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【『マルチの子』第一章全文公開】衝撃の超リアル「マルチ商法」サスペンス!

第二回大藪春彦新人賞受賞者、西尾潤さんの待望の新刊『マルチの子』が6月10日に発売されます。実体験をもとに、「マルチ商法」にハマった女性の乱高下人生を描いた震慄のサスペンス! 発売に先駆けて、第一章を全文公開します。知られざるマルチの世界、ぜひ覗いてみてください!

マルチの子帯付枠

第一章 家族を助けたいと思って始めました

「私たちのテーマは予防医学なんです。それは大きい意味で考えると、国や自分たちの医療費の削減にも繋がります。社会貢献、そう言ってもいいでしょう」
 スポンサリング前半の区切りがこのセリフだった。
 ずっと握り締めていた水性ボールペンを置いた。捲ったシャツの袖を気にしながら、手をテーブルの上で祈るように組む。手の甲にある小さな傷痕を親指でなぞった。
 JR大阪駅隣接のビル九階にあるカフェ。
 目の前には二人の若い男性が座っている。
 一人は、眼鏡をかけた小さな顔に細い首、くたびれたグレーのパーカーに身を泳がせているCさん。もう一人は茶髪にニキビを残した顔で、十字架のネックレスをぶら下げて、ネイビーのジャケットをぴっちりと着こなしたBさんである。
 鹿水真瑠子は二人の顔を交互に見た。
 赤いフレームの眼鏡を中指で押し上げる。目を細めて優しく微笑み、浅く頷いた。
 ここまでの感触は上々だ。
 左手首の腕時計に目をやると、話し始めてから一時間が経っていた。今日も予定通りに、前半をクリアしている。
 すっかり薄くなったアイスコーヒーを一息に飲む。グラスの外側にだらしなくついた水滴が、目の前の書類に飛んだ。
 テーブルの中央に置かれているのは商品のパンフレットだ。
 高級感溢れるつるりとした紙に、健全さをイメージさせる青を基調としたデザインで作られている。
「健康増進協会」お墨付きの健康磁気マットレス「KAIMIN2」は、上質なポリエチレン素材の中に、フェライトと呼ばれる永久磁石が独自のN極S極交互配列で配置された、医療機器申請中の高級マットレスである。
「健康増進」「眠りで疲れをリセット」「これはビックリ! 腰痛をお持ちの方の救世主」「ワクワク快眠」など、決してセンスがあるとは思えないフレーズが紙面に躍る。
「これだけを見たら、年配者向けの商品だと思うかもしれませんが、違うんですよ」
 真瑠子は指先で水滴を飛ばしながら、パンフレットを改めてCさんの前に置いた。
 Cとは、Clientの頭文字でお客様のこと。BはBridgeの頭文字で紹介者のことである。
 スポンサリングと呼ばれる新規顧客獲得のためのプレゼンテーションは、ABC方式という黄金システムに則って行われることが基本だ。
 AはAdviserの頭文字で、説明者の真瑠子を指している。つまりBさんに紹介してもらったCさんを顧客とすべく、真瑠子は商品説明をしているということになる。
 ここからの後半戦が重要だ。このスポンサリングが成功するか否かの分かれ道である。
 真瑠子は鼻から空気を吸い込んで、ゆっくりと深呼吸をした。
 パンフレットの商品を指差しながら、タツヤという名のCさんに言葉をかけた。
「ただのマットレスなのに、高いなぁ、って思いますよね?」
「はい……。なんせ自分はニトリで買った七千九百円のやつ使ってますから」
 タツヤの視線の先には、十五万円プラス税の金額が記載されたパンフレットがある。
「最初このマットレスの説明受けた時はほんまに驚いたんです。だって、マットレスで十五万円て考えられないでしょう。私も母親が楽天で買ってくれた一万円くらいのものを使ってますし」
 大袈裟に笑顔を作った。Bさんのケンジも「僕も、僕も」と言って大きく笑う。
「でもね」
 少し間を置いて真顔になった。
「このマットレスの上で寝るだけで、病院に行く必要がなくなったとしたらすごいことやと思いませんか? 〝寝る〟だけで、です」
 タツヤの横でケンジが大きく頷く。
「例えば、身体が凝ってマッサージに行ったとしたら、お金を使いますよね。しかも 〝時間〟も使ってます。このカイミン・ツーの上で寝たら、両方が節約できるんです。一石二鳥、って言葉がありますけど、まさにそれやと思います」
 タツヤはぼんやりと頷いた。
「さっきお話ししたみたいに、HTFはいつまでも健康で、長生きすることをコンセプトにした商材だけを扱っている会社です。またそれを独自の方法で世の中に広めたいと思っています。それが国を苦しめている、膨らみきった医療費を少しでも減らすことに繋がるんじゃないかと、真剣に考えてるんです」
 言葉を裏づけるように、真瑠子はタツヤにしっかりと目を合わせた。
「その独自の方法、というのが、代理店制度を個人レベルに落とし込んだ方法です」
「個人レベル?」
「はい。タツヤさん、一人暮らしされてる、っておっしゃってましたけど、テレビはどちらで買われましたか?」
「近所のジョーシン電機で買いました」
「でも、ジョーシンさんがテレビを作って売っているわけではないですよね」
「ええ。テレビ自体はシャープのやつです」
「ということは、メーカーであるシャープがジョーシン電機にテレビを卸して、ジョーシンがタツヤさんに店頭でテレビを販売した。つまりジョーシンはシャープの代理店というわけです」
 当たり前の話に不満げな表情のタツヤだが、真瑠子は構わず続ける。
「ジョーシン電機はもちろん、右から左に商品を動かしただけではありません。シャープの作ったテレビの機能をタツヤさんにきちんと説明した。それに納得されたからこそ、タツヤさんは購入した。だから代理店は、テレビ上代価格の何パーセントかをマージンとして頂くわけです」
 一呼吸置いた。
「HTFでは個人が代理店になれます。つまり私たちがジョーシン電機になり、テレビを売るごとにマージンをもらえるということなんです」
「はあ……」
 タツヤの返事は鈍いが、真瑠子は説明を重ねる。
「タツヤさん、マルチ・レベル・マーケティング、って言葉聞いたことがありますか? 略してMLM、あるいはネットワークビジネスとも言いますけど、欧米諸国などで、昔から活用されている流通形態です」
 ケンジがちらりとタツヤの表情を窺う。
 少し間があった。
「あの、洗剤のマイウェイみたいなやつですか?」
(そらきた)
 真瑠子は、ゆっくり頷きながら微笑んだ。
「そうですね。同じネットワークビジネスではありますけど、少し違います。というのは、HTFはビジネスをスタートさせるための権利金は、一切もらわないんです。マイウェイのようなスターターキットは存在しません」
 真瑠子は話しながら、推進会の申込書をパンフレットの上に置いた。
「カイミン・ツーを買った人は、HTFがやっているビジネスネットワーク〝HTF推進会〟に入ることができます。こちらに必要事項を記入するだけでよく、入会金や年会費を支払う必要はありません」
 ここからはリズミカルに話を繋いでいく。
「例えば、タツヤさんがこのカイミン・ツーを購入して健康を手に入れたとしましょう。いえ、タツヤさんは健康で元気そうだからこの話はピンとこないと思うので、私のグループで実際に起こった話をしますね」
 ケンジがBさんの役割をまっとうし、真瑠子のリズムに乗るように頷いた。
 人が感情を揺さぶられるのは、商品やシステムの〝説明〟ではない。
 その背景にある〝ストーリー〟だ。
「私のグループに、瞳さん、っていうおばあちゃんがいるんですけど。ちなみに志村けんのコントのお話じゃないですよ」
 ストーリーを語る前に一度硬くなった空気を和らげる。タツヤが小さな笑みを浮かべた。
「瞳さんね、ずっと腰が悪くて、一回布団で横になると起き上がるのが大変やったんです。年寄りやから夜中に何度もトイレに起きるんやけど、それが辛かった。でもこのカイミン・ツーを使うようになってからは、楽に寝起きできるようになった。実際に快眠できているから、夜中に起きる回数も少なくなったそうです」
 申込書の下の商品パンフレットを上に出す。
「朝もスッキリ目覚めてええことずくめや、ゆうてめちゃくちゃ喜んでたんです。それを聞いて驚いたのが同じく腰痛持ちの瞳さんの妹さん。マットレスを変えるだけで良くなるんなら、って、妹さんは旦那さんの分も合わせて二セット購入されました」
 真瑠子は一度、言葉を切った。
 水を一口飲んでから話を続ける。
「瞳さん、ゲートボールのチームに入っていて。腰が悪くなって長いこと休んでいたんですけど、マットを変えて体調が良くなったからチームに復帰したんです。それで、バリバリとボールを打っていたらみんなが不思議がってね。〝瞳さん、なんでそんなに急に調子良くなったん? 見違えるわ~〟って声かけられて。瞳さんは〝布団のマットレスを変えただけやねんけどな〟って答えてたんです。そしたらそのマットレスはどこのなの? とチーム内で話題になりました。その後、瞳さんの紹介で何人がカイミン・ツーを買ったと思いますか?」
「え……何人でしょう。わかんないな。僕にそれを聞くってことは、大人数なのかな」
 真瑠子の顔に今度は自然に笑みが浮んだ。
「正解です。なんと、昨日までの時点で二十五人です」
「二十五人?」
「ええ。ゲートボールのチームって交流が盛んみたいで、あっという間に噂が広がって。最初、瞳さんは推進会の申込書を、めんどくさいし推進なんてせえへんから書けへん、って言ってたんです。私は一枚書くだけやよ、めんどくさがらんと、って書いてもらいました。だって入会金が必要なわけでもないし、推進しないからって罰金があるわけでもないですから。でね、三ヶ月後、瞳さんの口座に紹介料として、いくら入金があったかというと……」
 ビジネスモデルを端的にイラスト化した紙をバッグの中から取り出し、テーブルの中央に置いた。
「四十六万五千円です」
 何度も聞いているこのエピソードに、まるで初めて聞いたかのような驚きを込めて、ケンジが「すごい」と呟く。
 タツヤの目が瞬間、大きく開いたのを真瑠子は見逃さなかった。
「これが、紹介、いわゆる推進の結果、販売が成立した場合の手数料のモデルです」
 真瑠子は差し出した紙を使って説明を続ける。
「まず、一人目を勧誘した時点で、タツヤさんには二人目以降十パーセントの手数料をもらえる権利が生まれます。それからは、タツヤさん経由で販売された商品の上代価格の十パーセントがタツヤさんに入るということです。さっきのジョーシン電機と一緒ですね」
 タツヤが頷く。
 近づいてきたホールスタッフが、テーブルの上に置かれた紙を見て怪訝な顔をしたのが視界に入った。真瑠子は無視して話を進める。
「直接勧誘して入会した人を〝フロント〟と呼びますが、このフロントが四人になった時点で、タツヤさんの権利は二十五パーセントに上がります。これがシルバーというランクです」
 目の前の紙に書かれた数字を指差す。十五万円の十パーセントで一万五千円、シルバーになると二十五パーセントで三万七千五百円。
「例えば、タツヤさんが五人を誘ったとしましょう。一人目の時は手数料の権利はなし。二人目、三人目、四人目の三名からは十パーセントの合計四万五千円がバックされます。ここでシルバーに昇格しますから、五人目の方からは三万七千五百円。合計で八万二千五百円の収入となります」
 真瑠子はタツヤの眉間のしわが緩んだのを確認した。
(これはいけるな)
 赤い眼鏡を指で押し上げた。
 間髪容れずに、その先の収入例を挙げる。
「誘った五人のフロントのうちの誰かがこのビジネスを始めるとします。そこには権利差が出ていますから、タツヤさんにも収入が入るんです。例えば──」
 タツヤ自身がシルバーになった後、フロントの一人がシルバーに昇格する際に生まれる収入表を見せた。
「その人が一台販売したとします。最初なので権利は〇パーセントです。タツヤさんとの権利差は二十五パーセントあるので、十五万円の二十五パーセント、三万七千五百円がタツヤさんに入ります。たとえタツヤさんが何もしていなくても。その後、その人がシルバーになる過程で、タツヤさんの二十五パーセントからその人の権利十パーセントを引いた十五パーセントがタツヤさんの収入になります。そうして順調に推進を成功させていき、権利四十五パーセントのゴールドに昇格するためには──」
 真瑠子が話しながらタツヤの顔を見た時、背後にいたホールスタッフと再び目が合った。
(やばい。追い出されへんうちに、話にキリつけんと。このカフェも出禁になってしまう)
 真瑠子は少し早口になった。
 カフェの中には「勧誘活動禁止」を標榜するところが少なくない。長時間テーブルを占領されるのを避けるためだろう。これまでもパンフレットを広げて熱を入れて話し込んでいたばかりに出入り禁止となったカフェがいくつもあった。
 ここは立地も雰囲気も良いので、そうなりたくない。
 真瑠子は話のテンポを上げた。
 タツヤは前のめりになって聞いている。もう大丈夫だろう。
 結局タツヤはカイミン・ツーを一台契約することになった。
 支払いは、月々八千円、二十回のローンだ。肩こりに悩む実家の母に使ってもらうという。
「親孝行ですね」
 真瑠子が持ち上げると、タツヤははにかみながら「そんなことないですけど」と謙遜した。まんざらでもなさそうだ。
 瞳おばあちゃんの話は効果絶大だった。
 何度となく話してきたが、大抵の人がタツヤと同じ反応を示す。楽してお金を稼ぐ、というストーリーにみんな乗りたいのだ。
 真瑠子はタツヤに微笑みかけた。
 タツヤも真瑠子に目を合わせて微笑みを返す。
 仕上げに、明日のスタートアップセミナーのアポイントを取りつけた。ローン契約用の印鑑を忘れないようにと伝えて、真瑠子はカフェを後にした。



