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村のお年寄り

村にはお年寄りが多くいた。旦那さんを戦争で亡くして、おばあさんが一人暮らしという世帯も少なくなかった。

私の父は6人兄弟の末っ子で上にお姉さんばかり5人いて、姉弟なのに親子ほど年が離れているお姉さんもいたこともあって(私からみたら間柄としては”叔母”)、年齢的には「おばあさん」な人でも、親戚でなくても「(どこどこの)おばさん」と呼んでいた。

子どもが暇に任せてそこらへんをうろついていると、おばさんたちはなにかしら優しく声をかけてくれる存在だった。

「あらやのおばさん」(”あらや”は屋号)は近所に住んでいた親戚のおばさんなのだが、畑に用事にいく際、一人で手持ち無沙汰で暇そうな私に会うと一緒に連れて行ってくれた。川向こうの高い場所にあるおばさんの畑にはイチゴやスイカがなっていて、イチゴをザルに山盛り持ち帰らせてくれたり、夏の盛りには大きなスイカの収穫を手伝わせてくれた。それを畑の脇にある農機具小屋に持って行き、常備してある包丁を使って切り分け、「ほれ、食べよぉ」と手渡してくれて、私とおばさんとで小屋の日陰で並んで座り、畑の向かいに見える学校や家を眺めながら、陽に温められてホカホカのスイカを食べたことを覚えている。
そういう時おばさんは「畑で食うスイカはほんとにうまいなあ」としみじみと言うくらいであんまり私に話しかけることもなくて、二人とも蝉の声と川の音とスイカを食べる音をひたすら聞きながらの時間だったが、だからこそその場の全部のものを肯定してくれている感じが私を安心させてくれた。
その味、匂い、風の生ぬるさ、音の組み合わせ、頭から流れ落ちてくる汗。あの安心感に包まれた時空間と今でも詳細にアクセスできる。脳が記憶しているというより、舌、鼻腔、肌、鼓膜などのそれぞれの細胞の中に書き込まれているような記憶である。それらが芋づる式に全部読み出されて統合されて、鮮やかな風景の記憶として脳内再生され、その幼い私の体験のストックが今の私に幸福感をくれる。
(私にとってすごく大切な思い出の一つだったので、あらやのおばさんが亡くなった時、遠方で葬儀に行けなかった私はその思い出話をおばさんの魂に最後に伝えたくなって長々と弔電にしたためさせてもらったのだった)

垣間見る各家とおばあさんたち

集落では、法事が終わった後に関係する各家にお餅を配る習慣があり、のし餅を丸く型抜きして作った白餅を10個ずつ配って回った。おばあさんたちはその仕事を子どもに頼むことが多く、私もよく駆り出されて手伝った。
呼ばれた家に行くと、おばあさんはお餅が並んでいる大きな板から餅粉をトントンと払いながら「にー(二)、しー(四)、はー(八)、…、」と数え、大きめの菓子鉢に10個のお餅を入れ、「はい、これはどこどこ(行き先の屋号)へ」と司令を出してくれるので、私はその家へ向かう。
玄関を開けて「おばさーん、もちこばって(配って)きたー」と大きな声を出すとだいたいその家のおばあさんが出てくる(おじいさんや若い者は昼間は仕事に行って留守だから、だいたい家にいるのはおばあさんなのである)。もう一度「どこどこ(屋号)のもちこばってきた」と伝えると「ほうか(そうか)、そりゃあ、ありがとよぅ」と言いながらその餅を菓子鉢ごと家の中に持って入り、玄関に戻ってくると返してくれた空の菓子鉢の中に100円玉とかお菓子とかが入っている。

家々からいただいてきた「お駄賃」や「お菓子」は最後にその時手伝った子どもたちが山分けをするということになっており、一人で手伝えば労力は多くて面倒臭いけど分け前を独り占めできるし、友達に声をかけて何人かで手伝えば分け前は少ないが早く終わる。家で小遣いをもらうことはなかったので、いいアルバイトになっていた。

話はそれたが、その「もちこばり(配り)」の配り先は、配り主によって組み合わせが異なり、そういう時にしか玄関先に入らない家もある。子どもは屋号は知っているけど名字を知らない家も多かった。その家独特の匂い(燻されたような匂い+住人の個性による匂い)や玄関先に置いてある農機具とか道具類の様相、玄関という空間のしつらい(破れたガラスを補うのにちょっとセクシーな外国人女性のカレンダーの一枚を使っていた家もあってたまげたりもした)が違って、その家の個性と住人との組み合わせの違いが子どもながらに興味深かった。またおばあさんによっては若干ボケていたりして子ども相手に話が長かったり、知らない誰かと間違えていたりすることもままあったが、私たち子どもは困りつつもそれに適当に話を合わせたりうまいこと話を切り上げたりしていた。
今考えればそんなやりとりの時間もまた面白い思い出である。

こうやって改めてあの頃の自分を取り囲んでいた空気を思い出してみると、村という場所にかかわらずどこでも共通のこととして、子どもにとってお年寄りという存在はその距離感が絶妙で、山や川といった自然と同じような存在感・包容感があるなあ、などと思ったりする。ちょっとボケちゃったおばあさん、すっかりしゃべらなくなってずっと庭先に座って何かをじっと見ていたり黙々と農具を手入れしたり何かを作ったりしてるおじいさんなど、会話が成り立たなくても十分に興味深く、好きな存在だった。


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