる!」という気持ちで自分のできることを懸命にやりましたが、行く途中の車中は正直に言ってそんな気持ちでした。ちょうど2020シーズンはコロナ禍にも見舞われて難しい期間でした。試合も最初は出場できていたのですが、終盤は出場機会を掴めなくなりました。ただ、いろいろな経験ができて、いい経験になったと思っています。

海外のアルビレックス新潟シンガポールへ期限付き移籍した2021シーズンについて

「ここで結果を出さないと終わりだよ」と自分自身に言い聞かせてスタートしました。

そこでは13試合15得点の結果を残しました。どんなリーグでしたか?

シンガポールという新しい場所で、外国籍選手を相手に戦うのは楽しかったです。結果も無事に残せて楽しかった思い出が多いです。

リーグとしては個々の能力は高かったです。めちゃくちゃ足が速い選手がいたり、身長の高い選手がいたり、フィジカルが強い選手がいたり。僕らは日本人選手のチームだったので攻守ともに組織的でしたが、対戦相手は組織というよりも個人で勝負してくるようなリーグでした。守備も飛び込んでくるような相手が多くて、そこではマークを外しながら勝負する場面が多いシーズンでした。個の能力は高い相手だったので、FWとしての得点を取る感覚や外国籍選手に対峙する時のことを考えながら戦えたと思います。

2022シーズンに徳島で再びプレーすることになった率直な気持ちはいかがでしたか?

スタメンを奪う気でいました。それが一番強かったです。シンガポールで得た自信もあって、そうできると信じていました。

ただ、思っていたようにはなかなかいきませんでした。もっと試合に絡んで、もっと結果も残せたのではないかという風には思っています。でも、出場機会を与えてもらった時に結果を残せなかったことも自分の実力です。やるべきことも、やらなければいけないことも多いと実感した1年でした。でも、プレーはのびのびできて、自分のプレーもある程度は出せたという実感もありました。サッカーは1年を通して楽しかったです。

いろいろなクラブや学校、いろいろなカテゴリー、いろいろな土地や異なる国。サッカーを始めてから多くの経験をしてきて、どの1年が自分に大きな影響を与えたと思いますか?

成長曲線がグッと上がったように感じたのは、高校3年生の時と、シンガポールの時です。

そう感じる理由は何ですか?

そのチームで絶対的な存在になれている感覚があったし、それが自信になって思い切ったプレーも増えていったと思います。

2023シーズンも成長曲線がグッと上がり始めている感覚はありますか?

昨シーズンよりはありますが、まだです。先発出場できている回数は少なく、結果も全然残せていません。ただ、変わりかけている感覚は昨シーズンもあって、今シーズンはより強く感じています。なので、ここからだと思います。

変化することに躊躇しないタイプ

いろいろな場所で暮らしたことが自分の人生に影響を与えていると感じますか?

めっちゃ関係あると思います。転勤族だったからこそ、変化することに躊躇がないというか。自分の未来を考えながら新しいチャレンジをする気持ちは他選手よりも大きい気がします。 いつも、「どこが“ワクワク”するか」で決めています。

整理すると、いくつの場所で暮らしてきましたか?

埼玉、福岡、インドネシア、川崎(神奈川)、富山、徳島、秋田、高知、シンガポールの9カ所ですね。

最も影響を受けた場所や出会いは?

どの場所でも、その土地土地で自分のことをよくしてくださる方々と出会えました。感謝しています。

最近だとシンガポールで暮らしている日本人の方にすごくよくしていただきました。高級なお店も多い国ですが、自分では行けないようなレストランやバーに連れて行っていただいたこともありました(笑)。マリーナベイ・サンズ(シンガポールを象徴するラグジュアリーホテル)の屋上にあるバーにも! 自分のお金では行けないような場所だったので嬉しかったですね(笑)。それと同時に“家族にもこんな景色を見せてあげたい”って思いました。

暮らした場所と出会った人が“坪井清志郎”を形成したのかもしれませんね。たくさんの場所で暮らす中で困ったことは無かったですか?

あまり深く考えないタイプなので、それも良かったのかもしれません。シンガポールの話が来た時も「シンガポールかぁ~・・・、いいな!」って“ワクワク”したので話をいただいた翌日には行くと決めて連絡しました。直感です。

ダニエルポヤトス前監督もベニャートラバイン現監督も同じスペイン人ですが、志向するスタイルは異なります。でも、どちらの指揮官の下でもコンスタントに出場機会を得られているのはどこを評価されているからだと思いますか?

共通しているのは複数ポジションをできることかなと思っています。FWやインテリオール、最近であればWB(ウイングバック)でトレーニングをすることもあります。ベニが今シーズン志向しているスタイルは自分が得意とするものに近い気もするので、より合っている気がします。

やはり得点を取ることが僕の一番の喜びで、その機会が一番多いのはFWだとは思います。なのでFWをやりたいという気持ちはもちろんありますけど、試合に出場できていなければ得点にもつながりません。巡ってきたチャンスがどのポジションだったとしても、自分ができることを精一杯やりたいです。