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2023年新作映画ベスト&ワースト15

2023年は今までで最も新作映画を熱心に観た年になった。なんとベストもワーストも15本ずつある。選ぶ基準としてアニメ映画とリマスターやレストア等の修復リバイバル作品は除外した。前者は生身の人間が映っていないからという理由(ほんとはあまり観れていないから)で、後者はそれらを含めると上位がそれらで埋まってしまうから。

アニメ映画に関しては大根仁の『しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦〜とべとべ手巻き寿司〜』がとても良かったということを強調しておく(玉入れの球を投げる運動とひろしの丸めた靴下を投げる運動の相似/反復!、クロスカッティングによるテンポの促進された編集、冒頭の逃走劇!)。

それにしても去年はリバイバル上映がやけに多かった気がする。フドイナザーロフ、ジャック・ロジエ、アケルマン、イオセリアーニ、エテックス等々…。今年はストローブ=ユイレとかダニエル・シュミットなんかが楽しみ。このタイミングで上京できたのは嬉しい限りだけど、なんてったって金が無い。マジで鑑賞本数によって安くなるシステム作ってくれ。いっぱい観に行くから…。

2回書くのもめんどいしフィルマークスからコピペしたやつも多いけど許して。(あと映画芸術のランキングと全く被ってなくて嬉しい)もちろんネタバレあり。嫌なら読むな。それではベストからどうぞ。

【ベスト編】



15.小野峻志『野球どアホウ未亡人』

全ての映画作家がこれぐらい勉強熱心だったらいいのにと思う反面、これほど蓮實重彥フォロワーであることを恥ずかしげもなく押し出す度胸にはダラしないとも感じる。まあ面白いのだけど、さすがに演出や編集が全面に出すぎていてもはや演出のための演出、編集のための編集になっているので、青山真治や斎藤久志、または神代辰巳や城定秀夫のように映画の奇跡が宿ることはない。もう少し偶発性に身を委ねる覚悟が欲しいがそこは恐らく自覚的に、映画はどこまでも作為からは逃れられないとでも言うように作為のパロディめいた身振りを惜しげも無く披露する。やっぱ映画というよりもテクスト=批評の方を信じているのではないか。小津安二郎がそうであるように言わずもがなユーモアは正義なので偉いといえば偉い。それにしても森山みつきの顔がヤバすぎる。特に目が凄まじい。シネフィルの下品さをすんでのところで森山みつきが救っている気がする。

14.城定秀夫『放課後アングラーライフ』

城定秀夫は百合映画だけ撮っててほしい。『千と千尋の神隠し』な始まりに城定秀夫印の鳥の大群ショット(シーンによって効果が変わる)、前景後景の画作り。食事シーンで最初の数秒キャストに何も言わせず黙々と食べるところを長回しで撮るのとか違和感あって面白い。結構退屈な時間が続くけど(釣りという明らかに映画向きではない題材にしてはめちゃ頑張ってる)、終盤のカラオケ→病院での告白長ゼリフから聞いている3人の反応を撮らないという選択、ラストの船上で間接キスの達成の奥で大物が釣れてるショットとかグッときた。釣りする時の踏ん張る声が喘ぎ声にしか聞こえなくて城定秀夫ほんとはピンク映画撮りたくてうずうずしてんじゃないの?と嬉しくなったり。

13.ダルデンヌ兄弟『トリとロキタ』

ずっと緊張感エグいしずっと動き続けるしアクションが突発的だしで面白くないわけがない。このスピード感。映画は速度とテンポと緊張感が命なんだと分かる。自転車も常に立ち漕ぎだし、最後の無常にも思えるあっけなさったらない。印象に残ったアクション、ビンタ、パニック発作で後ろに倒れる、頭ガンガンぶつける、特にシートで滑り落ちるところとかすげー。発砲シーンでビビり散らかした。90分に収める潔さ。これが1番偉い。

12.ケリー・ライカート『ショーイング・アップ』

細かい粒子がざわめいてるみたいなノイズのかかった画面が目に優しい。『ファースト・カウ』よりこっち。やっぱライカートは男より女を描くべきだし、薄暗闇を撮るのが上手い作家だなと思う(唯一見ていたテレビチャンネルが見れなくなったことを嘆いていた奇人男の家の暗さ!)。人形の腕を折ってまたくっつけるシーンの手元にフォーカスした長回しとか映画変態すぎる。終盤辺りはさすがにテクニカルってか分かりやすいし、終わりそうなショットで終わるのはあまり気持ちよくないけど。

