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【VOICE】vol.122 #7 白井 永地


サッカーというものを教えられた


サッカー人生が始まったきっかけ

4つ上のお兄ちゃんがサッカーをやっていて、お父さんもやっていたので。その流れで始めました。

子どもの頃はどこのポジションでしたか?

常に得点だけを求めて、FWやトップ下のようなポジションをやっていましたね。

自分が所属していたのは大きなチームではありませんでしたが、そういう中で勝つことが嬉しかったです。弱いチームでしたけど、僕の世代は切磋琢磨する仲間がたくさんいて、その年代だけ習志野市(千葉県)の大会で常に優勝するようなチームになっていました。小5、小6の時はずっと優勝していたのではないかと思います。県大会にもつながって、ベスト4まで勝ち進みました。

「本当に、チームで勝つことが楽しかった」。

柏レイソルのアカデミーに加入するきっかけも、その小学生時代に結果を出したことが直結したのですか?

基本的にはそうですね。トレセンとかにも呼ばれるようになって、そこで見てもらったこともきっかけになってレイソルへ行きました。

正直言うと、中学校はそんなに強い学校ではなかったですけど、僕自身はそれまでの仲間たちと一緒にできれば楽しいんじゃないかなあ位の感覚でした。なので、レイソルから話が来るまでは全然意識したことはなかったですね。

実際にレイソルへ行き始めると、どんな場所でしたか?

自分が思っていた以上にレベルが高くて、自分はやりたいことだけをやってきていたのだなと痛感させられた1年目でした。レイソルは[4-3-3]だったので、基本的にはインテリオールをやっていました。

柏のアカデミーは、何を成長させてくれるクラブでしたか?

まず、人としての常識や当たり前のことを大切にしているクラブでした。サッカーとしては哲学がはっきりしていて、サッカーというものを教えられました。中学生だとドリブルであったり、技術的なことを学ぶことが多いと思いますが、レイソルではそういうことを学びながらも、その中に組織がありました。レイソルにとっての正解というモデルがあったので、そこでサッカーというものを初めて知ったように思います。

「サッカーというものを初めて知った」。表現としては解釈が難しいですね。かみ砕いて教えてもらえるとすれば、どのようなことを意味しているのですか?

例えば、今までであれば一人だけの単体で考えていたプレーも、11人がつながってプレーするということを考えさせられました。立ち位置もそうですし、ファーストタッチひとつとっても考え方がありました。個というよりもチームとして戦っている感がすごくありました。

「チームで勝つことが楽しかった」という小学生時代から、組織として戦う術を学び始めた中学生時代。違う面白さを得られたのか、難しいなあと悩んだのかどちらですか?

最初はめちゃくちゃ難しかったですよ。でも、やっていく中で面白さを感じて、自分たちのスタイルに誇りを持ってやっていくようになりました。試合は「これがレイソルだよね」って表現できるような場になりましたし、それを意識してやっていたとも思います。

小学校時代は自分がドリブルをして得点やアシストをするという感じでしたが、周りのレベルが高くなるとドリブルでは突破できなくなったし、今までできていたこともできなくなりました。その中で「どうしよう?」を考える時期も多かったですが、レイソルのスタイルがあったから自分は成長できたと思います。他選手と比べると頭の中で整理することや、技術的な基礎の部分にこだわったと思います。その中で「自分の特長はなんだろう?」と考えながら運動量にもこだわりました。それをどう活かすか、どうすればこの集団の中で試合に出られるかも常に考えていました。

プロになること以外に矢印が向いていなかった


人間的にはどんなタイプだったのですか?

昔から妥協するのが嫌いでした。「明日やればいいよね。今日はこれくらいにしようか」という考え方が、良くも悪くも苦手でした。

それはサッカー以外もですか?

いや、これはサッカーだけに限ったことでした。プライベートなことでは疎かになりがちでしたね(笑)。なのに、サッカーに関してだけは妥協が好きじゃなかったです。

そんな育成年代を経て“プロを目指すのか、進学を考えるのか”などを考える転換期はあったと思いますが、高校3年生頃はどんなことを考えていましたか?