 スタートアップセミナーとは、HTFビジネスを始める時に最初に受けてもらう、初心者向け説明会である。
 セミナーは真瑠子のアップライン、丹川谷勝信が住む、南船場のマンションで行われる。心斎橋に程近い、大阪のソーホーとも称される人気エリアだ。
 真瑠子はセミナーがスタートする一時間前、大理石が壁面に施されたゴージャスなエントランスに立っていた。部屋番号をインターホンに打ち込む。
 丹川谷は三十歳、実家は造園業を営む資産家である。ここは彼の親が税金対策のために買ったマンションだが、ビジネスメンバーには「HTFで稼いだ金で、丹川谷が購入した」ということで通していた。
 ネットワークビジネスでは、参加している人間に〝成功の証〟を見せることが必要だからである。豪華な住居は、誰の目にもわかりやすい憧れの形だ。
 エントランスが開錠され、十二階の丹川谷の部屋へと向かった。
「あれ? 真瑠ちゃん、今日は望月と一緒に来るんやなかったん?」
 シャワーを浴びた直後と思しき上気した顔で、丹川谷は部屋の扉を開けた。
「望月くん、今夜も仕事を抜けられないらしくて」
 真瑠子は言った。
「そうか」
 丹川谷は濡れ髪をタオルで拭き上げながら素っ気なくそう言うと、すぐにリビングの奥に消えた。やがてブォーとドライヤーの音が聞こえてきた。
 望月豊は妹の真亜紗の彼氏で、このビジネスで真瑠子が最初に声をかけた人物である。
 母子家庭で育った望月がずっとお金に苦労してきたことを真瑠子は知っていた。副業になればと思い、このビジネスを勧めた。だが、勤務先の飲食店が忙しく、セミナーやミーティングにはなかなか参加できないでいる。
 玄関を入り、廊下左手のリビングに入った。真瑠子は小さなホワイトボードをセッティングし、スタートアップセミナーの準備を始めた。
 バッグから、赤い眼鏡を取り出してテーブルに置く。
 高校卒業後は進学せずに就職をした。だが、わずか一年でやめてしまった。
 その後に就いたのが音楽スタジオでのアルバイトだった。
 そこで丹川谷と出会った。
 丹川谷はネットワークビジネスを本格的に始める直前まで、プロとしてバンド活動をしていた。
 スタジオの掲示板にあった「磁力と健康セミナー・無料開催」という小さな貼り紙を見ていた時、たまたま練習に来ていた丹川谷に背後から声をかけられた。
 ──興味あったら、今度、話聞きに来ない?
「真瑠ちゃん、今日来るの誰やったかな?」
 乾いた髪を触りながら、丹川谷がリビングにやってきて言った。
「今日は、ケンジくんと昨日スポンサリングした新規男性と、後は丹川谷さんのところの──」
「そう。神戸ラインで一人、受講したいっていう子が来るわ。よろしくな」
 丹川谷は神戸に二百人規模の大きなグループをダウンに持っている。
「合計三名ですね。がんばります」
「しゃーけど真瑠ちゃん、四ヶ月でようここまでできるようになったな」
 ホワイトボードに文字を書き込んでいる真瑠子に丹川谷が言った。
「いえ……。丹川谷さんのおかげです」
 真瑠子の消極的な物言いを聞いて、丹川谷は笑った。
「真瑠ちゃんは勉強家やからな。だからすぐに身につくんやな。えらいわ」
 丹川谷はセミナーやミーティングの度に、必ず真瑠子を褒める。
 ──まだ始めたばかりなのに、すごいでしょう。彼女はネットワークビジネスのセンスがある。
 ──やる気がある子は、これだけ伸びるんですよ。
「HTFを始めるまでは、人前であんまり話したこともなかった、って言ってたもんな。信じられへんわ」
 丹川谷は言った。
「本当ですよ。高校時代のあだ名は〝麗子像〟でしたから」
「麗子像? あの美術の教科書に載ってたやつ?」
「そうです。岸田劉生が娘を描いた、あれです」
「か、髪型が似てる、ってことかな」
「表情もそっくりやって言われて」
 高校時代のことがフラッシュバックして、自嘲気味に言ってしまった。
 真瑠子自身も、こんなにできるとは思っていなかった。
 だが、何度も丹川谷のスポンサリングを聞いてメモを取り、少しずつ真似ていくうちに、いつの間にかABC方式のスポンサリングとスタートアップセミナーのやり方が身についていった。
 いささか緊張することもあったが、赤い眼鏡をかけると別人に変身したような気になり、口も滑らかになった。
 話すことは面白かった。視線が自分に集まるのは快感だった。
 幼い頃、母や祖母に「真瑠子はいちびりやな」と言われたことがある。祖母や姉の物真似をやっては家族の中で注目を浴びようとしていたからだ。その後、人の評価を気にするあまりすっかり臆病者になってしまったが、このビジネスを始めたことで、あの頃の自分に戻りつつあるのかもしれない。
「ところでさ、今から来る神戸ラインの子やねんけど、昨夜突然電話してきて〝HTFってねずみ講じゃないんですか〟って言いよって」
 丹川谷は眉根を寄せた。
「まあ昨夜は俺が、きっちりみっちり説明しといたけどな」
「セミナーでも念押しで説明しておきますね」
「頼むわ真瑠ちゃん」
 丹川谷の手が真瑠子の肩にポンと乗った。
「頼むわ」という言葉が真瑠子の胸の中で弾んだ。我ながらどれだけ単細胞なのかと思うが、頼られるとやる気が俄然湧いてくるのである。
 奥からインターホンの音が聞こえ、さらさらの髪を揺らしながら丹川谷が応対に向かった。
 真瑠子はふと「ビジネスについては、不用意に人に話さないように」と、タツヤにきちんと伝えたか不安になった。
 スポンサリングの最後は、怪訝な顔をしたホールスタッフのことが気になり、駆け足で話を締めてしまったからだ。
 タツヤも神戸ラインの新規同様、ねずみ講とネットワークビジネスの違いをきちんと説明できない知識レベルだ。その状態でビジネスのことを人に話すと、大抵相手に反対されてしまう。
 しばらくしてリビングに入ってきたのは、ケンジとタツヤだった。
 迎えた時、二人の醸し出す空気から、頭をよぎった不安が的中したことを察した。
(やっぱり私、言ってへんかったかな……。アホやなもう)
 窺うようにケンジに目を合わせる。落ち着かない視線が返ってきた。
「こんばんは。掛けてお待ちくださいね」
 真瑠子はその空気に釣られないように笑顔で言い、ガラステーブルの向こう側にある大きなソファに手を向け、タツヤに着席を促した。
「ちょっとええかな?」
 ケンジに声をかけた。
 リビングから出て奥のダイニングに移動し、アイランドキッチンの横で声を潜める。
「タツヤくん、ひょっとして、やってしもた?」
 真瑠子がそう言うと、ケンジがばつ悪そうに視線を下げた。
「ええ。家に帰った後、脱いだ服の下にパンフレットを置いてたらしいんですけど、嫁さんに見つかったらしくて。〝これ何なん?〟から始まって、いろいろ問い質されて。内容をちょっと話してしもたらしいです。ほんなら案の定猛反対にあって……」
 真瑠子は頷いた。
「でもなんとか嫁さんを説得したそうです。印鑑もちゃんと持ってきてます。ただ、反対されたことが効いてるんか、なんせテンションだだ下がりで」
 待ち合わせ場所からここに来る途中も、タツヤが申し込みをキャンセルすると言いださないか、気が気ではなかったという。
「なんや」
 腕を組んで横に立っていた丹川谷が、そう言って破顔した。
「え?」
 ケンジは虚をつかれた表情で、丹川谷の顔を見返す。
「その子、全然大丈夫やん。ちゃんと嫁さんのこと説得したんやろ?」
「ええ、まあ……。昨日のところは」
「ほんなら大丈夫。ちゃんと戦えるやつや。見込みはある」
 数秒の間があったが、ケンジは「そ、そうですよね」と呟いた。
 気後れを取り戻すように自分自身に向けて何度も頷き、ケンジは顔を上げる。
「心配ない。契約する気やから彼はここに来たんや。大きい買いもんかもしれへんけど、ハンコついた後に彼はさらに自分で自分を納得させる。そんなもんや」
 以前、真瑠子のフロントで同様の事態が起こった時も、丹川谷は真瑠子にそう言った。
 ある程度の金を投資をした人間は、自分の買い物が失敗ではない、良い買い物をしたのだと、その行為を「正当化」し、擁護しだす。
「一貫性の法則」だ。一旦決断したことにおいては、それを曲げることを避けたい心理が働くのだという。
 再びインターホンの音が三人の背後で響いた。
 アイランドキッチンの足元に積まれたサンペレグリノのペットボトルを掴む。二本をケンジに手渡し、リビングへ戻るよう促した。