11.スティーブン・スピルバーグ『フェイブルマンズ』

自分のやりたいことをやるために商業映画としての、観客を楽しませる配慮とシネフィル的なエゴや自意識のバランスが絶妙で、例のラストシーンもそうだし、ぎこちないテンポ感の食卓シーンでの会話だったり、不透明で複雑で多様な関係や感情の奔流を映し出すその精密で的確な演出(俳優の動かし方等)を見て本当に難しいことをやっているなと感心。

熱狂的なキリシタン(というよりキリストオタク)の女の子の家に行って部屋で「口を開けて キリストの精霊を受け入れるのよ」つって女の子がハーって息吐いてそのままキスするところで二葉亭四迷の「平凡」思い出してブチ上がった。

キスする時のお互いの唇が中空に滞留するようなあの緊張と距離が織り成す至福の恩寵に似た何か。その後ベッドに押し倒されて見上げた先のキリスト像のショットも素晴らしい。ビーチでの撮影でカメラを構えるフェイブルマンに後ろから抱きついて自らもファインダーを覗く彼女のショットも激ヤバだし、そのまま暗転して自宅で撮影されたホームビデオに繋がるの祝福すぎる。

終盤、母親とキッチンで話すシーンで最後にカメラが後退していって、1年後に時間飛ばすところで涙。紹介しようって部屋に案内されてフォード作品のポスターをぐるりと見回すところで本当にグッときた。最後のアレも可愛げがあって良いと思う。前を向いて生きていくよ。

10.リチャード・リンクレイター『バーナデッド ママは行方不明』

速すぎ映画サイコー。人生サイコー。常に何かしながら何かする、を徹底しててずっと面白い。例えばワイヤレスイヤホン付けてiPadに向かって喋り続けながら部屋の中を動き回って作業する、みたいな行為の複数性。人と会話する退屈になりがちなシーンも早口でベラベラ喋って別のシーンとクロスカッティングさせて飽きさせないように、観客へ集中を要する編集。雨風が強くなる中ホームパーティーをして、子供たちが合唱・演奏をする、そして土砂が家をぶち壊して浸水してくるシーンとか最高にスペクタクル。その後のママ友とのケンカも最高。

後半、二重三重でママの問題がたたみかけてくる。割と重めの問題を描いているけどシリアスとユーモアのバランスが絶妙でほんとすごい。さすがアメリカ。てかずっとケイト・ブランシェットが多動で素晴らしい。南極に行ってからもずっとママがぱやぱや動き回って、パパの娘が探して追いかけて、移動運動が絶えない。おれも社会から除け者にされるタイプだから創作がんばるよ…。退屈は禁句。面白くなるかは自分次第、そうだよね、ありがとう。

9.イナリ・ニエミ『ライト・ライト・ライト』

ユーロスペースのフィンランド映画祭にて。カット割り鬼速くて嬉しいし、ヌルッと子供時代と大人時代を接続させてて痺れた。ノスタルジーに寄るでも感傷にいきすぎるでもない、ものすごいバランス感覚というか、チェルノブイリ原発事故やっとけばあと全部わたしのやりたいことやっていいよね?みたいな感じでエモ百合ロマンス好き放題やるのとかすげー上手い。タイトルがそれを指してるのか分からないけど光を撮ることに注力しててだからこそ紫色のスモック画面とか真っ暗すぎる画面が対比で際立つ(ロメールの『レネットとミラベル/四つの冒険』思い出して興奮した)。自転車とランニングの対比も考えられてる。バスに乗って海に行こうとして、他人に道尋ねられなくて結局行かずに帰ってくるダルさとか最高。岩井俊二っぽさあったけど観てるんかな? 音楽もガンガンにかかるんだけど、とにかくやりたいことやるために、じゃあこれやっとかなきゃダメだよねみたいな逆算で作ってる気がする。湖で「毎日同じ服着てる!」って叫ぶシーンめちゃくちゃ良い。ガンの母親を心配しながら、シャワーで号泣してた理由はシカを轢いてしまったからという… てか黒髪の方の顔ヤバすぎ。ずっと見とれてた。

8.ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』

ルーチンワークによる手慣れた動作の数々をテンポの良い編集/カット割りによって紡いでいく。無口という性格がサイレント映画的な動きの連鎖を促進させていて、そこに柄本時生の多弁多動のキャラがよく噛み合ってユーモアが生まれる。「金が無いと恋も出来ない」という叫びはどこか他人事ではない切実さを帯びていてグッときた。あのレコード屋での動き。虚無表情がエグい謎のOL、何か買う度にコメントを添えてくる古書店のおばさん、柄本時生の耳を触るのが好きなダウン症の男の子。怪しげな紫の照明の中で大麻みたいな謎の植物を大事に育ててたりずっと変ではあったけど、現像した写真をアルミBOXに入れて期間で分けて保存している所が見えた瞬間に狂人が確定した。金髪の女の子にキスされたあとのカット割りの速度とか、編集が本当に気持ちいい。「今度は今度、いまはいま」のシーンは完全に小津の遺伝子がMAXに達していたし、そのあと歌い出す2人の後ろ姿がヤバすぎて泣いた。音楽に頼りすぎだとは思うしあざとい所もいくつかあったけど全然気にならない。むしろラストの泣き笑いの長回しとか、ちゃんと感動していいのかどう受け取っていいのか曖昧な感じがあって良かった。しっかり音楽で盛り上げる。