ユースでは高校2年生頃からトップチームの練習に呼ばれ始めましたが、先輩がトップ昇格して活躍する姿も見ていました。これまでも「サッカー選手になりたい」と思ってはいましたが、その頃の練習参加が「本気で目指す」というきっかけになったと思います。

その後は高校3年生でもトップチームの練習に呼ばれましたが、トップ昇格はできなかったです。大学にサッカーで行けたかどうかはわからないですけど、そういう選択肢もあった中でユース時代の監督(下平隆宏監督・現大分)から「どうする?」という話もありました。自分の中ではプロになること以外に矢印が向いていなかったから「プロになりたいです」という話をしました。それを聞いたシモさん(下平監督)は「本当にプロ以外の選択肢は与えなくていいのか?」と覚悟を確認することを聞いてきましたし、それに対して僕は「(他の選択肢は)いいです」と答えました。その中でいくつか練習参加の話をもってきてもらいました。その時代はJ3が存在しなかったので「JFLでも行きたい」という話をしていました。大学に行ったとしたら、自分(のサッカー人生)は終わるだろうなって何となく思っていました。4年間もプロを目指す情熱があり続けるかどうかがわからなかったので。なので、その頃が一番プロになりたいという想いが強かったと思います。

いざ、プロの世界へ


結果、水戸ホーリーホックでプロ契約を結べました。どんな初年度を迎えましたか?

かなり、きつかったです。精神的にもこれがプロなのかと痛感させられましたし、自分の思い描いていたサッカー人生の1年目とは違いましたね。トレーニングもきつかったですよ。今とは考え方も全然違ったでしょうし、めちゃくちゃ練習しました。その当時の水戸というクラブは今よりも過酷なクラブだったと思いますし、ひとつ上の先輩世代が言葉を選ばなければ首を切られるのも間近で見てきました。「プロ初年度だから」という考え方は通用しないクラブでもあったと思います。毎日必死でした。

自分がなりたかったプロになったけど、ここで終わるのかと考えた日は何度もありました。だからこそ「一日一日を大切にする」という考え方になりましたし、それは水戸のおかげです。努力することは当たり前の環境でしたし、努力した上で結果も残さなければいけなかったです。プロとしてのハングリー精神を育ててくれたクラブでした。

プロ初年度の2014年はリーグ戦1試合、2015年はリーグ戦3試合の出場でしたが、2016年に30試合出場5得点と飛躍のシーズンになっています。何かきっかけがあったのですか?

コーチングスタッフたちが、それまでの自分をずっと見てくれていて、その年に連戦もあってパッと自分を起用してくれました。そこで結果も残せて、自信につながって、一気に出場数も伸ばせたような記憶があります。

同年の出場試合を全部見ると、シーズン序盤は途中出場の1分や3分という起用ですが、第14節・熊本戦(1○0)で一気に途中出場の時間が27分に伸びています。熊本地震の影響があって、熊本が他会場を利用して戦っていた中で、第14節の開催地が柏のホームスタジアムである日立柏サッカー場という巡り合わせがありました。覚えていますか?

そうですね、ありました。いろいろな状況が重なった試合ではありましたが、柏のスタジアムでやれるという特別な気持ちになったことも覚えています。緊張感もありました。個人的な話としては、レイソルのアカデミー時代のスタッフも来てくれていて、成長している姿を見せなければいけないという想いも強くて無我夢中でプレーしたことしか覚えていません。

その試合を機に出場時間は増えていますが、この試合があったからこそ『今の白井永地が存在する』と言えるようなきっかけはありましたか?

たしか初ゴールが山形戦(第20節・2△2)だったと思うのですが、先発で起用してもらって、そこで手応えを掴んだ感じはします。

6年間過ごした水戸。先ほどの話と重複する部分もあるかもしれませんが、どんな影響を受けた場所ですか?

全員が上に行くというメンタリティーを持っていて、向上心がすごく強いチームでした。同時にベテラン選手たちの姿に影響も受けました。当たり前かもしれないですけど、本当に全力で毎日練習をしているベテランの姿を見てきました。GKの本間幸司さんが今の年齢(今年で46歳を迎える)でも現役でやれているのはすごいことだし、練習に対してもストイックでした。そんな風に毎日しっかりやっている選手を見続けてきたので、そんな中で俺が手を抜けるような環境ではありませんでした。その環境が自分を変えてくれたように思います。

岡山から声がかかり、2020年に移籍をされます。その時はどんなことを考えたのですか?

