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【VOICE】Vol.121 #24 西谷 和希

ドリブラーの原点


サッカーを始めたきっかけを教えてください

僕には双子の兄(現:栃木SC 西谷優希選手)がいて、2人で遊ぶとなったらいつもサッカーでした。なぜサッカーだったのかは定かではないですが。保育園の時は、幼馴染みを加えて、3人で一緒にボールを蹴っていて、小学2年生になって本格的にサッカーを習い始めました。

小学生の思い出は

JFA 全日本U-12フットサル選手権大会の全国大会に初出場したことですね。僕らの実力からすると、全国出場は奇跡でした。全国では予選リーグを突破してベスト8くらいに入ったと思います。サッカーの練習は楽しかったですが、当時はプロになりたいと本気で思っていなくて、憧れ程度だったと思います。

それから中学生になるとジェフユナイテッド市原・千葉 宇都宮 ジュニアユース入ります

中学校の部活ではなくクラブチームに入ろうかなと、なんとなく思っていました。同級生は栃木SCジュニアユースに入っていましたが、僕は設立して間もないジェフユナイテッド市原・千葉 宇都宮に進みました。最高順位は県大会ベスト4くらいだったと思います。

当時はどのようなプレースタイルでしたか

司令塔タイプで、パスなどでチャンスメイクをしていました。中学2年生の時に骨折をして、半年間プレーができませんでしたが、復帰したら自然と足が速くなり、そこからドリブラータイプに変わったと思います。もともと技術に自信はありましたし、スピードを生かして相手を抜き去っていました。当時はブラジル代表のロナウジーニョのプレーなどを参考にしてました。

サッカーに対する思い


茨城県の鹿島学園高校に進みます

鹿島学園のサッカーがいいなと思って決めました。当時の監督がバルセロナのことを好きで、ポゼッションサッカーをしていました。3年生の時にはスペイン遠征に行き、現地の同世代のチームと試合をしたり、カンプノウでバルセロナの試合を見たりしました。サッカーのレベルの差、文化の違いや育成など日本との違いを体感し、初めて世界との差を感じました。本当に凄かったです。

どのような高校生活でしたか

寮生活で、練習は基本、土のグラウンドでおこなっていました。時々、カシマスタジアムが見える卜伝の郷運動公園の人工芝グラウンドで練習していました。当時は県大会の準決勝からカシマスタジアムで試合がおこなわれていたので『目標はあの会場で試合をすること』を常に意識していました。

1年生からスタメン出場することが多く、全国高等学校体育大会(以下、インターハイ)が終わった後は11番、2年生からは10番をつけてプレーしました。2年生の時はインターハイと全国高校サッカー選手権大会(以下、選手権)、3年生でも選手権に出場できたことは良かったです。高いレベルのサッカーをしたくてこの高校を選んだので、全国大会に出場できたことが良かったと思います。

全国の舞台での思い出はありますか

高校時代も大事な時期にけがをしてしまいました。3年生のインターハイの県予選はけがの影響もあって応援席にいました。練習や試合を外から見ていると戦術やプレーのアイデアが浮かんできて、とても大切な時間だったと思います。その時からけがをしない体づくりをより意識するようになりましたが、運も悪く、3年生の選手権の県大会決勝で中足骨を骨折して、骨が完全にくっついてない状態で選手権の全国大会に臨みました。痛み止めを飲んでも徐々に痛くなるし、「折れてしまった方が楽」と思いながらも、監督に直訴して試合に出場しました。サッカーに対する思いが強かったんだと思います。

個を磨いた大学時代


流通経済大学に進みますが

高校ではけがやタイミングなどもあって、プロにはいけませんでした。いくつかの大学から話をいただいていましたが、プロにいくつもりだったので、すべて断っていました。その中でも最後まで流通経済大学が返事を待ってくれていたので進学を決めました。感謝しかないですね。今となっては、自分の実力的にも大学に進学してよかったと感じています。

大学での4年間は

きつかったです。チームは勝利に対する欲が強く、メンタルはとても鍛えられました。細かい戦術はなく、勝つためなら自陣でドリブルしても何も言われませんでした。基本戦術は”目のまえの敵に負けるな”それだけでした。