↑これあまりにもゴミカス感想すぎたので貼っとく。「綺麗に見せかけている」ことの胡散臭さだったりその欺瞞になぜか憤りを表明している人が多いんだけど、そういった感想を目にするたび映画が映画として観られてないなと思う。君たちは三浦友和と影踏みをしたあとの飲酒チャリ走行を見過ごしている。相米慎二が明らかに偽物の雨や雪や桜を自覚的に降らせることによって映画の虚構性を露呈させたこと、ヴィム・ヴェンダースは本物の雨を撮るという逆の方法で相米慎二と同じことを成し遂げている。どう考えても嘘にしか見えないはずの生活を「本当らしさ」として観客に提示していくことの自明的な欺瞞。どんな映画であっても撮影した素材を切って貼り直して「編集」されているということ。捏造された現実こそが映画なのであって、その上で"どう見るか"が要求されている。同じように日々のルーチンワークをこなし今にも爆発しそうな狂気を抱え込んだまま口を閉ざし続ける、シャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン』を「本当のこと」として観るのか?
「こんなふうに 生きていけたなら」は少したりとも問いかけではないしメッセージにもなっていない。

7.稲葉雄介『パラダイス/半島』

1人で田舎で農業をしている男の元に外部から男女が来訪して一時的な共同生活が始まるという話が黒田硫黄の『茄子』みたい(歯磨きとか『茄子』を意識してるとしか思えない)。映像と音のチグハグさが楽しくて、冒頭のそれからずっと音が映像に先行していたのに花火のショットで映像が先行する(音が遅れる)のが面白い。室外で吹き荒れる風や鳴く虫の音が室内空間を現前させているかのよう。細かい反復が小津を想起させる(麦茶を何度も飲む、歯磨きを何度もする、起きて戸を開けて布団を片付ける)が、カットが抑制されていて(クローズアップの挿入が的確)特に正面切り返しを徹底して排除することによって差別化を図ろうとしたのではないか(告白の場面でさえ傾けてズラしてる、ような…)。バイクに乗って海へ行くだけでは陳腐だが、バイクから降りてヘルメットをかぶったまま海を見るというのはあまり見たことがない。これまた海のシーンの構図とカッティングが妙に感動的。3人が俳句を書くシーンで映像に対して登場人物がナレーション的な言及アテレコみたいなことをしていてびっくりした。さりげないところで大胆。というかこんな何も起こらない起伏も少ないほとんどの観客が興味を示さないような藝大院映像科チックな映画がシネコンで放映されてるという事実に感動する。稲葉監督ほんとうにありがとう、これからも撮り続けてください。

6.ホン・サンス『水の中で』

東京フィルメックス2023にて。全編ではないけど、ほとんどピンぼけ、エンドクレジットの文字までピンぼけで、なら字幕もピンぼけにしろよというのは分かる。カメラマンと女優と監督(出演)の3人だけで地方に行って、脚本も現地で書いてほぼ即興で映画撮るっていうミニマムな映画、惚れ惚れする。キアロスタミ『オリーブの林をぬけて』とか、映画を撮る映画なんだけど恋とかセックスは排除されていて、1時間の上映時間と間伸びしていくような、中空に放り出されて漂うような茫漠なラスト、完璧。一切れのピザをハサミで3等分してクチャクチャ鳴らしながら無言で食う。そして「俺コーラ好きなんだよ、1日で1本飲みきっちゃう」というカメラマンの発言に「ふーん」で返す気怠さ。そのあとサンドイッチ食べて、パンが続いたことを嘆くカメラマンに笑った。海辺に行って監督が黙りこくりしゃがんで何やら考えている時にとなりでテコンドー(だっけ?)を披露しはしゃぐ2人。夜中寝てるときに大声が聞こえたという女優。幽霊の存在が示唆される。ディティールの豊かさ。ピンぼけの映像がかえってリッチな画面に思えてくる。

5.サム・メンデス『エンパイア・オブ・ライト』

思うように上手くいかない恋に崩れ落ちて涙を流し、健康で正常な他者からお前は異常な精神病患者なんだと言われ排斥される。完全にこの映画の中に俺がいて、俺の人生にこの映画が逆流して身体ごと押し広げられるような切実さと力があった。