水戸に6年間在籍しました。新しいチャレンジをしてみたい。シンプルにそういう気持ちが強くなりました。自分が培ったものが他で通用するのか。そんな想いがあったので、他でチャレンジすることは決めていました。

移籍して良かったのは、新しいサッカー、新しい環境でプレーすることは選手としての成長にもつながると感じました。たくさんの影響を与えてくれる選手もいて、出会いにも感謝しています。

水戸、岡山、徳島と3クラブを経験し、それぞれ何を得たと言えますか?

水戸では、「毎日の大切さ」。岡山では、「また違うサッカーを知れた」。徳島では、「サッカーの面白さと成長」。

昇格の可能性が高いシーズンだった。そのタイミングで徳島を選択して移籍した理由は何でしたか?

岡山は監督が交代するタイミングというきっかけもありましたし、徳島が魅力的なサッカーをすることも知っていたのであらためて違ったメンバーと違ったサッカーに向き合うことで自分に足りない部分をさらに伸ばしてくれるのではないかと考えて決断しました。

徳島に来て、さらにサッカーに対する考え方が変わりましたね。立ち位置で人をはがしたり、自分がボールにかかわっていない状況でも流れはいい方向に変えられるんだという感覚も得られました。そういう風に、常に考えながらプレーする楽しさを覚えました。

『走力』という武器と目指す姿


昨季から話を聞いていると、“確かな目標ははっきり持っているが、先々までは見据え過ぎない”と一環している印象を受けました

実際にそうです。やっぱり水戸で経験した一日一日を大切にすることが習慣になったと思いますし、目標はもちろんありますけど毎日をクリアしなければ辿り着けないからです。

そんな堅実で真面目でコツコツ歩むタイプの白井選手。派手なイベントごとには無縁だったようですが、昨季は第一子誕生の翌日に開催された第14節・千葉戦(1○0)で決勝弾。これまでに経験したことのないような話題を恥ずかしそうにしていたのが印象深いです。

そんな経験、これまで一度も無かったですからね(笑)。そういう風に持っているタイプの選手じゃありませんから(笑)。結構いるじゃないすか。例えば初出場初ゴールとか、移籍して初戦でいきなり得点を決めるとか。僕はそんなことにまったく無縁の人生でしたけど、その日は初めて「持ってるな!!」って思えました(笑)。

その千葉戦でもそうでしたが、シーズンを通して『走力』という武器がすごく目立ちました。

小学生時代に得たんじゃないですかね。自主練も含めて、めちゃくちゃ走ってましたから。あとは、水戸も走りましたねぇ。その2つのおかげじゃないですかね。

水戸時代にもチームメイトだった田向泰輝選手や内田航平選手が「あんなきつい練習なのに永地は笑顔で走っていたから怖かった(苦笑)」って言っていました。昨季も75分以降にスプリントしながらゴールへ向かっているシーンもありましたが、そういう意味では現在も一緒ですね。

水戸の練習が、めちゃくちゃきつかったんですよ。きつすぎて笑うしかなかっただけです(笑)。オフ明けとかまじできつくて、練習へ行くのが恐怖でしかありませんでした(笑)。メンタルも鍛えられましたね。きついけど走る! そして、笑うしかない!(笑)。きつい顔して走ってたら、きついだけじゃないですか。メンタルコントロールですよ。

『走力』という特長は十分理解できました。そこに加えたい、成長させたい能力は何ですか?

ゲームコントロールと、技術的な部分として右足の質。その2つです。

「ゲームコントロール」は人それぞれ解釈が異なると思いますが、白井選手は何を指しますか?

今、何が必要か。それを瞬時にチームに与えられるようになりたいです。

勝利を渇望する選手だからこそ欲しい能力ですね。チームで誰よりも「勝つために」と言葉でも発信し、誰よりも強い勝利へのこだわりを感じさせてくれるのが頼もしいです。

勝たないと楽しくないし、勝つために僕たちはやっているので。そこは、ブレないです。