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泣くために身体を貸すという感覚

最近、用があってショッピングサイトを見ていた時に「あなたへのおすすめ」としてひょっこりあらわれた書籍「植物と叡智の守り人」(ロビン・ウォール・キマラー 著・三木 直子 訳)に妙に惹かれて、図書館から早速借りてきて、読み始めた。
そこにはネイティブインディアンと自然との関係性について書かれているようなのだが(なにしろまだ読み始めたところだから全体を上手に説明できない)、わりと始めの方にそのネイティブインディアンたちが外の者たちによって命そのものと言っていいような「その土地との繋がり」から切り離されてしまったお話があり、理解より先に胸が張り裂けそうになって号泣してしまった。

たぶん、私の中にもひとかけら存在している、故郷の土地と切り離された人々の複雑な無念と同調したのだろう。
本来誰のものでもない土地で他の生命たちと共に命を紡ぎ、地球からの贈り物を享受しながらそれに感謝ししっかりと報いていく、という生き方から、所有という概念を持つ外側からやってきた価値観によって離れざるを/捨てざるをえなかった無念や後悔。

泣きながら、なんだか自分が泣いているような感覚ではなく、昔から地球上に続くありとあらゆる「自然と共生し生きていた土地を追われた人たち」の感情が一緒くたになって激流のようにドウドウと私の心に流れてきているような感覚になった。
その感情は恨みつらみのような重たいものではなくてもっとサラサラとしたものだったのでそのまま受け入れた。

『もしかして"泣くため"に身体を貸してあげているのかもしれない』

と感じたので、「どうぞ気の済むまで泣いていいですよ」と泣けてくる感情を十分に解放してあげることにした。
(ハタからみたら奇妙でしかないが)一人オイオイベソベソ泣きながら、私の意識の方は非常に客観的に、その湧き上がる誰かの無念さに寄り添ったり、「大切なものと引き離されるという体験」の尊さに感謝を向けたり、そんな時間を過ごしているうち、だんだんと心の激情は治まっていった。

泣き止んでズルズルの鼻水を何度もかみながら、
「こんな風に、目に見えない何かの役に立てることってあるんだなあ、、、」
という素直で静かな喜びだけが残った。

自分の個人的な感情だと思って喜んだり泣いたり怒ったりしているつもりでも、過去の誰かが心に溜め込んでしまった似た感情も一緒に表出させていることがあるのかもしれないなどと妄想したりした。
(だとしたら、我慢せずにその感情はしっかりと表現し切った方が吉ですね)

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