何かにつけて小津を持ち出すのは節操がないと思うけど、この編集のリズム感は小津に近いような気がした。ショットはほとんど編集によるカットのリズムによって支えられているということ。黒人男性がクソ客ジジイにクソみたいな扱いを受け飛び出して海へ行くシーンのロングショット→バストショットの切り返し→石を投げる→ロングショットのアクション繋ぎとかも完璧なリズムが刻まれてる。

喧嘩した翌日の朝にセックスをして、開いたシャツのボタンを閉めながら窓の外を見ると画面左側におだやかに寄り添う老夫婦がいて右側には建物の影が映っていること、カットが変わりマイケル・ウォードとこちら側を隔てる大きな窓に優雅に飛翔する鳥が映り込んでいること、一気にカメラが引いて画面前方にあるやや低い建物の屋上に上空を飛び回る鳥の影が落とされていること。

フレーム内フレームの活用も一級だし、更に特筆すべきは黒人女性ナースと主人公に見られるような人物の「距離」であったり、クソ客ジジイの愚行シーンや『炎のランナー』を上映する際の突発的な主人公の行動シーンに見られる複数の「視線」によるサスペンスの構築。加えて、2人で屋上で年越し花火を見るシーン、オリヴィア・コールマン=ヒラリーが「聞いて」とつぶやき持っていたコップを置いて歩き出すショット/パンニングの恍惚と甘美さ、クソ客ジジイにブチ切れたマイケルウォードが沸点を超えて飛び出すシーンに見て取れるように静止した状態から「動き出す」ところにただならぬ官能が宿っている。

「観客が見るのは まばゆい光だけ」「映画は静止画の連続でその間は暗闇なんだ」「だが視神経には"小さな欠陥"が 1秒24コマでフィルムを回すと 暗闇が見えなくなる」

4.二ノ宮隆太郎『逃げきれた夢』

あらゆる不可能性の残酷さをどこまでも厳しく丁寧に浮かび上がらせる。安易な深刻さや問題をこれみよがしに提示することなく、安易な救いや希望も描くことなく、ただひたすらに年老いた男に対する世界の残酷さを切実に描いていて、鑑賞中ずっと苛酷な生々しさに耐え続けなければいけなかった。変わってしまった男に動揺する周囲の人物につられるようにこちらも動揺させられてしまう。

光石研が妻と娘に向かって学校辞める宣言をするシーンの立ち→座るという些末なアクションにただならぬダイナミズムを感じるのは緊張した空気が弱々しく弛緩する際のエネルギーのゆるやかな萎みによるもので、妻と娘を切り取るカメラ位置がその微弱な動きの後で少し下がっていることに気付いて思わず涙があふれた。

後半施設の外のデッキ?で光石研がほとんど動かず何も喋らない父親に向かって夢の話をするシーンが怖いくらい無音でヤバいのだけど(というか全編静かすぎる)その後カメラが引いて光石研がフレーム外に出ていって、だんだん画面外の子供たちの声(ファーストショットで画面を覆っていた光が消えて公園で遊ぶ子供たちの姿が映し出されたことを思い出しながら…)が微かに聞こえてきて恐らくそれに反応した光石研の父親がゆっくりと首を右に傾ける小さな動作にものすごく感動する。

光石研が見つめる先にある対象や話しかける人物(の反応)が光石研に一呼吸遅れて判明することの小さな小さなサスペンス。最後の最後で光石研の反応が描かれないという丁寧な回答。

料理屋で若い女の子に対して「あら〜若い女の子!」「彼氏おるん?」とかなんの躊躇いもなく言ってしまうことのどうしようもないキショさをちゃんと描く誠実さ。性的なものに配慮を払ってなるべく距離を保ちながら、なお滲み出てしまう「性」を残酷に表出させているところに二ノ宮隆太郎の偉さを感じる。『お嬢ちゃん』にて萩原みのりに一目惚れした、ヤンキーの下僕のような太っている金髪の青年が部屋で1人からあげ棒をつまみに金麦を飲んだあと、恐らく萩原みのりを思いながら寂しげにシコり射精するあの後ろ姿を思い出す。

3.イエジー・スコリモフスキ『EO イーオー』

せっせと劇場へ足を運んだ観客たちの鼓膜をぶち破るための過剰な音と、これまた観客の眼球を盲目に追い込むための過剰な光と色の映像。2023年最大の「移動」映画。魚眼レンズで捉えられたロバの黒々とした眼をスクリーンにわれわれ観客が映し出されるような感覚があって、ここでも『PERFECT DAYS』平山と同じように「語らなさ」が映画をこれでもかと饒舌に仕立てあげている。90分に満たない短い上映時間を移動し続け何かが起こり続ける画面の速度、強度。勝利の打ち上げをしていたらいきなり襲撃されてボコボコにされるし、やや下心を持ちつつ黒人女性に親切に振舞ったらいきなり首を斬られ死ぬ。唐突な暴力こそが映画だ。劇場で2回観たのだけど急に現れたイザベル・ユペールが一体なんだったのか思い出せないし分からない。無表情で家にある皿とかコップを床に落として割りまくってたのは覚えてる。