 メンバーが揃ったところでスタートアップセミナーが始まった。
(よし)
 真瑠子は赤い眼鏡をかけた。
 にっこりと微笑み、重い空気を変えるために、いつも以上に声を張って自己紹介をする。続いて商品「カイミン・ツー」のおさらいと、推進会の規約について軽く話した。
「さて、ここからは〝ビジネス〟のお話に入っていきます」
 真瑠子は、努めてゆっくりと話すように心がける。最近は慣れがたたって早口になりがちだ。
「その前に、テーマを決めたいと思います。ちなみにお二人は、このビジネスは副業で始めますよね?」
 真瑠子はタツヤと、キムラと名乗った丹川谷のダウンの顔を見た。
「本業のお仕事があって、並行してこのビジネスに着手するわけです。それって、大変なことだと思いませんか?」
 タツヤとキムラが頷いた。
「毎日毎日、一生懸命働いて、それ以外の時間をこのビジネスに割くわけです。体力的にも気力的にも本当に大変です。だから今、〝何のため〟にこのビジネスを始めるのか、つまり〝テーマ〟をクリアにしておくことが重要なんです」
 ケンジがノートの上にペンを走らせている。
 真瑠子は小さなホワイトボードに〝テーマ〟と書き込んだ。
「例えば、タツヤさんはなんでサイドビジネスをやろうと考えたんですか?」
 タツヤは一瞬間を置いて答えた。
「そうですね。将来のことを考えて、ちょっとでも貯蓄したいかと」
「なるほど」
 真瑠子はそう言いながら大きく頷いた。多少大袈裟でもいいから、相手を肯定してあげることが警戒心を解くことに繋がる。
「堅実ですよね。ではキムラさんはどうですか?」
 もう一人の、小柄でつぶらな目をしたスーツ姿の若者に尋ねた。
「ぼ、僕はビジネスで、成り上がりたいんです!」
 強い勢いで出された言葉に、ケンジもタツヤも彼の顔を見た。昨夜、ねずみ講かどうかを疑っていた人とは思えない。丹川谷の説明が効いているのだろう。
 後ろで様子を窺っていた丹川谷が、笑いを堪えているのが視界に入った。
(ええ感じや。こうこなくちゃ盛り上がらない)
 緩みかけた口元を引き締める。
 真瑠子はホワイトボードに〝将来のために貯蓄〟〝成り上がりたい〟と書いた。
「いいテーマだと思います。タツヤさんは、自分とご家族の未来のために貯蓄をしたい。キムラさんはビジネスで成功したい。素晴らしいです」
 眼鏡を指で押し上げる。
「実を言うと、私もそうなんです。最初は家族を助けたいと思って始めました」
 二人の目を見て、いったん微笑む。
「でも今は、もっと具体的になって、祖母の店を再開させるのが夢なんです」
「おばあさん、お店をされてるんですか?」
 タツヤが聞いた。
「ええ。長い間、喫茶店を営んでいたんですけど、一昨年に経営不振で畳んでしまいました」
 真瑠子が答える。
「会社勤めやアルバイトなら難しいかもしれませんが、この仕事ならそれもできるんじゃないかと考えたんです」
 視線を彼らの後ろにいる丹川谷に飛ばした。
「ちなみに、後ろに立っている丹川谷さんは、グループでひと月に百台近くを売り上げて、毎月の収入が七桁に乗ってるって、なんか腹が立ちますよね? あんなにチャラついた格好をしてるのに」
 一斉に三人が後ろを振り返った。
 丹川谷は腕を組んだまま笑っている。
「七桁……」
 キムラが小さく呟いた。
「お金が稼げるということのほかに、このビジネスにはもう一つ大きな魅力があります」
 真瑠子は言いながら、ホワイトボードに、〝成功の方法〟と書いた。
「このビジネスの大きな特徴は、システム上、下の人が成功体験を積まないと自分も成功しない、という点にあると思います。私はだからこそ、〝大事な友人〟ほど誘いたいと思いました。本気でその人の成功を応援できるからです」
 ケンジは何度も深く頷いて、タツヤの顔を見る。
「丹川谷さんのように、ゴールドになる人の下には、成功したいと願ってがんばる人がたくさんいます。もちろん私もその一人です。私の成功が丹川谷さんの成功に繋がります。だから丹川谷さんは私のことを褒めてくれるわけです。説明が上手、とか笑顔がいい、とか。そうすると単純な私はそれだけで張り切る。私の収入は増えるし、丹川谷さんの儲けも増える」
 丹川谷が苦笑まじりに頭をかいている。その様子を見てケンジとタツヤが笑みを漏らした。
 対照的にキムラは表情を曇らせている。
「それって、上の人に搾取されるってことですか?」
 キムラが発言した。
「いえ、そうではありません。搾取とは直接生産者を必要労働時間以上に働かせ、そこから発生する剰余労働の生産物を無償で取得すること、と辞書にもあります。まず、私は必要以上に働かされているわけではありません。自分がやりたいから、こうしてスポンサリングやセミナーを担当しています」
 真瑠子はにっこり微笑んだ。
「そして丹川谷さんは無償で収入を得ているわけでもありません。ノウハウを提供し、サポートもしてくれます。結果的に私はお金を稼ぐことができ、丹川谷さんには権利収入が入る、というのが私たちの関係なのです。至って正当なビジネスのやりとりだと思いませんか? 誤解を招きやすいところなのでもう一度言いますが、ダウンの幸せが、自分の幸せに繋がるということを私はお伝えしたいのです。人を応援することが自分の利益に直結する。こんなに素晴らしいビジネスが他にあるでしょうか」
 真瑠子はキムラとタツヤの顔をしっかり見た。このセリフを口にする時が一番気持ちいい。
「だからこそ、このビジネスの良さをわかってもらうために、気をつけなくてはいけないことがあります。それは〝伝え方〟です。そこを間違えてしまうと、〝ねずみ講〟などと誤った理解をされてしまいます」
 腫れぼったいまぶたを持った、キムラの目が見開かれた。「そうだそうだ」と言わんばかりに大きく頷いている。
「タツヤさんだって、キムラさんだって、最初は疑いませんでしたか? これ、怪しいやつやろ? ヤバいんちゃうんか? って」
 二人とも口を結んでいる。
 真瑠子はホワイトボードに〝ねずみ講〟〝マルチ〟と書いた。
「では、ねずみ講とマルチ・レベル・マーケティングの違い、って明確に説明できますか?」
 二人の顔を見ながら、質問をする。
 タツヤとキムラは視線を泳がせている。
 タツヤへは真瑠子が昨日、説明をした。キムラだって丹川谷から電話で説明を受けているはずだ。
 真瑠子が〝明確に〟とつけ加えたことで、話すことを躊躇しているのだろう。
 ケンジが口を開いた。
「ねずみ講は〝無限連鎖講〟といって、商品などの流通がなく、お金だけが流通する仕組みで、違法です。一方、マルチ・レベル・マーケティングとは、〝連鎖販売取引〟。商品がきちんと流通する仕組みのことで合法です」
 まるで録音された音声のように、淀みなく言葉にした。
 この説明はとにかくまる覚えしろ、と先日ケンジにしつこく伝えていた。よくできました、と心の中で褒める。
「お二人のテーマは、言わば人生の〝夢〟ですが、法律を犯してまでは追いかけられないですよね? でもどうでしょうか。正当なやり方でそれが叶うのならば、素晴らしいことだと思いませんか」
 真瑠子は二人の目をしっかり見る。
「私もこの話を聞いた時に思いました。これが合法のビジネスなのであれば、ぜひ参加したい、って。一部の高給取りならともかく、普通の人は生活に必死で、夢を追いかけるなんてこと、なかなか難しいですよね」
 今日のセミナーの要はここだ。
「例えば、タツヤさんがこのビジネスを始めて、半年後にHTFから入金が百万円あったとします。現に丹川谷さんは六ヶ月でそれを達成していますし、決して不可能なことじゃありません。そうしたら、そのお金をどうしたいですか? 全部貯金しますか?」
 自分の話として、具体的にイメージさせることが大切だ。
 タツヤが首をかしげる。しばらくして、口を開いた。
「そう……ですね。僕の手元に百万円……。まずは、やっぱり嫁さんに現金で手渡したいですね」
「おお~! さすがタツヤや」
 ケンジが感嘆の言葉を挟み、場を盛り上げる。
「その後、二人で使い道を考えたいですね。欲しいものを一つずつ買うて、後は貯金して、とか」
「その百万円が、次の月も入金されたらどうですか?」
「え? 次の月もですか?」
「ええ。そうですよ。今からタツヤさんが始めるのは、宝くじじゃないんです。ビジネスなんですよ。だから一回限りの臨時収入ということにはなりません」
 ケンジが大きく頷く。隣のキムラも、自分の成功に思いを馳せているようだ。心なしか目が潤んでいるように見える。
「……ほんなら、今の仕事、辞めてしまうかもしれません」
 タツヤの仕事は宅配便会社のドライバーで、妻はテレフォンアポインターのパートをしている。昨日の話では、妻はその仕事が苦痛で仕方がないのだが、時給が良いので我慢して続けているといった。
「嫁さんにも、嫌なパートを辞めて家でゆっくりしてもらえるし……」
 ケンジがタツヤの言葉を聞いて目を細めた。
「いいですね。それがタツヤさんの〝夢〟ですよ。HTFをやるにあたっての目標です。まずは百万円の現金を奥様に手渡して、安心してもらう。タツヤさんはドライバーの仕事を辞めることができる。奥様にもパートを辞めて家でゆっくりしてもらえる。お互い好きなものを買って二人で幸せになれる」
 具体的に思い描けるように、タツヤの夢を改めてまとめた。
「では、テーマが決まったところで、今度はそれを実現させるための〝具体的な方法〟について考えていきましょう」
 真瑠子はペンを持ち、ホワイトボードに新たな書き込みを始めた。
〝リストアップとは……〟



