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孫権を死地から救った側近・谷利

215年、孫権と劉備は荊州を巡って一触即発の状況にありましたが、曹操が漢中に攻め入ったことで劉備は孫権と講和し、曹操と対決します。孫権はその隙を狙って魏の合肥に攻め込みますが、攻めおとせずに退却します。そして、張遼たちの追撃を受けました。孫権は橋をわたって逃げようとしましたが、途中の橋板が破壊されていました。絶体絶命と思ったその時、孫権に従っていた谷利という人物が孫権の馬に後ろから鞭を当てて、破損した箇所を飛び越させました。 谷利はもともと孫権の身近で使い走りのような仕事を

    • 曹操が裏をかかれて喜んだ・李孚

      曹操は200年に官渡の戦いで袁紹を破りました。その後、袁紹は亡くなります。袁紹の三人の息子のうち、長男の袁譚は袁紹の兄の家を継ぐという名目で家を出され、三男の袁尚が袁紹の後を継ぎました。しかし、袁譚は曹操と手を組んで袁尚と争います。 袁尚は本拠地である鄴から袁譚を討ちに出撃しますが、曹操に鄴を包囲されてしまいます。袁尚は軍を返しますが、包囲されている城内の仲間たちに自分が帰ることを早く伝えたいと考え、配下の李孚に相談します。李孚は手紙ではなく信頼のおける人物を直接城内に送り

      • 曹操の子どもたち

        三国志の英雄のひとりである曹操の子と言えば、誰が思い浮かびますか? 張繡に奇襲されて戦死した長男の曹昂と、魏の初代皇帝となった曹丕、そして曹丕の同母弟である曹彰、曹植の4人が有名ですね。また、曹丕たちとは母親が異なる曹沖も、若くして亡くなってしまいましたが非常に賢かったことを示す逸話が残っています。しかし、歴史書の『正史 三国志』(ちくま学芸文庫)を読むと、曹操には男子だけで25人も子がいたそうです。女子もたくさんいそうですが、存在がはっきりしているのは4人です。ここでは男子

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