全然関係ないんだけど1回目観たとき1番前の席でみてて、隣に座ってた女性がめちゃくちゃ多動で足動かしたりソワソワしたり座席の上で体育座りしたりなんかずっと食べたり飲んだりしてたの嬉しかった。生きづらそうな感じもするしめちゃくちゃ楽しそうな感じもする。映画館は狂人が集まる場所なんだ。


2.塩田明彦『春画先生』

何の必然性も説明も前振りもなく唐突に地震が起こり、3人のカフェ店員女性の中からなんら特別な理由付けもなく北香那が選ばれ、名刺を受け取るまま何のドラマも過去も感情も行動に加担されることなく、映画という名の磁力に引き寄せられるかのように先生の元へ会いにゆく冒頭シークエンスの大胆不敵さ。街や自然の見事な撮影や、ここぞというところで流れ込んでくる電車、小津オマージュなど、三宅唱『ケイコ 目を澄ませて』をおもいだしながら感動。笠智衆なBARのシーンからあっという間に柄本佑が北香那を抱いてて、水色ブリーフパンツ一丁で出現したところ笑った。頭にスマホを取り付けて通話しながらセックスして、長らく女断ちしている先生に喘ぎ声を聞かせる滑稽さ。ラブホの回転ベッドもそうだし、ラストのSMも、春画がかつて笑い絵と呼ばれていたという話のように性=ユーモアの関係で描かれる。黒沢清に並んで塩田明彦が最も真面目に映画史を全うしているんじゃないかしら。

1.リューベン・オストルンド『逆転のトライアングル』

不穏な違和感の数々を直接的に語らず長回しの落ち着いたカメラと丁寧な演技・演出で観客に「悟らせる」やり口が気持ち悪い。まあミヒャエル・ハネケの模倣なんだけど、インタビューでも語っていたように今作で完全にハネケを追い抜いた感触があって、ずば抜けて面白かった。2時間30分は確かに長い、長いんだけど、少したりとも冗長ではない。一章、二章、三章と進んでいくうちに加速していって省略の快楽が倍増していく。

ホテルのライトの消し方が分からない。わざわざエレベーターでブチ切れさせて何度もドアを開閉させる。豪華客船のデッキでくつろぐ2人の周りをハエが飛び回り、クレームを伝えに行った男がドアを開けると船内にハエが侵入してくる。気にしないようにすればギリギリ気にしないでいられる、絶妙な不快感こそがオストルンドの作家性なんだと思う。

中盤、乗客全員が集まって食事をするキャプテンズ・ディナーのシーン。船自体が大きく揺れ、船酔いしたセレブたちがゲロを吐き始め、隣の客に嘔吐物がかかり、窓には誰かのゲロが垂れていたりする。主人公のカップルが相席した老夫婦は手榴弾や地雷を製造・販売しているという。明らかな異変が起きているというのに誰もはっきりと口にせず騒ぎ立てない異常さ。直接的に語らないことによる緊張が全編通して徹底されていて、問題が過剰に問題とされずに全てが世界全体の肯定/楽天性のもとに進んでいく。露悪は露悪でも、今を肯定的に生きて他者を愛するための露悪という気がする。つまり前を向いている。

一章と二章まではまあ面白いのだけどまだ助走で、この映画は無人島に流れ着いてサバイバル生活がスタートする第三章から異様に面白くなってくる。画面における人物配置と空間を拡張させるような動きの采配に清水宏を想起したり。さすがに観てないかな。ジャック・ロジエの『トルテュ島の遭難者たち』は確実に参照しているだろうが。

遭難した日の夜、辺りが暗闇に包まれる中、謎の獣の鳴き声に怯え言語障害を持った女性の「違う 雲の中!」という声が響き、みんなで砂浜へ走り出して何も見えない真っ暗な画面に残り1つしかない発炎筒の赤い光が広がり、その光に海面と対岸が照らされ力無く水平線へと落ちていく炎をただ皆で見つめて再び暗闇へと戻るショットが本当に本当に素晴らしい。また言語障害を持った女性の「雲の中!」という声が響きわたって、暗闇の中で怯えながら画面中央で身を寄せ合うカップルのショットに繋がるのだけど、この部分だけで2023年に公開された新作映画すべてを凌駕し上回るだけの力があった。