「え? そっか。ケンジくんって真瑠ちゃんの下やないんか」
 スタートアップセミナーを受講した三人が帰った後、広いダイニングで丹川谷が真瑠子に言った。
「はい……。実はそうなんです」
(やっぱり。丹川谷さん、気づいてなかったんか)
 丹川谷がばつの悪そうな顔をした。
 ケンジは真瑠子の下ではない。だが、丹川谷の下ではある。
 以前、丹川谷が心斎橋の貸し会議室で実施したセミナーで、真瑠子はスポンサリングのスピーカーを務めた。その時に入会したのがケンジだった。
 だから、ケンジは真瑠子を頼ってきたのだが、実のところ彼がいくらがんばったところで、真瑠子の実績にはならない。
 だが、丹川谷の実績にはなる。
「ごめんな真瑠ちゃん。熱心に面倒見たってるから、てっきり真瑠ちゃんの下かと勘違いしてたわ」
 吸い込まれそうな深いブルーの冷蔵庫を開け、丹川谷は真瑠子に缶ビールを手渡した。
 緑の缶はハイネケンで、プルトップを引くと、クワッと澄ました音が響いた。こぼれ出た泡に慌てて口をつける。
「ちょっと整理しよか」
 丹川谷はアイランドキッチンの横に立てかけられていた、白い大きめのポスターフレームを持ち出した。ポスターは入っておらず、丹川谷グループの全体像がポストイットを使って作成されている。
「このボード、何ヶ月も更新してなかったからな」
 丹川谷はそう言って、大きさの違う二種類のポストイットとサインペンを出してきた。
 一番上に丹川谷の名前があり、その下に丹川谷のフロントを意味する九個のポストイットが並列に貼られている。
 右端にあるのが丹川谷グループの最大ラインのフロントだ。神戸に拠点を持っており、真瑠子もたまに会う人物だ。その下にあるポストイットの数で、グループが大きいのがよくわかる。長方形はシルバーランクで、その半分の大きさは普通会員の意味だろう。
 HTFビジネスは、普通会員、シルバー、ゴールド、スーパーゴールド、シニアスーパーゴールドという五段階のランクづけがなされている。
 普通会員はゼロから十パーセント、シルバーは二十五パーセント、ゴールドは四十五パーセント、スーパーゴールドは五十二パーセント、シニアスーパーゴールドは五十七パーセントの権利が与えられている。
 昇格ルールは単純だ。
 十五万円のマットレスを購入して、推進会の申込書にサインすればビジネスの権利が生まれる。
 ビジネスメンバーになり、一人勧誘すれば二人目からは十パーセントの権利が発生する。自分から直接四名がマットレスを購入すればシルバーに昇格する。次は、自分がシルバーに昇格した上でフロントにシルバーを三名作り、かつ傘下で一ヶ月目に七百万円、二ヶ月目に一千万円の売り上げを達成するとゴールドに昇格する。
 スーパーゴールドは傘下にゴールドを三名、シニアスーパーゴールドは傘下にスーパーゴールドを三名作ることが条件となる。
 丹川谷グループは神戸ライン以外にもたくさんのポストイットが貼られており、全体で見るとかなりの大きさだ。
 一番左端にポツンと一つ貼られているポストイットがあった。〝鹿水真瑠子〟と書かれている。
「今日のケンジくんって、どこやっけ?」
 真瑠子は丹川谷の、右から三人目のフロントの下を指差した。
「ああ。こいつか。先月末のセミナーに来とったもんな。ごめんな、真瑠ちゃん。下でもないのに面倒かけて」
「いえ。私も頼られたら、つい嬉しくなってしまって」
 真瑠子は素直にそう言った。
「ここに真瑠ちゃんのフロントの名前書いて」
 真瑠子はポストイットとサインペンを受け取った。望月、小野寺ともう二名、合計四名の名前を書いた。
 小野寺は、真瑠子がたまにやっていたティッシュ配りの日払いバイトで数回一緒に働いたことのある中年男性である。
 彼も最初はビジネスに興味を持っていた。だが、何人目かで声をかけた人にきつく断られ、すっかり意気消沈してしまった。
 小野寺以外の三人は丹川谷がAさん役となり、スポンサリングをしてもらった。
「他に何台か出たんはユーザーだけやもんな。この四人のうち、生きてんの望月だけ?」
 少し考えて「そうですね」と鈍い返事をした。
 ユーザーとはカイミン・ツーを購入しただけでビジネスをしていない人を指す。
「他の三人はまったく?」
 丹川谷の言葉に黙り込んでしまった。
「そしたらあれやな。まずは、近いうちに望月と俺と真瑠ちゃんの三人で一回ミーティングしよう。今週中」
 丹川谷はペンを置いた。飲みかけのハイネケンに手を伸ばす。
「後はどっか繋がりそうなんないの? 一緒にリストアップしなおそか」
「そうですよね……」
 言いながら、百も承知なんだよな、と思う。
 自分が一番よくわかっている。
 ──リストアップとは、人脈の棚卸しをするものだよ。
 丹川谷にそう教えられ、真瑠子もスタートアップセミナーではそう言っている。
 しかし、友人や知り合いの少ない真瑠子には、その棚卸しが難しい。名前を書き出しても、ものの数分で終わってしまう。ノートは一ページも埋まらない。おまけに数少ない友人たちにはHTFについてほんのちょっと話しただけで、拒絶反応を示された。その後真瑠子は彼女たちに連絡を取ることすら怖くなっている始末だ。
 一方、勉強を重ねた結果、プレゼン力はメキメキと上がっている。
 調子よく喋り、理想ばかりを並べて悦に入っていた。しかし、実のところは自分のグループがさっぱり伸びていない。棚卸しもできず、フロントがこれ以上増える可能性は低いだろう。嫌なことには目を瞑り先延ばしにする悪い癖が、如実に結果に影響を及ぼしていた。
 携帯電話とシステム手帳をチェックするためにリビングへ戻った。バッグの中から携帯を取り出す。受信したメッセージのポップアップが目に入った。
 珍しく、小野寺からだった。一人、紹介したい人がいるという。
 真瑠子はすぐに、スポンサリングの日を決めましょうと返事を打った。
 新規アポイントが入ったことで少し気持ちが軽くなる。携帯と手帳片手に、弾むようにダイニングへと戻った。
 丹川谷は誰かと電話をしている。
 真瑠子は飲みかけのハイネケンに口をつけた。
 空腹で飲んだせいか、少し酔ってきたような気がした。丹川谷の話し声が、心地よく頭に響いてくる。
 丹川谷は甘い、滑らかな声で話す。
 初めて丹川谷のプレゼンを聞いたのは、バイト先のスタジオで声をかけられて参加したHTFのセミナーだった。派手な外見と声質のギャップに気をとられ、内容がしばらく頭に入ってこなかった。
 何より特徴的なのはリズムだ。
 バンドを長くやっているせいだろう。長い話なのに、時間を一切感じさせなかった。
 聞かせどころはゆっくりと。流すところは手際よく。緩急のつけ方が抜群にうまいのだと、今の真瑠子なら丹川谷の技術を説明できる。しかし当時はそんなことなどわからず、まるで魔法にかけられたかのように我を忘れて聞き入った。
 ひと通り説明を終えた後、丹川谷が真瑠子に聞いた。
 ──鹿水さん、夢ってありますか?
 すごくシンプルで、ストレートな質問だった。
 夢──。
 生まれてからこれまで幾度となく問われてきた、得体の知れないものだ。
 ──真瑠ちゃん、将来何になりたいの?
 ──やりたいことある?
 ──夢に向かって努力してる?
 問われるたびに沈黙してきた。答えようにも「夢」が明確なイメージを持ったことがないからだ。
 なんとなく生きてきた。
 好きなことも得意なことも特に見つからない。周りの人たちはそんな真瑠子に危惧を覚え、夢を持つようにけしかけてきた。しかし真瑠子はそんな自分のままでいいと思っていた。
 誰かに褒められたり、注目されたこともない。
 四歳上の姉の真莉は幼い頃から賢かった。いつもみんなに褒められた。その結果彼女はアメリカに留学し、今もそのままロサンゼルスに住み、仕事を持って活躍している。
 妹の真亜紗は、幼い頃から素直で愛らしかった。みんながそれを褒めた。その結果、彼女は早々に将来の夢を「いい人との結婚」と定め、日々未来の夫探しに邁進している。
 姉と妹は、周囲の声があったおかげで自分が何者かを知ることができた。賢い自分。愛らしい自分。だからこそ進むべき道が開かれ、夢を見つけることができたのだ。
 夢を持つにも資格が必要だ。
 周囲に認められる、という資格が──。
 ──夢……ですか?
 真瑠子は言った。
 ──漠然とした聞き方じゃ想像しにくいかな。十年後、自分はどうなっていたいですか?
 丹川谷の問いに真瑠子は黙った。
 ──僕はね、経済的に潤っていたいし、時間的にも潤っていたいと思ったんですよ。
 ──時間的な潤い?
 真瑠子はそのまま聞き返した。
 ──はい。鹿水さん、お金、って欲しいですよね。でもお金だけあっても、人生は幸せではない気がしませんか?
 真瑠子は頷いた。
 ──そりゃあ、ほとんどの幸せはお金で買えるかもしれないですけど、それを有意義に使う時間がなかったら、幸せを深く感じられないですよね。僕は経済的な潤いと時間的な潤いの、この二つをどちらも欲しいと思っているんです。
 心地よい声で丹川谷は続けた。
 ──例えば僕がサラリーマンだとしたら、ある程度の収入できっと頭打ちです。もしかすると嫌な上司の下で、自分の可能性を見失ってしまうかもしれない。だけどこのHTFビジネスは、自分の可能性を思う存分試すことができます。しかもシステム的には、自分が誘った大事な人が成功して、初めて自分も成功できるんですよ。
 ──一緒に、ということですか?
 ──ええ。自分だけが成功するということはありえないシステムなんです。だからね、これから僕がもっともっと成功したかったら、鹿水さんにも成功してもらわなければならないんです。人を応援することが自分の幸せにもなる。いい仕事だと思いませんか?
 丹川谷は優しい顔をして真瑠子の目を見た。
〝人を応援することが自分の幸せにもなる〟
 その言葉は、真瑠子の心に響いた。
 誰かの役に立つことが、自分の存在を確かなものにする気がした。
 その時、自分に足りていなかったピースがはまったのだ。
「ごめんね。どう? 望月に連絡してみた?」
(しまった)
 あれこれ考えているうちに、望月への連絡がまだだったことに気がつく。
「すみません。今からです。でも、小野寺さんが一人紹介したいって言ってます」
 真瑠子は丹川谷に報告した。
「よかった。いつ?」
「連絡待ちです。すぐに会いたいって連絡しました」
「オッケー。決まったら教えて。都合つけば俺も一緒に行くわ」
 インターホンが鳴った。
 丹川谷は壁のモニター画面を覗き込み、開錠ボタンを押した。
 しばらくして玄関先で音がした。真瑠子が向かうと、そこに立っていたのは丹川谷の神戸系列のメンバーだった。
「こんばんは。真瑠さんお疲れさまです~」
「丹川谷さんの秘蔵っ子はさすがにいつもいますね」
 彼らは軽口を叩きながら、リビングに入っていった。
 ビールを飲み始めたので、てっきり今日の仕事は終わったのかと思っていたが、まだミーティングは続くようだった。
 他グループのミーティングだが、真瑠子はそのまま残り、勉強のために聞くことにした。
 ネットワークビジネスでは、勉強会やセミナーにできるだけ参加した方が理解が深まり、成功への近道となる。実際に、丹川谷の話にはいつも気づかされることが多い。
 真瑠子が忘れられない言葉があった。
 ──真瑠ちゃん、ジャンプをする前には、一度屈まないと大きく飛べないんだよ。
 しばらくミーティングを聞いていると、スーパーゴールド、滝瀬神のことに話題が移った。近々大阪にやってくる予定だという。
 HTFのカリスマに会えるかもしれないと、皆の声には興奮が滲んでいる。
「滝瀬さんて、傘下人数は一万人超えてるんやろ」
「一万人? まじですごいな」
「今月の『月刊マルチ・レベル・マーケティング』に載ってたわ」
「それ、これやろ」
 メンバーの一人が鞄から雑誌を取り出した。真瑠子は思わず身を乗り出す。
「見せてもらってもいいですか?」
 緩いパーマヘアに通った鼻筋は、一見するとモデルか俳優のように華がある。こちらを見据える眼差しは真っすぐで、名前に違わず〝神〟のような雰囲気を湛えている。
(かっこいい)
 何度も噂に聞いていた、あの滝瀬神が大阪にやってくるのだ。意図せず真瑠子の顔は綻んだ。
「真瑠さん、何笑ってるんすか」
 メンバーの一人に突っ込まれた。
「え。あ。いえ……」
 笑顔を引っ込めた。
(あかんあかん。まだビールの酔いが残ってるんやろか)
 真瑠子は雑誌から顔を離して背筋を伸ばした。
「あれ? 真瑠ちゃん終電大丈夫?」
 丹川谷の問いかけに、ハッと我に返った。
 時計を見ると二十三時を過ぎている。
(やばい。パパに殺される)
 真瑠子は追い立てられるように携帯と手帳をバッグに放り込むと、挨拶もそこそこに丹川谷のマンションを後にした。



