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もうとっくに、会うことは叶わない場所だったのだ、と知った

思い出話が続いたので、つい最近あった出来事を忘れないうちに書いておきたい。

このブログを書き始めることを思いついた同じ頃から、集落のあった場所に久しぶりに近づきたい、と思っていた。そしてブログスタートの今春、そのために具体的なアクションを取り始めた。

私の住んでいた集落の谷は、上流はどん詰まりになってどこかに抜けていく道もなかったこともあってか、ダム建設時に「付け替え道路」というものが造られなかった。しかし集落があった所の水没していない高い場所には、村にあった家々の世帯主と屋号が刻まれた記念碑と東屋がある「望郷広場」という場所が造られた。
道はないから、そこを訪れるためにはダム湖経由で、ダム管理所の持つ船を出してもらって行くしか手段はない。
「望郷広場」完成時に、元村民が招待を受け、その船に乗せてもらって訪れたことが一度だけある。
(その時の話はまた後々書きたい)
「望郷」という名がついているから、故郷を懐かしみたい時は、手順を踏むとか指定日に合わせたりすればまたここに来られる、と、ずっと(今思えば)私は勝手な解釈をし続けていた。

そして今年。
懐かしい村の友達にも声をかけてみんなで村に行って当時の話をできたら、と勝手な妄想を抱きながら、ダム管理所に「望郷広場」へのアクセスについて問い合わせてみると、担当の方は「その集落ら(同じ谷に2つの集落がある)へは現在、非水没箇所に土地を所有しているようなやむおえない場合でなければ行けないことになっている」という説明をしてくださった。
「いつでも会いに行ける、と思っていた存在にもう二度と会えない」と知った時って、心ってこんなになるものなのか、と、自分でも驚くくらいに動揺してしまい、つい電話口で「望郷しに行けないのにじゃあどうして”望郷”広場を作ったんですか」と意地悪な質問をしてしまった。
担当の方もすごく心苦しそうに、でもきっぱりと「あなたの気持ちは重々分かりますが今現在はそういうことなんです」という説明を、グズグズした空気を振り払うように繰り返した。
私は感情的になってしまったことを詫びつつ「管理上、色々な事情があって仕方がないのは重々理解できますが、個人的な心情としてはただただ残念。当時の大人たちが老人になってしまって村を訪れることができなくなっても、子どもだった私たちのような世代がまだあちこちにいて、故郷を懐かしみたいと思っている者もいることをどうか知っていただけたら嬉しい」といった内容のことを伝え、担当の方も「管理所でも今回のお問い合わせについては共有します」と誠意あるお返事をいただき、電話を終えた。

村(8集落)の入口あたりに、ダム湖を見渡せる展望所や村の資料がある会館は存在し、そこには誰でも訪れることができる。だけど、そこから分かれたひとつの谷のずっと奥にある私の集落は、その展望所からはまったく見えない所にある。私が「故郷」として理解している場所は、10歳たらずの子どもの生活圏、かなり小さなエリアなので、その展望所から見える風景からは”どこかの湖”くらいの感覚しか湧かず、「村に再会できた」という気持ちには全くなれないのであった。
今書きながら客観的に考えれば、私がその担当者さんだったら「懐かしむなら、村の入口の会館や展望所で十分ではないか」と感じるかもしれないなと思う。
一個人の超個人的なこだわりでしかない…だけど人が心のつながりを感じる場所や場面って本当にピンポイントなものなんじゃないかなと思う。
(「だからそれに合わせろ」ってことではない)

その問い合わせのやりとりの電話は出先の駐車場でしていたのだが、家に帰る道中、ひとりの車内で
「(もう村には所有する土地もない半部外者の私が)今後はもう行くことはできない(可能性が高い)という事実を受け入れよう」と自分に言い聞かせた。

もうすっかり大人だから頭では十分に理解できてすぐさま(頭では)納得したというのに、近親者の突然の訃報を聞いた時のように、なんだか心の動揺がおさまらず、自覚し得る感情より先にボロボロと涙が出てきたのは花粉症のせいだけではなかったように思う。(家に着くまでにどうにか平常心に戻した)

村を離れて30年以上、水没してしまってからも10年以上経っていて、世の中の時間は流れ、社会情勢も変わってきている。当たり前だけど時間は未来に向かって変わりながらどんどんと過ぎていくものだ。
中年と言われる年齢になって親が亡くなったりする中で自分の一生を考えた時に、死ぬまでにこれをちゃんと吐き出しておきたいという個人的な欲求があったので始まった思い出し作業だが、もう本当に「今さら」でしかないよな、と言う皮肉な自分がちらっと顔を出した。
なんで自分はここまで過去の出来事にこだわっているのか、自分でも不思議に思う。もうすっかり昇華させて区切りとし、未来だけを見ていくべきではないか、などと、自分でも度々思い、いつまでも失恋を引きずっているようなみっともなさを客観的に自覚しているのも事実だ。

とはいえ、ここまで長いあいだ心の中に居座っている「何か」を掘り起こし検証していく作業は、今まで知らなかった自分に会えるかもしれない宝探しではないかと思っているから、心の中にその欲求がある限りは、この振り返り思い出し作業は、読んでくださる存在があるなしに関わらず”自分のためのワーク”として続けるつもりです。


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