みんながいない間にモデル女のリュックからスティック菓子を取り出してこっそり食べてしまったり、リーダーのおばさんとイチャつくモデル男を他の男たちが笛を吹いてからかいそれにモデル男が怒ったり、生きるために弱った動物を何度も石で殴って仕留めた男をよくやったと慰め称えたり、男たちの連帯やじゃれあいが子供っぽくて陽気でめちゃくちゃ楽しそう。無人島漂流をこんなに楽しく描いちゃっていいんですか。本当にどこまでも楽天的で素晴らしい。

アピチャッポン・ウィーラセタクン『メモリア』的で荒唐無稽なラストも面白いし、一章の「見てろ、僕にホレさせる。本気の愛だ」で示されるように今作が紛れもない「愛」の物語であることが重みを増していく。無人島で権力を持ったリーダーのおばさんに夜呼び出された彼氏に対して憤り、座り込んでお菓子を口に運びながら「性的なのはダメ。裏切らないで。キスとかそういうのもダメ」と興奮ぎみに話して震えながら泣く彼女。金の価値が無くなった世界には愛しか残らない。愛しか描きようがない。のかもしれない。

闇と光のコントラストに拘った画面や「愛」という主題にムルナウの『サンライズ』を重ね合わせる。発炎筒の打ち上げは無人島における花火。ラスト、危機を感じたのかリーダーと探索に行った彼女の元へ疾走する彼氏。そこに最も『サンライズ』の影が濃厚に見えると共に、横移動のカメラワークと「愛」という主題で紡がれてきた文脈が一気に最後のショットへと収束していく興奮と感動。この瞬間のための2時間半。映画はどう観客をブチ上がらせるかの勝負なんだろう。音楽もキモくて良い。


【ワースト編】



15.熊切和嘉『658km、陽子の旅』

途中までは完全に日本版アニエス・ヴァルダ『冬の旅』で興奮しながら観てたけど終盤からだいぶ感傷ぎみになってって期待が高かったぶん落胆した。それでも深夜の百合シーンとかめちゃ良かったし、サービスエリアで老夫婦に向かって叫びながらヒッチハイクを強要・懇願する加害性が暴発するところなど面白い箇所も多い。ただ最後の車内の長回し心情吐露とか家族のドラマで感傷に陥るラストが本当に蛇足。アニエス・ヴァルダ『冬の旅』の少女をゾンビに追いかけ回させて凍死させる非情さと比べてどっちが優れているか一目瞭然だろう。
(染谷将太がなんかの記事でベスト3にこれ選んで絶賛してて笑ったんだけど、おれも好きぴが主演で大活躍してたら感動するだろうなとは思った。菊地凛子は良い女優…)

14.前田弘二『こいびとのみつけかた』

め〜っちゃ良かった気もするが……どうしても家庭の問題とか感傷とかの陳腐さが許せなかった…。なんでわざわざそういうことしなきゃ映画作れないの?という半ば憤りに近い。しかも前田弘二は結構信用してる監督だし(『セーラー服と機関銃 卒業』マジLove)芋生悠は本当に大好きな女優だし(石橋夕帆『左様なら』で恋に落ちました。清水崇『牛首村』超かっこよかった)、撮影も良いし、いるだけで安心する川瀬陽太と吉岡睦雄もでてるし…色々惜しい。天然さと能天気さと恋、ポジティブな要素だけでいいでしょ。まあネガティブが無いと観客が満足しないというのはあるんでしょうが…。それにしてもどの映画を観ても吉岡睦雄がずっと爆裂明るくてすごい。

13.宮崎駿『君たちはどう生きるか』

冒頭1,2分がピークで、階段を上って下って家を出て1回戻って服を着てまた出ていくという無駄でしかない運動を目にした時はもしやとも思ったがそれ以降停滞してしまったのでひたすら退屈さに耐えなければならなかった。『紅の豚』のように楽天的な喜劇や『太陽の王子 ホルスの大冒険』のような速度もなく、宮崎駿の悪い部分だけが目についてしまって、高畑勲が撮っていれば…などという下らない妄想に浸るしかない。

本編より面白い論考。考察みたいなとこに走らずちゃんと画面見てて流石だな…と。

12.庵野秀明『シン・仮面ライダー』

奇抜なカメラワークと怒涛のカット割りに反してほとんど動かずに会話し続ける役者たちを見て庵野秀明は映画を一切信じてないんだろうなとガン萎えした。あと鑑賞中ずっと黒沢清が頭にちらついてて、なんかこう、一般人とか市民とか街の生活や営みへの影響と加害なんかがほぼ皆無で、被害者のいない暴力はなんて恐ろしくないんだろうとか思う。そもそもが省略の連続みたいな編集だから省略の気持ちよさとかカットの気持ちよさがあまりなく、「ショットの良さ」みたいなところの感性がほとんど「構図」でしか考えられてなくて本当にアニメの人間なんだなと。長澤まさみが一瞬で消え去ったのは良かった。