 吹き上げてくる風が前髪を勢いよく乱す。階段を駆け下りて地下鉄心斎橋駅のホームへと急いだ。
 瞬きを繰り返し、乾いた目をなだめながら改札口を抜ける。
(なんではよ気がつかんねん)
 真瑠子は乗り込んだ地下鉄の中で、自分の不注意に呆れていた。
 今日の午後、心斎橋駅に着いた時には、今夜は終電より三十分早い電車で帰ろうと決めていたのに、つい時間を忘れてしまった。終電だと、自宅の最寄駅である藤江に到着するのが午前零時を回ってしまう。
 二十歳を越えて二十一時の門限からは解放されたが、さすがに深夜の帰宅が続くと父親に嫌味を言われる。
 晩酌中に遭遇したら最悪だ。アルコールの勢いを借りた父の小言を二十分は浴び続けることになる。また姉のことを持ち出されて、比べられるのだ。
 姉の真莉はカリフォルニアの大学で環境学を学び、エコロジー関連の会社に就職した。
 素晴らしくできの良い姉は、中学の卒業式で海外の大学に進学したいと宣言した。高校に入学すると勉強とバイトを両立させ、遊びも我慢してお金を貯めた。両親自慢の娘だ。
 だが真莉の強い意志は、鹿水家の経済状況を逼迫させた。当時のことは詳しく聞かされていないのでわからないが、父の事業の失敗も重なり、夜になるといつも食卓で家計簿とにらめっこしていた母の姿を覚えている。
 それを見ていた真瑠子は、進学をあきらめた。いや、あきらめた、というと語弊がある。大学に行ってやりたいことがあったわけではないので、たとえお金があったとしても進学はしなかったかもしれない。
 だから姉の留学を恨むことはなかった。妹の真亜紗は昔から勉強が嫌いだったので、はなから進学の意志はなかった。
 卒業後は兵庫県内に数店舗を構えるスーパーに就職し、事務員の職を得た。だがわずか一年でやめてしまった。
 原因は人間関係だった。愛想がない。その一点が理由で先輩社員にいじめられた。出社しても挨拶がない、お客様へのお茶出しの時に仏頂面だった、電話対応がぶっきらぼうすぎる。あることないことを上司や周りに吹聴され、ジメジメと陰湿にやられた。人づき合いが苦手なのは確かだが、仕事さえきっちりこなしていたら問題はないはず。そう思い続けたが、攻撃は一向に止む気配がなく、音を上げてしまった。
 その後、自宅で何もせずにいた真瑠子を祖母は何度も鼓舞してくれた。
 ──真瑠子。いつまでもそんなことをしてたら、腐ってまうで。
 勇気を出して、再び就いたのが音楽スタジオでの仕事だった。そのスタジオで丹川谷と出会ったのだ。
 丹川谷にHTFに誘われ、ネットワークビジネスに参加することで真瑠子は変わった。
 それまで、家族にさえ、自分を認めてもらえていないと感じていた。
 だがHTFでは真瑠子の行い、一つ一つを見守り、褒めてくれる。
 自分の居場所を、そこに見つけた。
 HTFでなら、輝ける。
 自分も、丹川谷のようにゴールドになりたい。
 ゴールドになって、お金も欲しい。
 そう思ってこの四ヶ月間がんばってきた、はずだった。しかし現実は真瑠子がスポンサリングで語る夢のようにはうまくいかない。
 最初にアプローチした望月こそイエスをくれたものの、その後に声をかけた高校時代の友人からはことごとくノーを浴びせられた。丹川谷の助けもあり、なんとか四人のフロントを抱えシルバーに昇格したのが先月のこと。しかし売り上げはゴールドを目指すには程遠い。
 昇格条件である一ヶ月目に七百万円、二ヶ月目に一千万円の売り上げをカイミン・ツーの台数に換算してみると、一ヶ月目は四十七台、二ヶ月目は六十七台となる。
 先月の売り上げが五台だった真瑠子にとって、途方もない数字だ。
(自己満足で人のグループなんか手伝ってる場合か。自分のグループを動かさな、なんにも始まらんやん。アホか)
 真瑠子は自分に毒づいた。
 地下鉄御堂筋線梅田駅に到着した。
 地上に出て、歩いてJR大阪駅の改札を抜ける。ここで走らないと明石駅まで約四十分間立ちっぱなしになる。真瑠子は母に借りているヴィトンのトートバッグを小脇に抱え、懸命に走った。
 姫路行きの新快速にギリギリ滑り込んだ。かろうじて空いていた席を確保する。膝の上に置いたバッグから携帯電話を取り出した。
 二件のメッセージが入っていた。
 一人は小野寺だった。
〈鹿水さんお疲れさまです。明日、午後2時にホテル日航大阪1階のカフェでお願いします〉
 もう一人は望月だ。
〈お疲れさまです。今週日曜の夜なら大丈夫です〉
 最後に丹川谷から、
〈今日もバタバタでした。望月くんとのミーティング、日程候補でたら連絡ください。帰り道気をつけて!〉
 その後に、丹川谷がよく使う犬がギターを弾いているスタンプが貼られていた。
 丹川谷はいつもまめで、こういったフォローを欠かさない人物だ。
 だからこそグループも大きくなって、別のグループのメンバーでさえ、彼の周りに集まるのだろう。
 明日の予定と望月とのミーティング日程を丹川谷に連絡して、携帯をバッグの中に放り込んだ。

