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及川というお客さま。

時雨はいわゆる場末のスナックで、東北の名前を聞いてもわからないような工業都市で埋もれるように営業している。
いつも客がいない以外特筆する事はなく、時折、隣の居酒屋から魚を焼く匂いがする。

その客は及川といって、月に一度出張のついでに時雨に寄っていく。年齢を感じられる体格だが、しっかりと寸法の合ったスーツにグレーのネクタイ、キャメルのチェスターコートを着ていて、東京で話題の手土産を持参して、おそらく営業職と流行とに気を使ってる感じが受け取れた。
その日は、冬に雪が降らない話から始まって、ブルーノマーズの何回目かの来日の話、広島に出張した話や、松本人志がどうなるかなどをしていて、まぁスナックにありがちな性癖はどんなだという下世話な話になった時、及川の笑う声が少しわざとらしく感じてこの話題は失敗だったかな、と思った。
及川は笑った顔をそのままにして、ねぇママさ、と言った。
「ねぇママさ。僕は人の歯が好きなんだ」


ねぇママさ。僕は人の歯が好きなんだ。
いや、歯並びがいい人とかではなくて、僕は歯自体が好きなんだ。

僕は子供の時にずっと自分の抜けた歯を眺めていて、その時は自分の口にこの白いモノが生えている事をちょっと気にするだけだった。なんで骨みたいなものが口の中にあるなんて不思議だなって。それくらいの事ですぐに忘れた。
でも、大学の時に付き合っていた彼女が親知らずを抜いて、それを見せてもらったんだ。
ママ、知ってるかな?歯って上のところがちょっと出てるだけでその下に長い根が…歯根って言うんだけど…歯根があって人によってそれぞれ形が違うんだよ。
その子の歯の根はね、歯の根本からグニャりとななめに曲がって捻れていたんだよ。なんでだかわからないけどその形にとても衝撃を受けたんだ。
そして、その子のもう片方の抜いてない親知らずの形を考えながらセックスしたんだ。いままでにないくらい興奮したよ。
それからずっと歯のことを考えるようになった。魅力的な女の人だとこの人の歯は歯根はどんなんだろうって考えるだけで欲情してくるんだ。もちろんママの事もそんなふうに考えるよ。あぁ、歯は見せなくていいよ、ありがとう。

でもさ、人の歯は見ることができるけど歯根は見ることはできないでしょ?…確かにネットで検索しては見れるけど…そういえばインスタの[おいかわしゅうじ]をみつけてフォローしてよ…うん、ありがとう。
えっと、普通に生活してたら歯医者じゃないとまず見ることはないよね。だから、僕はあちこちの歯医者を回って、歯科医と仲良くなる事にした。知ってる?都内ではコンビニよりも歯科の方が多いんだよ。だからとりあえず手当たり次第に歯科に行って、感じがいい歯科医と仲良くなって抜いた歯を見せてもらえるようになったんだ。でも、抜いた健康的な歯ってその人に返しちゃうんだよ。虫歯とかは見せてもらえるんだけど、僕は健康的な抜いた歯が見たくて。
社会人になって、その時、同じ会社の女の子と付き合ってたんだけど、原因は本当に些細な事ですごい言い合いになって喧嘩になったんだ。僕はつい手が出て…ちょっと軽くだよ、彼女の顔を叩いてしまった。その時ね、歯が取れるまで殴ればこの子の歯根を見ることができるんじゃないかってよぎったんだよね。で、それまでそんな事したことないのに、マンガとかでよく見るみたいにその子の顔を一回殴ってみたんだよ。そしたら意外と自分の手も痛くてね。そしたらもっと頭にきて、何回も何回もその子の顔を殴ったんだよ。彼女は最初こそ大騒ぎしたけど、最後の方はもう抵抗はできないくらい殴った。でも歯は取れなかった。僕は正気になって、救急車呼んだんだ。もちろん警察沙汰になったし、仕事もクビになって、その子には謝ることもできずに別れてしまった。
だけど、殴った事を反省するとかそういう気持ちはなくて、むしろ、虫歯とか歯周病とかには弱いのに、歯の強さとか尊さみたいのを感じてまた歯が好きになったんだ。

それからはどうやって健康で丈夫な歯を手に入れるかって色々手を尽くした。そして行き着いたところが今の仕事。
知ってる?抜いた歯って繊細だから、乾燥するとすぐ割れちゃうんだよ。

及川は極めてにこやかに話しながら、フェラガモのビジネスバッグのファスナーをジリジリと開けて、ジップロックを取り出した…。

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