11.城定秀夫『銀平町シネマブルース』

小出恵介という役者を撮る、という意味では成功しているのかもしれないが、正直いまおかしんじと城定秀夫のタッグでこれ?もっといけるっしょ、とは思う。「やっぱ許せない。殴っていい?」と聞いてからビンタするよりも、いきなりビンタしてから遅れてセリフを言うべきなんじゃないか、とか、色々ツッコミたくなるけど。ゆるゆると撮りすぎてる。人生の美徳とか人情とか、"良い話"にどんだけ頼ってんの?って。わざとらしい演出にも城定秀夫の衰えを感じる。劇場内のゴミを拾いながら女性監督と話すシーンも登場人物が涙を流すシーンも、わざとらしさが随所に蔓延っててうーん…といった感じ。踊り出すところなんか何の官能も宿ってなくて全くダメだ。ライス関町と片岡礼子が良かった。宇野祥平は同じような役柄を見すぎてもう飽きた。とにかく俺は新しいものが見たい。なんといっても劇中劇のおもんなさがヤバすぎる。映画をナメてるようにしか思えない。あえてチープに?こんな慎重になるべき題材で抜いてんなよ。「映画好き」みたいな概念をとことんバカにしてるんじゃないか。城定秀夫もいまおかしんじも、単なる「映画好き」なんかじゃなかったはずだ。


10.デヴィッド・ロウリー『ピーター・パン&ウェンディ』

いくらデヴィッド・ロウリーとはいえ空を飛べないことの不可能性=制限を描けない完全にジャンルとしてのファンタジーでは受けつけられなかった。もちろん『グリーン・ナイト』は超えず。上下の空間を意識しようがそもそも飛翔によって空間は破壊されてしまっているのでその視線は何の効果も持たない。器用な仕事とか求めてないからディズニーだろうがなんだろうが関係なく自らの「映画」を追求してくれ。エンドロール13分もあってワロタ、資金だけは潤沢にある。


9.パク・チャヌク『別れる決心』

どうやって説明するかということしか考えてないのでカットにキレが無くてダルくなるしカメラに何の制約もないので画面に強度が出ない。例えば魚市場で男女が出会い話すシーンでは4人とも突っ立ったままカメラ(カット)だけが次々と入れ替わり繋がれていって、およそ生きている人間を撮ろうという思想をまったく感じられないし、サスペンスをやる気がゼロなんだなということが分かる。ポール・トーマス・アンダーソンとかウォン・カーウァイとか、びゅんびゅん動きまくるカメラワークがとにかく嫌いだ。カメラで遊んでる暇があったら人間をちゃんと撮ってほしい。

8.山崎貴『ゴジラ-1.0』

シリアスとユーモアを完全に分けてるのが敗因。やっぱ戦争と震災は映画向きの題材じゃないよ。決めゼリフ言ったりグッとアップに寄って真剣になるとこ全部ダサい。人間ドラマどうこうより、話すときにほとんど動かず止まってる事のほうが気になる。三木聡がフルボッコにされてこいつが褒められてんのマジで意味分からん。死んだとみせかけて、2人とも生きてました〜めでたしめでたし。って、ほんとに皆これでいいと思ってるんですか? 荒井晴彦とか脚本に投入したら良くなりそう。溝口と清順が恋しい。


7.山本英『熱のあとに』

東京フィルメックス2023にて。期待してただけに…という怨念。マジで山本英はすごいんです。だってあの『小さな声で囁いて』を撮った監督だよ…?(ふるえながら)  脚本を韓国人が書いてるからか韓国サスペンスみたいな感じになってるし、それはいいんだけどひたすら深刻さの常態と泣き叫びの演技が続いて頭を抱えた、というかつまらなすぎてしんどかった。明らかに映画祭狙ってるあざとさ。もっと訳わかんないの撮らせてあげてほしい。深田晃司みたいになりそうで怖い。


6.デヴィッド・クローネンバーグ『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』

バキバキに脚本の映画だし、ハリウッド映画みたいに単調なバストショットの切り返しと、設定・世界観の説明だらけで超絶おもんなかったけど、レア・セドゥが激エロだったり『ドレミファ娘の血は騒ぐ』みたいなシーンがあってちょっとだけ許せた。これだったらかなりラース・フォン・トリアーに軍杯が上がる。


