日々雑記、あるいは文章練習として。3
・落語に枕という段がありますね。
軽い世間話や小噺などでお客さんをくつろがせたり、事前に前提となる知識を説明しておいたり。
あるいは落語家さん自身のウォーミングアップ、スムーズに本題に入る為の助走の為の一段であると。
雑文、と言っても枕の技を磨いていけば後から自分で読むにも面白かろう、そこに時事ネタが混じっていれば日記の代わり、当時を思い出すよすがにもなりましょう。
技というモノ、繰り返し磨いて練って研いで澄まして
いずれ、これは芸だと人から感心されるまでになれば自慢の一つと誇れましょうけれど…さて。
・何事であれ、技を物にしようとするなら地道な努力が要るでしょう。
読書についても同じ事だと思っています。
人類という種が地球にオギャアと生まれて何十万年、絵を描くようになって数万年。
字を書くようになったのが、かれこれ言っても五千年前後であろうと。
好奇心自体は人がまだ猿と区別がつかない時代からの本能でしょうけれど、本を読むことが本能に刷り込まれるには日が浅い。
故にいつの時代にあっても読書術なんてモノがもてはやされるのでしょうけれど、多読乱読が良いかと言われれば如何に。
哲学者ショーペンハウエルはその著作の中で堂々としてはっきりと多読の害を説いていますが、つまりは本が多すぎる。
年に千冊の本を読むと豪語する読書家がいるとしましょう。
年に千冊、日にして2~3冊。三度の飯と同じ感覚で本を読む人物です。
その量に感嘆して、ではこの一年でもっとも心に残った一冊を教えて欲しいと訊ねた時に、朗らかに答えてくれるかどうか。
その千冊の内に、一生の宝となり得る一冊一文一語があったとしても。数十万の言葉の奔流に流されれば記憶に留めておけるかどうか。悪貨は良貨を駆逐すると申します、ただ量だけを誇る事の無意味さ有害さは認識しておくべきでしょう。
では、人は何を読むべきか?
ショーペンハウエルに問えば古典を読めと答え。
ヘルマン・ヘッセに問えば己の心が喜ぶ最上のモノを読みなさいと答えるようで。
古典、と言ってもこの場合はギリシャに伝わる作品群。ソクラテスやアイスキュロス、あるいはイリアスにオデュッセイアといった類い。
ヘッセの言う最上のモノ、己の心が求める一冊を見いだすにはまず…?
矛盾するようですが、人生の一時期において多読乱読のシーズンを持つ事はどうしたって必要だろうと思われる。
己の価値観を限定するには、まず可能な限り拡げてからだろうと。
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