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当時の私の本当の気持ちと、成長してから気づくこと

「貯水量日本一のダム建設にともなって村がひとつまるごと無くなる」ということで、当時、色々なテレビ局が度々取材に来ていた。
インタビューも受けたことがあった。私は今日見るつもりのお笑い番組のことや明日の遊びのことくらいしか考えてないような単純な子どもだったが、インタビュアーに「これからお友達と離れ離れになってしまうとさみしいね」と聞かれると、近い未来に対して本当にそんな気持ちにさせられて「はい、大好きな村がなくなってしまうのはとても悲しいです。」と、大人たちが期待しているだろう答えを情感込めて返す、そんな状況だった。
学校の最後の日も、子どもの数より多い大人がカメラや大きなマイクを抱えて私たちを撮影しにきてくれて、私は本来の自分の心持ちに落ち着くこともなく、その非日常感にふわふわしていた。
その場の雰囲気として、カメラを抱えた大人たちの「ダムで村を離れるため閉校となる悲しみにあふれる小学校、その子どもたち」というフィルターを通した視線に溢れかえっていて、本当の本当の心の奥底は案外そこまで思ってない私もそのムードにだんだん影響されて最後はよくわからない涙まで出てきてしまう場面があったように記憶している。

でも本当のところ、どうだったんだろうか。大人になった私がその過去の心情について振り返ってみる。

小さな分校で友達関係も固定化され、いくら自然の中で育ったからといって「みんな仲良くニコニコ元気」みたいな子どもをいつでもできていたわけではない。大きくなるにつれ、村では手に入らないかわいい雑貨や洋服、マンガのような文化的?なものに飢えてきていたし(時々は村を降りて街に買い物に出られていたから全く与えられなかったわけではないけど)、山の中すぎてNHK2局を含め4局しか受信できないテレビにかじりついていた私は、11歳ともなると村の小さなコミュニティや不便さをいささか窮屈に感じはじめていた。
(目の前に当たり前のようにあった自然環境の真の豊かさやありがたさに気がつくのは、残念ながら大人になってからだった)

ダムができることで下流の町の移転地に新しい家(虫やヘビやケモノが隙間から入ってこない快適な家)を建てて引っ越し、町の大きな学校に転校する、なんていうライフイベントは、数名の友人と離れ離れになる寂しさはもちろんあったが、私にとっては新しい未来に期待に溢れる気持ちのほうが圧倒的に大きい出来事だった。(今だからそう正直に書ける)
両親を含め村の大人たちはダムについての様々なことをたくさんの時間を費やして丁寧に真剣に話し合ってきたようだが、そういった集まりから帰ってきた両親の、私から見た印象は落ち込むとか怒るとか悲しむとかそういうマイナス要素を感じない、淡々とした印象だったこともあって、私はその流れをどちらかというと肯定的に捉えていたのだった。(両親の本心というのは今だに聞いたことがない。そもそも彼らはこの話題についてはあまり話したがらない)
そして実際、私の好奇心が求めていたものが移転後の生活にはいくつもあった。気の合う友達もたくさんできて、離村前に大人に心配されていたような学習の遅れや転校生ならではのいじめなど、マイナス要素は幸いにも私にはなんにもおこらなかった。

(以上のような状況や心境はあくまでも私個人の体験・感じかたです)

成長してから気づくこと

大きくなって18歳で東京に上京し、全国各地から集まった色々な友達と繋がり、(それまでの田舎での感覚と比較すると)広い世界を知った私は、そこで初めて自分のアイデンティティについて考えるようになった。すると行き着く先は故郷のことになり、どれだけありがたい環境にあったかという感謝の思いが生まれる一方で、”外的要因のせいで”「村を失ってしまった」という被害者意識と、”自分が”「村を見捨ててしまった」罪悪感という矛盾した2つの感情と、執着心を抱くようになった。

被害者意識の方は「国の政策によって強行される公共事業」といった類の、社会の中にあるたくさんの出来事の中で「加害者(為政者)」「被害者(一般市民)」という対立した二極を目にすることで、その二極に自分を当てはめた中での感覚。
罪悪感の方は、上記のような二極に分けると自分は被害者であるはずなのに、本心ではワクワクしながら新しい生活を受け入れていった自分への後ろめたさ。そして豊かな自然環境に生きる多くの植物を水の底に沈め、生き物たちの住処を奪ってしまった「人間」としての恥ずかしさ。
そして執着。失ってみて、大人になってみてはじめて分かった故郷の価値が自分の中で不自然に肥大化して、もう戻れないからこそ、単なる感謝におさまらずに執着も大きくなった気がする。

私の「故郷を思うと涙が出てくる」条件反射とは、こういった色々な感情が整理できないまま心の中にいつまでも残っていたことが、何かのきっかけで揺さぶられ、整理ができないまま表面に出てくる現象なのかもしれない。


そんな頭でっかちで不安定な自分に真理を教えてくれたのもまた村の最後のたたずまいだった。
次回はそのことについて書きたいと思っている。

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