 自宅に着いたのは、日付が変わって三十分以上も過ぎた時刻だった。
 音を立てないように、鍵穴にそっと鍵を差し込む。どれだけ慎重に回しても、ガチャリという金属音が響いてしまう。
 ゆっくり鍵を抜くと、ドアノブをさらに慎重に回して手前に引く。
(よかった。チェーンはかかってない)
 自分の体が通るくらいの隙間を作った。
 二十四時を過ぎると、チェーンをかけられてしまうことが時々あった。父の虫の居所が悪いとそんな憂き目にあう。仕方なく、妹に電話をかけてチェーンを外してもらうことになる。
 真瑠子は玄関にそっと体を滑り込ませた。音を殺して握ったままのドアノブをゆっくりと元に戻し、扉を閉めた。内側から施錠をし、チェーンをかける。
(オッケー)
 靴を脱ぎ、リビングに通じる扉を開ける。すり足で通り過ぎようとした時、キッチンに突然明かりがついた。
「なんや、真瑠子」
 一番聞きたくなかった父親の声だった。
 起きたばかりで掠れた、機嫌の悪い声。
「今、帰ったんか」
 真瑠子は口を尖らせて、「うん」と頷いた。
「遅いやないか。何してんねん、毎日毎日」
「ちょっと仕事のミーティングが長引いて……」
 父は胸元をパジャマごしに掻きながら冷蔵庫に向かう。扉を開けてウォーターポットの水をコップに注いだ。
 眉間に深いしわを寄せている。
「こんな時間まで女の子を拘束するなんて非常識やろ。そこの紙に上司の名前と電話番号書きなさい。パパが明日、電話して言うたるから」
「い、いや。大丈夫」
 前にも一度、仕事場の連絡先を書け、いや書かないの騒ぎになった。
「何が大丈夫やねん! 何回も何回もおかしいやろ!」
 太い声に、真瑠子はびくりと体を縮めた。
 父の背後にパジャマ姿の母が見えた。横に回って父の肩に手を置く。
「パパ、明日にしときいな。あんまり大きい声出したら、真亜紗が起きるわ。あの子は明日も早いのに。パパもはよ寝な、早いの一緒やろ。真瑠子には私が言うとくから」
 父は眉間に刻んだ深い線を解くことなく、母の方を向いて「ああ」と言った。
 寝室へと体を向けた時に、
「真莉は絶対にこんなことなかったのに」
 と父が呟いた。
 真瑠子は、思わず刺すような視線で父を見てしまった。一番言われたくない言葉だ。
「パパ!」
 咎めるような口調で、母が言う。
 父は肩をすくめながら寝室へと戻っていった。
 母が小さなため息をついた後、真瑠子を振り返る。
「ほんで真瑠子、晩ご飯食べたん? ハンバーグ残してあるで」
「ミーティングしながらちょっとつまんだけど、ちゃんとは食べてない」
 肩に掛けたままのトートバッグをテーブルの上に置き、母の横から冷蔵庫の中を覗いた。ラップがかけられた楕円形の白い皿の上には、ブロッコリーの鮮やかな緑色と、ハンバーグのデミグラスソースの茶色が見えた。
「パパも心配して言うてるんやからな。あんたも、もうちょっとはよ帰ってき」
 ハンバーグの皿を持ちながら「うん」と殊勝に答える。
 母がコンロに火をつけ鍋を温める。蓋を開けた途端、味噌汁の匂いがした。
 真瑠子はその間にご飯を装い、レンジでハンバーグを温めた。トレーの上にハンバーグの皿とご飯と箸、母から手渡された味噌汁の椀を載せた。
「ほんなら、食べたらはよ寝や」
 あくびを噛み殺して、母は寝室へと戻っていった。
(真莉姉、真莉姉……。一生、比べられんのかな)
 真瑠子は両親の寝室の方をじっと見つめた。
 肩にバッグを掛け直し、注意深くトレーを持つと、二階への階段を上がっていった。



 金曜日の心斎橋を歩く人たちは、どこか浮ついた雰囲気を出している。
 真瑠子は約束の時間より早めに、ホテル日航大阪一階のティーラウンジに着いた。話しやすい席を確保するためだ。
 手元の携帯を見ると、妹の真亜紗からメッセージが入っていた。
 真亜紗は淀屋橋の食品会社で事務員をしている。今は仕事中のはずだが、休憩時間なのだろう。

 真亜紗〈昨日、パパまたオコやった?〉

 真瑠子は指を素早く動かして返事を打つ。

 真瑠子〈また鉢合わせてしもた〉
 真亜紗〈昨日、阪神負けて機嫌悪かったからな〉
 真瑠子〈とばっちりかいな〉
 真亜紗〈それはちゃう。ねーちゃんが毎日遅いからや〉
 真瑠子〈うん。ちょっと忙しなってもうてな〉
 真亜紗〈でもマジで、最近遅すぎひん? からだ壊すで〉
 真瑠子〈せやな。がんばってはよ帰るわ〉
 真亜紗〈ばあちゃん昨日の夜、家に来てんで。真瑠ねーちゃんのこと心配しとったで〉
 真瑠子〈まじかー(泣)ばあちゃんに会いたかった〉

 携帯をバッグに放り込んだ。ラウンジの入り口にある細いミラーで自分の全身を確認する。
 案内にきたホールスタッフに窓際の奥の席を指定した。
 空いていてよかった。あの席なら気兼ねなく話せるだろう。大切な新規アポイントの日に店員の白い目を浴びたくなかった。
 丹川谷からは、今日は神戸に行かねばならず、来られないと連絡をもらっていた。
 席に着いてホットカフェオレをオーダーした。
 携帯電話を取り出し、小野寺に奥の席へついたとメッセージを送った。
 すぐに小野寺から、メッセージではなく電話がかかってきた。真瑠子は立ち上がり、店の入り口の方へ向かいながら通話ボタンに指をスライドさせた。
「お疲れさまです」
 口の前に手を当てて、小声で話した。
 ──もしもし鹿水さん、ほんまごめん。突然なんやけど、わし、今日行かれへんようになってしもて。
「え? どうゆうことですか?」
 ──すんません。別の仕事でトラブルが起きてちょっと抜けられへんようになって。それでさっき、今日紹介するつもりの竹田くんに連絡してんけど。
(キャンセルか……)
 やっぱりなと真瑠子は口惜しい気持ちでいっぱいになった。
 突然入ったアポは、突然キャンセルされる。何度も経験してきたことだ。
 ──そしたらもう心斎橋におるって言うし。竹田くんはわしが同席せんでも、話が聞きたい、って。
「一人でですか?」
 ──うん。そうやねん。竹田くんは大丈夫の一点張りで。マイウェイやってる子やから話も早いと思いますわ。
(ABC方式も何もあったもんじゃないな)
 真瑠子はため息をついた。
「わかりました。じゃあ、その竹田くんの連絡先聞いていいですか?」
 ──電話切ったらすぐにメッセージで送るわ。ほんまごめんやで。
 真瑠子は電話を切り、突っ立ったまま考え込んだ。
 マイウェイとはアメリカ発祥の、ネットワークビジネス業界最大手の企業だ。洗剤を始め、鍋や浄水器、化粧品など、ありとあらゆる日用品を扱っている。
 マイウェイをやっている人。これは考えようによっては千載一遇のチャンスかもしれない。その竹田くんがどれだけの規模でビジネスをやっているのかわからないが、グループごとこちらに来てくれたとしたら……。
 一気にグループメンバーを増やせるかもしれないのだ。しかも経験者なら呑み込みも早いだろう。真瑠子が手取り足取り教えなくても、自らグループを伸ばしてくれる可能性もある。そうなれば夢のゴールドも見えてくる。
(でも、そんなおいしい話、あるわけないか)
 真瑠子は緩みかけた頬を引き締める。
 ネットワークビジネス同士の引き抜きはよく聞く話だ。傘下を伸ばしている人に「こちらの方がずっと稼げる」と甘い言葉をかけるのだ。グループ拡大で自信をつけている誘われた側は、新天地での更なる収入増を夢見て移籍する。
 ミイラとりがミイラにならないよう、用心しなければならない。
(ま、私は傘下が少ないからその心配はないかもしれへんけど)
 自分への突っ込みが虚しい。
 真瑠子は席に戻る途中、先ほどテーブルに来たホールスタッフに声をかけ、三人ではなく二人になったと伝えた。
 席につくと、程なく小野寺からのメッセージが届いた。
〈名前と連絡先です。天パで細身の子です。鹿水さんの特徴も話してあります。
 竹田昌治くん、25歳。TEL/080―××××―××××
 日航ホテルに着いたら、鹿水さんに電話するそうです〉
 携帯電話を見つめて考える。
(私の特徴って……。何を伝えたんやろか)
 液晶の右上に表示された時刻は13:46。後十分もすれば、竹田から電話がかかってくるはずだ。マナーモードにしている携帯電話を、カフェオレのカップの横に置いた。
 小さく深呼吸する。
 御堂筋を行き交う人たちを眺めながら、持ち手まで丁寧に温められている大きめの白いカップを持ち上げた。
 こぼれそうなほど盛られたキメの細かい泡を唇で受け止める。少し気持ちが落ち着いた。
 一人でも話を聞きに来るくらいだから、やる気に満ちた人に違いない。いつも通りスポンサリングできれば興味を持ってくれるはずだ。
 もし、逆勧誘を受けるような局面になったら、適当に話を切り上げて撤退しよう。
 視線を液晶画面に落として、電話の有無を確認していると、左手に影を感じた。顔を上げると目の前に、ブルーグレーの作業着姿の、巻き毛の青年が立っていた。
 汚れてくすんだ作業着は、このスタイリッシュなカフェに不釣り合いだった。
 上着の胸ポケットにはボールペンが何本も挿さっている。そのポケットの下部分には、ペンのインクが漏れたのであろう、不揃いなシミが柄のように広がっている。
「あの、鹿水さんですよね」
 掠れてはいるが、芯のある聞きやすい声だった。
「竹田です」
 真瑠子は椅子を引いて立ち上がろうとした。
「いやいや。そのままで大丈夫です。すんません、電話鳴らそうと思たんですけど、黒髪のおかっぱで、はと胸Dカップの人、って聞いてたんで」
(なんじゃそれは)
 真瑠子は小野寺の自分評に憤りを覚えた。
(おかっぱやなくてショートボブや。ほんで胸の話はいらんねん。デリカシーなさすぎやぞ、小野寺)
 不満げな真瑠子をよそに、竹田はぎこちない笑顔で、こちらをしげしげと見ている。
(小野寺のあほ)
 バストが大きいことは体が成長してきた時からのコンプレックスだ。そんなところに注目されていたのかと思うと恥ずかしさで帰りたくなる。
「奥に座ってるとも聞いたし、多分ここにいはるんが鹿水さんやと思て。びっくりさせてすいません。今日はお世話になります」
「初めまして。鹿水です」
 気を落ち着かせて真瑠子も名乗る。竹田はペコリと頭を下げて、向かいの席に腰を下ろした。
 改めて竹田を観察する。立っている時はわからなかったが、正面から見ると、右のまぶたが膨らんで腫れている。
 目の横の傷が生々しい。
「あの、傷……どうしはったんですか」
 思わず聞いてしまった。
 真瑠子は自分の右目の横を、指でなぞった。
「え? あ、すいません。昨日ちょっといざこざがあって」
「いざこざ……ですか?」
 喧嘩だろうか。竹田が一瞬にして不穏な人物に見えてくる。
 おとなしそうな雰囲気だが、キレたら手がつけられないほど怖いとか。こう見えて女にめっぽうだらしなくて、痴話喧嘩で物でもぶつけられたとか……。
「今日はわざわざ、ありがとうございます」
 真瑠子の思惑をよそに、竹田が丁寧に言った。
 聞けば、竹田は小野寺が最近入社した、金属加工会社の社員なのだという。
「ところで、会社は副業オッケーなんですか? 小野寺さんからマイウェイもやっていると聞きましたけど」
 真瑠子はストレートに質問をぶつけてみた。
 同じネットワークビジネスに身を置く人間同士なら、あれこれ画策するよりも、ストレートに話した方が手っ取り早いと考えたからだ。
 竹田は「はい」と言って頷いた。
「推奨されてるわけじゃないんですけど、社長は会社の仕事さえちゃんとやってくれたら何も言わん、って考え方ですね。給料がそんなに高いわけでもないし、ボーナスは雀の涙ほどしか出ませんから」
 竹田の言葉に真瑠子は頷く。
「マイウェイは正直、すごいビジネスやと思っています。俺らみたいなもんでもチャンスをもらえる。でも、やり始めて三年経ちました。今は自分のグループが大きくなって、いろいろと考えている時期でもあります」
 自分のグループが大きくなって?
 竹田の顔を期待を込めてまじまじと見る。この人が本当にそんなに大きなグループを持っているのか? そしてその傘下ごと、HTFに移籍することを考えているというのか?
 真瑠子は浮き足立つ心を宥めながら質問を重ねた。
「HTFの話を聞きたいって、小野寺さんに言ったとか」
「そうなんですよ。小野寺さんをマイウェイに誘おうとしたら、逆にもっといいのがある、と言わはって」
 竹田はまたもぎこちない笑顔を見せた。
「名前だけは知ってたんですけど、内容は知らんかったから、聞かせてもらえたらと思って。ぶっちゃけ言うと、ここんとこ、何社かマルチの話を聞かせてもらってます」
 あんまりあけすけに話をするので、真瑠子の気持ちはかえって楽になった。
 なるほど。竹田は傘下を引き連れて新天地で一旗あげようとしている。彼を射止められるかどうかは、自分のスポンサリング次第──。
(こっちも真っ向から勝負していかなあかんな)
 真瑠子はいつものように左手首の腕時計で時間を確認する。トートバッグから赤い眼鏡、パンフレットとノート、水性ボールペンのスポンサリングセットを取り出した。
 よし。いったろ。
「ではまず商品から──」



