鏡を見るのは昔から好きだった。
と言っても、見るのは自分の顔ではない。
自分の目では見ることの出来ない自分の顔ではなく、
自分の目で見えるものを、鏡に映して見ることが好きだったのだ。
何故なら、どんなものでも、鏡の中では綺麗に見える。
鉛色の曇り空は、鏡に映した途端に綺麗に輝く銀色になる。
現実には目を背けたくなるような生ゴミでさえも、鏡に映せば静物画のアートのような気がする。
つまり、鏡に映した途端、全てのものは美しくなる。
美しくない世界に生きる中で、鏡の中の美しい世界を見るのが好きだった。
鏡の中には、美しい世界が存在するのだ。
だから、自分自身は映したくない。
美しい世界に居る自分自身を見てしまうと、現実の自分が美しくない世界に生きていることを、改めて思い知ることになるから。
鏡の中に映るのは、美しいものだけでいい。それだけでいい。

いつものように鏡に空を映していると、その鏡を落としてしまった。
いけない。慌てて鏡に利き手を伸ばした。
良かった。割れていなくて。
安堵しながら鏡を拾い上げたその時、
自分が、左手を出していることに気がついた。
なぜ?自分は右利きのはずなのに。
物を拾おうとするなら、自然に出るのは右手のはずなのに。
ふと見上げた曇り空は、現実のあの鉛色ではなく、
鏡に映したときに見えるような銀色に輝いている。
どういう、こと…?

未だ左手に持たれたままの鏡を見る。
そこには呆けたような表情の自分が映っていた。
けれどやがて、
鏡の向こうの自分は、見たこともないほどの妖しい笑みを浮かべた。
こちらの自分は笑っていないのに、どうして…
“サヨウナラ”
と口唇を動かした自分が、怪しく笑ったまま背を向け、
そのまま去っていった。

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