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【小さき者たちの】市井の人たちの痛みと強さを知ったとき、内にある小さな希望に気付いた

「小さき者たちの(松村圭一朗/ミシマ社)」を読んだ。
本仲間が、本屋巡礼で訪れた岡山の「スロウな本屋」で、熊本に縁が深い私のために買ってきてくれたのだ。有り難い話です。

ミシマ社で、気鋭の人類学者で、このタイトルと装丁!
いい予感しかない一冊だけれど、帯に書かれた「私は日本のことを、自分たちのことを何も知らなかった」という太字のコピーと「現代の歪みの根源を映し出す」という一文にドキっとして、緊張もした。
うー…。重いやつかも…。今の自分で読みきれるかな。

でもページを開き、杞憂だとすぐにわかった。
「大きくて強くて多いほうがいい。そう教えられてきた。」から始まる本書
は、自分と著者が同じ価値観を持っていることがはっきりと表されていた。きっと読み進めるのが辛くなるところもあるけれど、今、知る時がきた。もたらされたのだから従おう、と。

おそるおそる読み進めていくと、ぐいぐいと引き込まれていった。
生き生きとした人々の素朴で強い生き方は、決してその時代に戻りたいとは思わないけれども、憧れてしまうような力がある。人の道として仕事に励む職人の口から飛び出す言葉、朗らかに性の営みを余興にし笑う女性たちがいる文化、公害という犯罪による奇病と、その原因を作った大きなものと戦う民、「からゆきさん」と呼ばれた女たち…。

運命とは何だろうと苦しくなって涙ぐんだり、「生活とは生を活かすと書くんだよな…」そんなことを思ったり、揺さぶられる読書体験だった。

小さいことは、弱さとイコールではない。
しかしながら、いつだって「大きくて強いほう」は「小さき者」を、己の都合で管理し無理やりにでも変え、搾取してきた。それは古代から、今現在においてもまるで変わらない。

それどころか現代は目に見えにくい分、より都合よく、質の悪いものになっている気すらする。
時折、挟まれるエチオピアの写真に、多くの情景が重なる。

今、自分の送る生活はどのように成り立っているのか。
どこかの「小さき者」が作らされたであろう安価なTシャツを纏いながら、私はこの文章を綴ってている。この矛盾はもうそろそろ終わりにしたい。

ただ、最後にお伝えしたいのは、この本には一筋の光のような明るさが常にあって、読んで苦しくなったり、自分や「強大な何か」を責めるばかりにるものでは決してない、ということだ。

現代に生きる人間は誰しも「大きくて強いほう」と「小さき者」を行き来している。経済大国日本で、家事労働をこなす女性として性を受けた私にも、この本に出てくる「小さきもの」たちの明るさと強さが、確かに宿っている。

私にとってそれは今、確かな希望である。

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