 空を見上げると、小さな雨粒が風と一緒に舞っていた。
 家から藤江駅までのわずかな距離を歩く間に、傘をさしていたにもかかわらず、服はしっとりと濡れてしまった。
 いつものルートで電車を乗り換える。心斎橋駅に到着した。
 改札を抜けて大丸百貨店の化粧品売り場を通ると、華やかな香りが鼻をついた。
 昨日の竹田の反応はよくわからないものだった。最初はお互い本音をぶつけていい雰囲気だと思ったが──。
 真瑠子が話している間中、竹田の大きな目は商品パンフレットやビジネスシミュレーションの表から動かなかった。
 頷くわけでも、質問するわけでもなく、ほとんど反応をしない。
 真瑠子が会話の中でしたわずかな質問に限り、最低限の応答をしただけだった。
 なんとか最後までテンションを保ち説明し切った。
 竹田の反応を量りかねたので、とにかく次に繋げることだけを考えて、スタートアップセミナーへの参加を勧めた。連絡先を交換して丹川谷のマンションの場所と時間を伝えた。
 ──わかりました。ありがとうございました。少し考えさせてください。明日のセミナーは参加できると思います。じゃあ、時間なんでお先に失礼します。すいません。
 竹田は一方的にそう告げると、尻ポケットから財布を取り出し、自分のコーヒー代をテーブルの上に置いた。
 雨粒が頬を濡らした。
 心斎橋のアーケードから五分程歩き、丹川谷のマンションに到着した。
 今日は丹川谷が夕方まで不在だ。ポストから部屋の鍵をピックアップした。
 いつも人がいる場所が、しんと静まり返っている。
 リビングに入って電気をつけ、いつものようにスタートアップセミナーのセッティングを始める。
 竹田が参加する……はず。
 ──参加できると、思います。
「参加します」ではなく、「思います」と竹田は言った。
 携帯を確認するが、竹田からの連絡は入っていない。
 バッグからローン用紙や推進会申込書などの書類を取り出した。
 商品パンフレットが後二冊しかなかった。そういえば、来月からパンフレットは買い取りになるらしい。今までは大阪駅前第3ビルにあるHTF大阪支社で、何冊でも無料でもらえたのに、もうそれはできなくなる。
(また出費か……)
 ため息が出そうになる。
 真瑠子の場合、交通費だけで毎回相当な金額になる。最寄駅の山陽電鉄藤江駅を利用すると心斎橋までは片道で千四百十円。往復で二千八百二十円だ。
 回数券を利用してわずかながら節約を試みているが、微々たるものである。
 山陽電鉄を使わず、JRの最寄りである西明石駅まで歩くと片道千百七十円。往復で四百八十円の節約にはなるが、自宅から西明石駅までは二キロ以上の距離だ。
 現に今日、歩こうと思い立つも、雨の中を五十メートルほど進んだだけで心が折れてしまった。
 インターホンの音が聞こえた。真瑠子は気を取り直して、応答に向かう。
 暗いダイニングの中で、光を放っているインターホンのモニター画面を覗いた。
(よかった)
 真瑠子の顔が思わず綻んだ。
 そこには竹田の顔があった。背後に数名の見知らぬ男の姿が見える。
「どうぞ。十二階です」
 鍵のマークが描かれた〈開錠〉のボタンを押した。
 しばらくして、ドアホンが鳴った。真瑠子は玄関に足を向ける。扉を開けると、そこには竹田と、さっきインターホンに映っていた男たちが立っていた。
「こんにちは、鹿水さん。こいつらも聞きたい、って言うんで連れてきました。一緒にセミナー受けてもいいですよね?」
 竹田は、昨日とは打って変わって明るい表情だ。同時に、突然やってきた人数にも驚かされた。
 彼の背後には六人の男が立っていた。
(もうこんなに新規を連れてきたんや。さすがマイウェイやわ)
 浮かれそうになる心を抑える。
 竹田も含め、彼らはまだ参加するとは言っていないのだ。真瑠子は気を引き締めた。
「それではセミナーを始めさせていただきます」
 全員がソファや椅子に腰を下ろしたところで真瑠子は口火を切った。
「今日はこんなにいらっしゃるとは予想していなかったので、商品パンフレットが足りません。申しわけありませんが隣の人と一緒に──」
「鹿水さん」
 出鼻を挫くように竹田が口を開いた。
「はい……?」
「説明は大丈夫です」
 説明は不要……? ということだろうか。真瑠子の脳内でアラートが鳴った。話を聞かないというのであればセミナーにわざわざ来る必要はない。なのに竹田はここに来た。しかも仲間を六人も連れて。
 まさか──。
(ここで乱暴されて、私をマイウェイに入れようとしているとか?)
 男七人に、女一人。
(いやいやいや)
 思わず目を瞑って小さく首を振る。
 予想外の事態だったとはいえ、あまりに警戒心が薄すぎたかもしれない。
 竹田の目の横の傷がチンピラの証のように見えてきた。
 丹川谷に同席を頼むべきだった。やはり、おいしい話には裏があるのだ。真瑠子は己の迂闊さを呪った。
「鹿水さん……?」
 竹田に声をかけられて、自分の肩を手で抱いていた真瑠子は我に返った。
「はい」
 警戒を怠らず、真瑠子は答えた。
「大丈夫ですか?」
「何がですか?」
「いや、さっきから黙り込んではるんで」
「場合によっては大丈夫やないです」
「場合?」
 竹田が怪訝そうな表情を浮かべている。
(とぼけようったって、そうはいかんからな)
 騙されるわけにはいかない。HTFでゴールドになる夢を叶えるまでは。これまで応援してくれた丹川谷に恩返しするためにも。
「説明が要らないということは勧誘ですよね?」
 真瑠子は腹に力を込めて問いかけた。
「力ずくで、私をマイウェイに引き込もうとしてるんですよね」
 竹田の表情が曇る。
(ほらやっぱり。お見通しやねん)
 真瑠子はポーチの中からいつもの赤い眼鏡を取り出して装着した。七人の男たちを横目で睨みつける。
「だからこんなに大人数で乗り込んできたんですね」
 リビングを沈黙が支配する。
 男たちは顔を見合わせている。これで確定した。この男たちはマイウェイが放った刺客だ。
 真瑠子はどうやってこの難局を乗り切ればいいのかを考えた。
 丹川谷が帰宅するまでは後一時間あまり。果たして自分一人で持ち堪えられるだろうか。
 自信は……ない。とにかく丹川谷に現状を伝えなければ。携帯はパンツのポケットの中だ。手を滑らせて取り出そうとしたその時、笑い声がリビングに響いた。
 竹田だった。
「違うんです」
 腹を抱えて笑いながら竹田が言う。
「誤解させてもうたみたいですいません。いきなり大人数でこられて説明要らんなんて言われたら、そら怪しいですよね。説明が要らんのは、もう入会を決めてるからなんです」
「え?」
 真瑠子は取り出した携帯をポケットに戻した。
「昨日の鹿水さんのスポンサリング、めちゃくちゃ良かったです。説明が簡潔にして的確だし、何より熱があった」
 真瑠子の肩から力が抜けていく。
「こいつら、仕事の同僚でマイウェイの仲間でもあるんですけど。昨日の夜、HTFの話したら、みんな乗り気で」
 竹田が周りに視線を送った。男たちは頷いている。
「俺ら、鹿水さんと一緒にビジネスしたいと思ってます」
 真瑠子は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
 鹿水さん。
 一緒に。
 ビジネス。
 したい。
 竹田の一言一句が真瑠子の細胞に染み込んでくる。
 真瑠子の顔は一気に緩んだ。
 彼らは刺客じゃなくて仲間だった。
 嬉しさのあまり、膝が震える。七人の男たちの真剣な視線が真瑠子に注がれていた。
 竹田が笑みを浮かべながら言った。
「ローン用紙ください。七枚」