5.足立紳『雑魚どもよ、大志を抱け!』

作り手の感性が幼稚すぎてつらかった。手持ちカメラでの長回し、テレビドラマのような臭い演技の付け方、規範に縛られまくったセリフ、7秒で考えたような凡庸で陳腐な深刻さ、辟易とする。一体どんな映画を観てきたらこんなものを許容できるようになるんだろう。

元気ビンビンな吉岡睦雄と、いつの間にか色気がすごいことになってる河井青葉と、そこにいるだけでオーラが半端ない永瀬正敏の3人が異様に輝いてて嬉しい。

映画監督志望で実際に映画を撮ってるおかっぱ頭の男の子出てきて俺かと思った。「ほんとはスピルバーグよりコッポラが好きなんだ」

それにしてもおいおいマジかよ?って思うシーンが多い。電車に乗って遠くに行ってしまう友達を走って追いかけて泣かせるなんてベタベタなシーンよく撮れたね…。てかテンポが死ぬほど悪くて、とにかく遅い、遅すぎる。145分とかいう長すぎる上映時間に作り手の傲慢さが如実に表れてる。145分て…正気か?

こうなるとタイトルの「、」と「!」や書き文字のビジュアルまでもが俗悪なものに見えてくる。


4.堀江実『イバラ・夜の祈り』

ポエムと感傷、海、そして死…最悪要素てんこ盛り。圧倒的今年ワースト。この撮影でこんな脚本の映画になることってあるんだ。Twitterブロックしてますのくだりはちょっとオモロかった。極小規模の上映作品をワーストに入れるのもなんだかな…と思ったけどちょっと陳腐な感傷とか緊張感の無い長回しとかがアレルギーすぎて…。ツァイ・ミンリャン好きなんかな? ビー・ガンとか最近の中国台湾辺りのアジアシネフィル監督もなんだかなあと思うことが多い…。


3.ベン・アフレック『AIR/エア』

紛うことなき脚本映画。しんどかった…。


2.金子由里奈『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』

『眠る虫』という物置小屋の深部でかすかに発光し息を潜める蛍のような映画を撮ったあの「金子由里奈」という才能豊かな監督がなぜこうも怠惰で臆病で堕落した作品を世に送り出してしまったのか不思議でならない。

セリフにその作品の魂とも言えるべき主題をほとんど全て託しきっているのは大前提として悪だし、もっと言えば加害性=悪という現実世界でのつまらない一義的な倫理的価値観を「映画」の中に持ち込んで自らの被害者性を強調し、その軟弱で卑怯な説法とも取れる言葉の積み重ねによって観客を半ば暴力的に同調・共感させ共犯者に仕立て上げる嫌らしい手つきには拒否反応を示さずにいられず、その上そういった小癪なモノローグ/ダイアローグの数々を部室や自室といった、閉じられた「部屋」の中で行うという暴挙にはもはや擁護する言葉や気力を放棄するほかないと言える。

タイトルの「しゃべる」や「やさしい」をひらがなにするという現代短歌的な作為には「沈黙」や「厳しさ」といった現実世界に遍在している諸要素を都合よく無視し隠蔽する作り手の甘さが透けて見えるようだし、泣くために(あるいは泣かせるために)流した「涙」を清廉潔白で純粋なものに見せるべく性的なイメージを限りなく遠ざけ性行為や性器を穢れとして意識の外に弾き飛ばし、まるでそういったものが最初から無かったかのようにふるまう愚鈍さ(ユーモアと身体性の欠如)には呆れるばかりだ。

まずはその無数の毛や綿で出来た「ぬいぐるみ」とやらを相手に投げつけ、周囲が暗闇で覆われたぐらぐらと揺れる橋の上でお互いの眼を無言で見つめ合うところから「映画」を始めてみてはいかがだろうか。『眠る虫』のように真っ暗などこぞと知れぬ空間の中で妖しく艶めかしく、その2つの眼球から嘘以外の何物でもない光線がじっと放たれる契機が訪れるかもしれない。

1.ダニエル・クワン/シャイナート『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』

冒頭から1ミリも面白くなくてずっと白目で観てたからほとんど内容も忘れてしまったのだけど、はたして「なんでもできること」は本当に自由なのか?と思うし、A24は根本的に「新しさ」というものを履き違えてるんだと思う。ゴリゴリの編集マジックで画面を無駄にごちゃごちゃさせてカメラぶん回して超能力で暴れ回って「なんでもできる」とか言われても、いやそりゃあそんな金があったらどうにでもなりますよ…としか思わないし、何か特権的なポイントに向けてじゃあここを抑制させようとかメリハリとか緩急とか、そういうことなしにとにかく物理的なスピード感だけが加速していくので身体が映画から隔離されてなにか新幹線とか列車を遠くから眺めている感覚になる。大勢の客を乗せて勝手にどこへでもお行きなさい。




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