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不動産オーナー探訪記 第5話 鉃鋼ビルディング

鉃鋼ビルディングって知っていますか?丸の内にあるのですが、三菱地所の直結系ではない数少ないオフィスビルです。

そういう話をすればグラントウキョウはどうなんや?とかパシフィックセンチュリープレイスはどうなんだという話になりますが、あくまでも丸の内の駅前のこの土地に古くから存在する「鉃鋼ビルディング」のお話です。

鉃鋼ビルと増岡組

鉃鋼ビルディング・・・その字面から鉄鋼ではない事に拘りを感じざるを得ないのですが、創業元となっているのは増岡家もとい増岡組(ますおかぐみ)という建設会社になります。

1888年、創業者が個人事業「増岡商店」を開業したのが発端になり、当時は呉を中心に活動していました。改組(建設業を開始)海軍の御用商人として活躍したのが戦前大きく業績を伸ばしています。

東京・佐世保・鎮海元山に出張所設置するなどありましたが、終戦後は呉を復興させるために行動し始めます。

増岡組は広島での建設関連企業として大きく発展していきます

近現代での増岡組の主な施工実績としては広島市民球場、広島東洋カープ由宇練習場、Mazda Zoom-Zoom スタジアム広島などがあり建設会社としては自社関連のオフィスビルのほかには広島由来の建築に多く関わっています。

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話を戻して鉃鋼ビルです。

呉で海軍の御用企業として発展しましたが、終戦となると軍事関係の仕事はなくなってしまいます。

戦後~鉃鋼ビル建設

そこで大きな転機となるのは1947年、増岡組東京支店計画が決定し鉃鋼ビルディング計画が打ち出されたのですが、終戦後2年しかたっていないこのエリア(丸の内だが八重洲側の土地)にビルを建てようと画策するのです。

ちなみに隣接している八 重 洲という地名。その名は慶 長5年(1600年)に豊後国に漂着したオランダ人航海士ヤン・ヨーステンに由来します。
彼が現在の馬場先門辺りに屋敷をかまえたことから、その付近に“やよす海岸”の名がつき、これが八重洲に発展したと言われているのです。

さて、戦後の焼け野原の中で東京駅東側というまだなにも無い土地で鉃鋼ビルディングの工事は進められ、1951年には鉃鋼ビル、1953年には第2鉃鋼ビルが竣工します。

この第2鉃鋼ビルでは、賃貸ビルとしては日本初の全館空調装置(いわゆるセントラル空調)を導入。高度経済成長を大いに後押ししたビルでした。

新鉃鋼ビルの建設

その後2000年代に入りビルの老朽化、ビルの安全性を高めるため、この第1、第2ビルを解体して新しい鉃鋼ビルディングの建設に向かいます。2015年10月 鉃鋼ビルディング本館・南館竣工し、グランドオープン&オークウッドプレミア東京開業へと至ります。

現在でも、経営陣は増岡一族に固められている一族経営の企業ですがその歴史やルーツは呉にあり、関連会社として「広島バス株式会社」やホテル事業「呉阪急ホテル」などがあります。

企業概要

企業名:株式会社鉃鋼ビルディング
創立 :昭和24年9月16日
所在地 :東京都千代田区丸の内一丁目8番2号
代表者 :増岡 祥文
業種  :不動産の売買、賃貸、仲介及び鑑定
並びに不動産コンサルティングに関する事業
ホテル、食堂、売店の経営、管理に関する事業

主な賃貸オフィス:鉃鋼ビルディング

主にオフィスに関する不動産知識や趣味で短文小説を書いています。第1作目のツボ売り、それ以外も不動産界隈の話を書いていければ良いなと思っています。 サポート貰えると記事を書いてる励みになります。いいねをしてくれるだけでも読者がいる実感が持ててやる気が出ます