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社会人、開戦前夜

3月31日、22時半。

学生最後の一日が、あと一時間半で終わる。

きっともう二度と手にすることのないだろう、この肩書きをもうすぐ手放すことになる。


明日から新社会人になるにあたって、背負うものが特にない今のうちに思いの丈を書き散らしたいと思う。至って自由に、無責任に。「学生」を最大行使する。


大学4年間を振り返って、数え切れないほどの温かく有難い人との出会いがあった。その方々との思い出を挙げ始めたらキリが無いが、それら数多の財産と同等に大学生活の中で思い出深い場面が一つある。

それは2年の冬、2月4日の昼。ずっと気になっていたカフェに行った帰り道のことだった。

縁石もなく雪が侵食していつも以上に狭くなった歩道に、落花生がぽつんと一つ落ちていた。

何か落ちている、と気づいてから、「落花生」と認識できるまで約5~6秒。なぜ道に落花生があるのか考え始めてから、その前日が節分であったことに気がつくまでもう10秒。それから1分あまり、そこに落花生が辿り着くまでの経緯を空想し、道にポツンと置かれていた落花生の愛くるしさに頬を緩めていた。

2分にも満たないわずかな時間だったが、その時の記憶は今でも私の心の片隅を確かに占拠している。幅は取らないが、贈り物のように素敵なラッピングを施されて、ささやかに愛くるしく、今も心に大事に置かれている。


この何気ないワンシーンがなぜ私の中で今でも輝きをまとうものであり続けるかと言えば、それは就職活動がきっかけだろう。


就職面接で、幾度となく訊かれた「○年後、どうなっていたいですか」という質問。私は最後までこの質問に上手く答えることができなかった。

そもそも「どんな風に働くかもよくわかってないのに、そんな先のことわかるわけ無くない???」という気持ちではあったし(企業研究が不十分な私が悪い・・・)、昇進や目に見えた成果にあまり関心が無かった私は、いくら事前に考えても明確な答えを用意することはできなかった。

しかしながら、この質問を幾度となく突きつけられたことによって、自分なりにどんな大人になりたいかを考えるようになった。

何も明確な答えは導き出せなかったが、将来に想いを巡らせていた中で確かに心に留まっていたのが、二年前の道端に落ちていた落花生だった。


あまりに些細なことだったが、道に落ちていたあの一粒で私の心は晴れ渡ったし、踊った。

これがどうやってここに辿り着いたのか、きのうはどこにあったのか、投げられたのか、投げた子供は?ぶつけられた父親は?

そんな途方もない想像の種が私を幸せにした。異性にかわいいといってもらえるより、バイトで仕事を褒められるより、私にとっては幸せだった。

そして同時に、こんな些細なことで何時間でも頬を緩めていられる自分自身の心のゆとりを、余白を私は何より嬉しく感じた。言ってしまえば、こんなことで幸福を感じられる私の感度が好きなのだ。あの落花生くらいちっぽけで愛おしい。

この出来事を思い出したとき、私はいつまでもあの落花生に心を弾ませられる大人になりたいと切実に思った。いくつになってもあの日道に落ちていた落花生に足を止めて想いを巡らせ、喜んでいたい。そんな私の心の中に広がる世界を慈しんでいたいのだ。

勿論、「落花生を眺めていられる大人になりたいです」なんて面接では言わなかったし、客観的に見たらこんなことを言っている大人はろくでもない奴だろうな、とも思う。わかる。

ただ私は、どれだけ社会に摩耗されても、私の心を生かし続けたい。この社会を自らの心で捉え、感じ続けたい。声を大にしては言えずとも、確かに強くそう思っている。



社会人のスタートライン手前で私が描く大人の理想はこれくらいのものだ。でもきっと、集団の一員として行動し続けなければならない私にとってはあまり簡単なことではないだろう。

だからここに、記しておきたい。学生最後、未熟な私の本心と明日へのささやかな抵抗の意思を。





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