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感じることを制止していた

友人と話をしていて、自分が親に厳しく育てられたエピソードを出した際「親も人間だし色々とあるのでしょう、だからしょうがないよね」と私がその話をしめくくったら、その友人は「そうやって許せるんだ、私はけっこう反抗したなぁ」という反応を返してくれた。
その言葉になんだかはっとした。
今でも「当時の親の厳しさはひとえに愛情ゆえだったのだろう」と捉えていることに変わりはないが、「嫌だった」「悲しかった」「怖かった」という幼い自分の素直な感情の方は、今の今まで自分にすら無視されてしまっていたのだなと気づかされたのだ。

「インナーペアレント」という言葉を知ったのはその頃なのだが、例にもれず私の中にも非常に厳しいインナーペアレントがいるなと改めて自覚しはじめた。
誠実であること、自分に厳しく人に優しくすること、勤勉であること、完璧を目指すこと、等々、それらは社会で生きていくためにとても大事なことだったし、実際、その姿勢にもずいぶん支えられてここまできたように思う。しかし、そのような厳しい価値観を、自分の純粋無垢な気持ちをガン無視して強制するもんだから、知らず知らずのうちに心の中に葛藤が生まれてしまうのだった。
私には、興味があっても行動に移す前から飽きてしまって動けなくなってしまうことが多々あるという困り感がじわっとあるのだが、実はこの葛藤から生まれていることをこの「インナーペアレント」という概念から初めて知ることとなったのだった。

というわけで、インナーペアレントの厳しさを書き換え、寛容に自分というものを受け入れるように練習し始めたら、やっぱり私の最も急所でもある故郷にまつわる感情が、今さらながらまた湧き出してきた。
このマガジンで今まで書いている内容からお察しいただけると思うが、やっぱり私には「みんなそれぞれに事情がある」「私は決して被害者ではない」「悲しいことばかりではなかった」と、客観的思考でもってこの出来事を捉えようとする傾向があった。エモーショナルな感情を全面に出して美談のように話を仕立てることには違和感を感じているから。

でも厳しいインナーペアレントが少しずつ変容しつつあり自分が全受容されはじめ、改めて心の底の方から湧き出してきたのは
「大切なたったひとつの場所が消えてしまったことが、やっぱり心底悲しかった。」
という気持ちだった。
これが出てきた時も「なんでまた今さらこんな昔の話を蒸し返して…古っ!しつこい!かっこ悪い!」とそれを冷笑批判するインナーペアレンツが口出ししてきたのだが、こうやってなんだかんだと理屈や価値観でねじ伏せて、今まで長い間この純粋な気持ちが湧き上がるそばから消火してまともに感じないようにしてきたことを改めて自覚もできた。かわいそうに…(自分の中の子どもに同情する)
この悲しみは、誰かに原因をなすりつけて被害者ぶる行為とは違うし、ヒロインぶって美化するものとも違う。その感情のエモさを利用してお話をどうこうするのではなくて、その純粋な感情をジャッジなく表出させてそのまま自分の中でしっかりとただ味わい、その感情の気のすむまで最後まで寄り添う、ということが最も大切なのだろうと、今の私は察した。

私の大切な時間の傍にずっとあった故郷は、親であり、親友であり、先生であり、恋人でもある。その命ほど大切な存在が手の届かないところに消えてしまったことは、ただただ、悲しかった。

その感情への全肯定の意図が自分の中に届くように、改めて、堂々と、ここに書いておく。
ぐるっと回り道をしてタイミングがひどく遅くなってしまったけど、本来一番にあるはずのその気持ちを今、ストレートにしっかりと、じっくりと、100%の濃度で味わっている。
このプロセスを通ることができて本当によかった。ああだこうだという思考の横槍を入れずしっかりと悲しんでいるうちに、あることすら自覚してなかったような、心の底のそのまたさらに奥底の澱のようなものが晴れてきたような感じがして、この先さらにすっきりと前に進めるような気がする。

今までのひねくれた私が忌み嫌ってきたフシがあった、”自分自身の「悲しい」という感情”が、こんなにも大切なものだったことも学んだ、気づきの体験だった。

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