 真瑠子は書類に記入する男たちの会話を聞きながらキッチンでコーヒーの用意をしていた。
 紹介された六人のうち、伊地知紀人という面長の角刈りの男は、大阪弁ではないどこかの方言で話した。真瑠子がその言葉にぽかりと口を開けていると、鹿児島出身なのだと言った。
「鹿水さん、すんもはん。竹やんの顔ん傷、びっくりさせてしもうて。一昨日、僕が駅で変なやつらに絡まちょったんを竹やんが間に入って助けてくれて、あげん傷になっしもて」
 伊地知がキッチンに顔を覗かせて真瑠子に言った。
「そうなんですね。大変でしたね」
 よく見ると、伊地知も顔に軽い擦り傷を作っている。
「竹やんな決してけんかっ早か人間じゃなか。これから竹やんをよろしゅたのんます」
 伊地知は竹田と一番近い間柄のようで、まるで保護者のように真瑠子にそう言うと部屋に戻っていった。
「印鑑ちゃんと持ってきてるんやろな、お前ら」
 竹田が皆に確認しているのが聞こえてくる。
「持ってきてるわ」
 一人がすかさずその言葉に反応した。
「まさか忘れたちゆたぎな怒っど」
 伊地知が言った。
「あ。忘れた。……なーんて、嘘うそ」
 竹田がボケる。
「竹やんが一番忘れっぽいからな」
「なんでやねん」
「しゃーけど、急に昨日の夜、この話するから」
「そうそう、竹やんのいつものパターン」
「奇襲攻撃!」
「うるさいな、お前ら。早よ書けや」
 竹田が皆を窘める。
「マイウェイの時と、昨夜は全然ちゃうかったもんな」
「わかる!」
「なんか、嬉しそうに話しちょったよな~」
 伊地知がからかうように言った。
「出会いは偶然ちゃうねん、必然やねん、とか言うて」
「言うてた言うてた」
「めちゃくちゃ鹿水さんのこと褒めてたやん」
「ほんまや。あの人についていけば間違いないって」
「もうええやろ」
「竹やん、柄にもなく照れんなや」
「でも人見知りやから、そっけなく帰ってきたんやろな」
「ははははは」
 コーヒーを淹れながら真瑠子の頬は綻びっぱなしだ。なんて甘美な響きだろう。
 ──あの人についていけば間違いない。
 人生で受けた最大の賛辞に真瑠子は自分の顔が上気するのを感じた。
「決め手は何やったん?」
 誰かが疑問を挟んだ。
 それは真瑠子も気になるところだ。竹田とは昨日二時間ほど話したにすぎない。確かに、私の何が彼の心を捉えたのだろう。
「お前ら、わからんか?」
「……わからんなあ」
「おかっぱ?」
「はと胸Dカップ?」
 誰かが言った。カップをトレーに置く手に思わず力が入る。
「ちょっと──」
 皆に注意する伊地知の声が聞こえる。音が聞こえたのだろう。
 トレーにコーヒーが少しこぼれた。
(小野寺のあほ。あんたが伝えた特徴のせいではと胸Dカップ呼ばわりや)
 布巾で拭きながら毒づく。
「俺はわりかし好きやけど」
 竹田が言った。
「まあまあ、そげん話はレディに失礼やが」
 伊地知が戒める。
 真瑠子はトレーを持ってリビングに入った。
「あ。お気遣いいただいてすいません」
 竹田が頭を下げる。真瑠子は黙ってコーヒーを配った。伊地知が手伝ってくれる。
 真瑠子は空になったトレーから顔を上げて皆を見た。
「お言葉ですけど、おかっぱじゃなくて、ショートボブです。後、DカップじゃなくてEカップ」
「おお」
 数人が声をあげた。
(いらんこと言うてもた。胸の話はせんでええねん)
 息を深く吸って心を落ちつけた。
「聞こえてました……?」
 竹田が恐る恐る問うてくる。
「筒抜けでしょ。声も大きいし」
「すんません。小野寺のおっちゃんの言うてた通りやったもんで、ついみんなにそのまま話してもうて」
 竹田が言いわけのように言う。
 真瑠子は皆に向かって目を細め、とび切りの笑顔を作った。
 懐の深いところを見せなければ。
「温かいうちにどうぞ」
 コーヒーをすすめた。
「いただきます」
 竹田の言葉を合図に一同がカップに口をつけた。気まずい静けさの中、皆がコーヒーを啜る音が響く。
「ほいで竹やん、話ん決め手はないやったと?」
 場を取り繕うように伊地知が聞いた。
「そうそう、決め手な」
 竹田が慌てて助け舟に乗る。
「声や」
 意外な答えに真瑠子は身を乗り出した。
「声?」
 怒りを忘れて質問する。
「そうなんです。鹿水さんの声は、女性にしては低めです。加えてちょっとだけ掠れています。美声とは言えないかもしれへんけど、その塩梅が妙に心に残るんです」
 初めての指摘に真瑠子は戸惑った。自分の声が嫌いだったからだ。なんせ可愛さがない。どうしてもっと妹の真亜紗みたいに愛らしい声に生まれなかったのかと、何度思ったかわからない。
「人は焦りや緊張を感じると声が上擦って高くなります。それを経験値で知っているので低い声に信頼を感じやすい傾向にあるんやそうです。落ち着いた印象ですからね。もちろん低いだけなら他にもいます。鹿水さんの声には、それにハスキーというアクセントが加わっている。僕にはそれが武器やと思えました」
 可愛くはないけど印象には残る。そう言われたような気がして心中複雑だ。真瑠子は無言で先を促した。
「コミュニケーションスキルに関する研究で、メラビアンの法則というのがあります。聞いたことありますか?」
 竹田に問われ、真瑠子は首を横に振った。
「コミュニケーションを取る際、受け手が重視する情報が何かを調べたものです。それによると、会話の内容が占める割合は、わずか七パーセントやそうです」
「七パー? 話の中身は重視されん、っちゅこつ?」
 伊地知が聞いた。
「そやねん」
 竹田が答える。
「じゃあ、何が重視されるんですか?」
 真瑠子が尋ねた。
「まず第一に仕草です。影響度という指標を使いますけど、仕草、つまり視覚情報が与える影響度は五十五パーセントを占めます。視覚情報には表情や視線なども含みます。続けて重要なのが声です。影響度は三十八パーセント。声質、大きさ、速度など聴覚情報もコミュニケーションでは重視されるんです」
 竹田は淀みなく話す。
 思いがけない知識に真瑠子は驚いた。
「竹やん、よう知っちょるねえ。どこで勉強したとね?」
 伊地知も感心しながら竹田に聞いた。
「本や。このビジネスはコミュニケーションが命やからな」
 竹田の答えに一同が沸く。「さすが竹やん」「いつの間に」「えらいカッコええな」と、賛辞が飛び交った。
「──でな」
 竹田が場を静めるように言葉を発した。
「大きさとか速さとか、口調はどうにでもなる。自分で気をつければええねん。でもな、声質だけはどうにもならん。持って生まれたもんやからな。後で変えることはできひん」
 竹田は一度言葉を切ると、真瑠子に視線を合わせた。
 真瑠子はそれを正面から受け止めた。
「鹿水さんの声を聞いた時、これやと思いました。落ち着きがあって印象に残る。その上、速度や大きさも的確やった。僕の中の三十八パーセントは、声だけで説得されたと言っても過言やないと思います」
 そんなに落ち着きのある声だろうか。そんなに印象に残る声だろうか。自分の声のことは自分ではわからない。
「鹿水さんは誰も真似できない天性の才能を持っているということです。落ち着いた声であれだけの熱意を伝えられるなんて、なかなかできないことやと思います。僕はそれをこのビジネスにおける最強の武器やと思いました。ここに、訓練された最良の仕草が加わったら?」
「完璧ちゅうこつじゃ」
 伊地知が答えた。
「そやねん。内容にかかわらず、九十三パーセントの影響度を与えることができるねん」
 そう言うと、竹田が立ち上がった。
「だから俺ら、鹿水さんについていきます」
 竹田は九十度に腰を折る。残りの六人も慌てて立ち上がり、「よろしくお願いします」と声を揃えて竹田に倣った。
 急な展開に頭がついていかない。しかし体は熱くなっていた。背中に汗が滲んでいる。
 自分には天性の才能がある──。
 改めて竹田の言葉を反芻した。「あるわけない」と「あるかもしれない」。二つの思いが胸の内で戦っている。
「とりあえず──」
 真瑠子の声に、一同が姿勢を元に戻す。
「コーヒー、もう一杯淹れてくるわ」
 動揺を隠すようにそそくさとキッチンに向かった。
「いやー、竹やん、痺れたが」
 背後で伊地知の声が聞こえる。それをきっかけに一同がやる気をみなぎらせて言葉を交わし始めた。
 真瑠子はコーヒーメーカーに水を注いで、スイッチを入れた。
 ──才能。
 痺れる脳みそを持て余しながら、コーヒーができるのを待っていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。
 キッチンから顔を覗かせる。
 帰宅した丹川谷が、脱ぎ捨てられた靴の多さに目を丸くしていた。

(第二章につづく)

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