非発

つまらない事をあえてやる自発的ルーティンワ–ク、その中では全く集中なるものは必要な無いのだから、ここでこそ真っ白な画用紙、原稿用紙が登場する。そもそも集中なるものは成長には無関係だとも思われる。頑張って事を成すより、頑張らずに成す事もなかなか出来ずに知らないうちに事が成っていた。この方が実に自然体だ。例えるなら鳥は苦労せずとも飛べる様になるだろうし。
こんな感じで雑念があった方が身に付きやすいのだから。継続は力なり、等という事は今は興味が無い。こんな雑念から色々な横道逸れを楽しむ事とすれば、知らないうちにもう既にそれは現時点で起こっているのだから。キレイにする為の掃除やら整理、これは平和への第一歩なのだろうか?その前にでも雑念はやって来る、親指の中で成長しているクワガタの幼虫の様な生き物。これを出すには爪楊枝でほじくり出すのではなく、指で絞り出すのが良い、胎児と母体が助かる様に。
各部屋には死者を迎える部屋があれば良い、一部屋用意しておけばそこにやって来るものなのだから。聖徳太子の夢殿ではないのだが。
一般を考えるともう既に冬なのであろうか?ここに豊かな情緒が欲しいものだ。落ち葉焚きでも良いのだが、自己の落ち葉焚き、卵を割ると黄身だけが逃げて流れ出す、これで作る卵焼きはさぞかし真っ白だろう。これが夢にでも出て来たら雪原がごとき卵焼きになりながら「僕は宇宙を箱に入れるのであった。」とでも書いてしまう。
こうして15分のルーティンワークが進行中だ。人は、いや僕はいつでも夢を見れるのだから。
ふとした二元論が見えるとしたら。
整理したり夢殿を用意したり指の中の幼虫を出したりするよりはそのまま放っておいた方が汚れやら汚物にまみれていく事だろう。
まあそれでも意識社会は汚辱を好むものだ。個人の願望とは逆に、、、、

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