4年生の時、大学3冠(関東大学リーグ1部、総理大臣杯、全日本大学サッカー選手権)を狙える年代と言われていましたが、結局1つも優勝できませんでした。リーグ戦は4位、総理大臣杯はベスト4、全日本大学サッカー選手権はベスト8で、あと一歩足りず負けてしまいました。個性の強い選手は揃っていましたが、その分少しチームワークに欠けていたかもしれません。

地元の栃木SCの加入が決まりましたが、経緯は

練習参加をずっとしていて、午前中に栃木の練習に行き、夕方から大学で練習することもありましたね。栃木以外のチームにも練習へ行きましたが、最終的に栃木に決まりました。一つ残念だったのは、栃木が加入する年にJ3に降格してしまったこと。僕の中では1つでも上のカテゴリーでプレーしたい思いがあったので、少し残念でした。

その分J2昇格を経験したり、J2での残留争いを経験できました。もちろん栃木でJ2優勝争いをしたかったのですが、残留争いをして1年通して刺激的に戦えたこともよかったと思います。

1年目から多くの試合に出場でき、そのころから自分でいろいろトレーニングを考えたり調べるようになって、体つきも変わり、大きなけがをあまりしなくなりました。幼少期の頃からけがをしてきた経験が今となっては生きているのかもしれません。

西谷優希選手とは栃木SCでも一緒にプレーしましたね

高校まで一緒のチームでした。お互い話し合って進路を決めたりしたことはないですが、自然と一緒になりましたね。もちろん、双子なので比べられることも多かったですが、気にはなりませんでした。小さいころはケンカもよくしましたが、今は仲が良いです。

性格的には真逆ですが、頼りになる兄で非常に努力家です。サッカーへの思いが強いという面では、自分と似ている部分があります。優(西谷優希選手)が出場している試合は毎試合チェックしていて、プレーの話をすることもあります。

もう一度、徳島のスタイルを


2020シーズンから徳島に加入にしました

加入を決める前からずっと徳島からオファーがありました。僕の中では徳島のサッカーはJ2の中で際立って良かったと思っていましたし、面白そうだなと感じていました。栃木はカウンター主体でしたが、徳島は自分たちで主導権をもってボールを握る印象がありました。対戦をして衝撃を受けたのを覚えています。

実際にチームに入ってプレーしてみて「その難しい場面でパスを繋ぐの?」みたいなこともあり、「僕はこれがやりたくて徳島に来たんだ」と感じました。自分たちが相手に合わせるのではなく、相手を変えさせる。例え研究されたとしても、それを搔い潜る感じがよかったです。2020シーズンの開幕戦、徳島でのデビュー戦でハットトリックを達成しましたが、それよりも徳島のサッカーを体感できた衝撃の方が大きかったです。その衝撃があるから今も徳島にいるんだろうなと思います。

西谷選手にとって徳島のスタイルが相当、衝撃的だったんですね

徳島のサッカーは長い時間かけて作ってきました。そこをなくすことはしたくないし、今シーズンは苦労している場面もありますが、過去に積み上げたスタイルをみんなで頑張って強固にしていきたいです。

思い出に残る試合は

2020シーズンの第11節のアウェイ町田戦です。(1〇0得点者:西谷)プレーしていて面白かったし、一番きれいな試合でした。ビルドアップでキーパーから全員で繋いで、相手のプレッシャーを剝がしていったシーンもありました。2020シーズン第41節の大宮戦もプレーしていて楽しく、ピッチに立っていて面白いなと感じましたね。

ここから徳島とともにどのように歩んでいきますか

「徳島が一番面白いサッカーするよね」と言われたいです。自分たちのスタイルでJ1の優勝争いやアジアを獲るぞっていうチームにしたいです。もしかしたら10年後、もっと先になるかもしれないですが、今はその基盤を僕らが作っていきたいです。J1優勝争いをしているころには、僕は田舎で犬と暮らしているかもしれませんが笑