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死の世界との近さ

村での生活では、死というものがごく身近にあった。
山での事故を筆頭に、(生活圏でも)マムシやスズメバチの被害、豪雪地帯ならではの雪の事故、(山沿いに集落間を繋ぐ)細い一本道から運転を誤って崖下に滑落、などなど、死に直接つながるアクシデントが日常にゴロゴロしていることもあって、年齢順ということはない。
村には、私の集落から車で30分くらいの、役場のある集落に診療所が一つしかなく、村にはない救急車を呼ぶと近くの町からまず村にたどり着くまでに小一時間かかるから、急を要することになると間に合わないこともあるだろう。
大人たちのそういう話を聞いているから、私たち子どもは不用意に一人で山に入って行くのは怖いことだった。
父親が車に乗って仕事に出かけるとか母親が山の田畑に用事に行くなどのひとときの別れでも、いってらっしゃいと言ったあと心配性な私は必死な気持ちで神様に向かって「無事に帰ってきますように」とお願いしていた。さらに村の昔話に出てくる様々な妖怪や神隠しなんかもリアリティがあるから、私は「(子どもである自分を含め)だれがいつ死んでもおかしくない」と本気で思っていたところがある。

村の葬式では、いわゆる「野辺送り」のような風習があった。
棺桶(”がん”と呼ばれる)は手作りでお神輿みたいな作りにしてあり、遺族や班の人によって担がれて、川向こうの火葬場まで列をなして歩き、亡くなった人を送ってゆく。棺桶や行列の際に持つ天蓋などの飾りは、手先の器用な者が切り細工などを施して飾り付ける。
いつだったか我が家がそれらの製作の場所になったことがあり、おじさんたちが小刀を使って、キレイな紙を家紋だとか仏壇に見られるような模様の形だとかにどんどん切り出して飾り付けていくのを見ていたことがある。金や銀、五色をまとって、死んだ人を送るという悲しいイメージとは裏腹に、とても鮮やかで綺麗な装飾だったことを覚えている。
野辺送りは神様の前を通らないように、本通りを避けて村を通り、吊り橋で川を渡って「そとばし」と呼ばれる焼き場(火葬場。建物などはないただの広場)へ行き、そこでたくさんの薪を使って火葬する。
火葬が始まると煙が空高く上がって、対岸の村からそれが見える。それを見た村人たちはその煙がたなびく方角や煙の動き方を見て、亡き人に思いを寄せたり、色々なことを話す。
集落は上手・中村・下手と3つに区分けされていたが、その火葬の煙のたなびく方向で「次は下手のもん(者)の番じゃなあ」などと話す人もいた。

その焼き場のある「そとばし」という場所には、我が家の田んぼのひとつがある。田植えは親戚を中心に結で作業されていたが、時々私もついていって手伝ったり周りで遊んだりしていた。
ある年のそとばしの田植えには時間がかかってしまって、終わった頃には随分日が暮れていたことがあった。
私はその日、田んぼの近くに見える広場を指差し「あそこのひろいとこ、何?」と親に聞いて、そこがあの「焼き場」だと初めて教えてもらっていたのだが、
その日暮れ、田んぼに集まっているカエルが嬉しげに大合唱をしている音がグワングワンと山あいに大きく響き、川の流れる音も一層大きく聞こえる中、視線の先の暗がりには焼き場があって、幼い私にはまるでそこがあの世とこの世の狭間のように見えて、吸い込まれてしまいそうで畏れを抱いたことをよく覚えている。あの全身が包まれるような音の世界が、まるでお経の時に打ち鳴らされるおりんの響きにも似ていて、鳥肌の立つような怖い気持ちの一方で、妙な安心感や気の遠くなる感じも湧いてきて、色々が一緒くたになってうつつ無しな時間だった。

「閉村する時になってその火葬場を最後に集落の人総出で掃除や片付けをしに行った際、遺骨を掘り起こし供養した」という話を親がしてくれたので詳しく聞くと、昔は、小さな子どもは火葬するにはかわいそうなのでそのままそこに土葬した、そのご遺骨が埋まっているのだということだった。ずいぶんと昔の話でその遺骨もごちゃまぜで分からないため、集落全体の子どもとしてその場で遺骨たちを燃やして灰にし、土に返して供養したとのことだった。

昔に幼くして亡くなったその子供達のことを想像すると、幼かった私があの時に闇の中に吸い込まれそうになった感覚とともに、漠然と「自分がいつ死ぬかは誰にもわからない」と幼心に思っていたことを思い出すのだ。

(ちなみに火葬された大人の遺骨は現在の一般の慣習と同じように骨壷に納められ、本山である隣県のお寺に納骨されるので、”うちの集落には”基本的に墓地というものはなかった。)

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