華倫変と90年代の断片

・5月なかばに大阪の画廊モモモグラで開催された「華倫変没後20年追悼原画展」へ行って来た。展示替えの情報を見落としていたので赴いたのは前期だ。華倫変の単行本で手許にあるのは、短編集の『カリクラ』講談社版のみだが、気になる作家ではあった。
・会場には参加者が書き込めるノートがあり、華倫変への思いや出会いが書き込まれていた。2000年代はじめに地方の大学の漫画研究会で先輩から、いくつかのバンドの名前とともに華倫変の名を教えてもらったエピソードが印象に残った。華倫変はまさしくそういう作家であった。個性も強いが、時代背景とともに語りたくなる。きわめて90年代的な作家だ。
・華倫変との出会いは2000年代なかばに友人から教わった。住んでいた練馬区のアパートに友人が泊まりに来た。夜、飲みに行こうと池袋へ出て和民に入った。頼んだ和民サラダは大椀に野菜と大量のツナが乗っており、480円は当時の経済感覚ではかなり値が張るものだった。飲み物は少しの乙類焼酎を大量の甲類で割ったボトルで、度数は20%であり、私は別の友人と「アメリカンコーヒー」と呼んでいた。終電が近くなったが、別れるのは惜しいと今度は京浜東北線に乗って彼の住む浦和のアパートを訪ねる。最寄り駅は浦和だが、鉄道の料金が210円から290円へと切り替わるので一駅手前の南浦和駅で降り、歩道が整備されていない郊外の幹線道路を歩いて向かった。友人はJリーグの浦和レッズの熱心なサポーターで同地に住んでいた。そういう奴はけっこういると話していた。友人はボロアパートに住んでいたが、人づてにそのころビンボーを売りにした人気バラエティ番組の出演候補者となり家にスタッフが来た話もしていた。サッカー好きならユニフォームのレプリカを部屋にズラリを並べてくれと言われたが「それをやったら服が傷む」と断り、さらに「これはヤラセじゃないですか」と突っ込むと、その人は黙ってしまったという。その番組は夢はあるが金がない若者(あるいは気持ちだけ若い中高年)を面白おかしく見守るみたいな番組だったが、20年前の日本にはまだそういうノリがギリギリ残っていたのだと思う。間もなく年越し派遣村などが出現し、日本のビンボー(貧困)は笑えないものになる。そのバラエテイ番組は友人をレッズが好きすぎて浦和に住んじゃったサッカーバカくらいに扱いたかったのだろう。浦安にもディズニーが好きすぎて、キャスト(アルバイト)として働きながら、休みの日は年間パスポートでこれまたディズニーランドに遊びに行く人種がいると聞く。
・彼が本棚から貸してくれたのが華倫変の『カリクラ』だった。20代で亡くなっていると知らされる。当時あった本人によるホームページには、マンガで食い詰めて郵便局員になろうと試験を受けたが落ちたとも記されていた。
・『カリクラ』で印象に残ったのは、今回の展示のフライヤーにも取り上げられていた「スウィートハネムーン」だ。平凡な大学生のもとに、東南アジア出身のナームが現れる。偽装結婚のために1年間の同棲生活を提案され、恋仲になる。この時間は永遠に続くかと思われたが、やはり期限がくるとあっさりと消えてしまうといった切ない話だ。華倫変の作風は、日常身辺雑記のようなベースの要素に、突拍子のない設定が絡む、ちぐはぐなものだ。「バナナとアヒル」では性自認に悩む少年が、アメリカからやって来た交換留学生でハードゲイのスティーブと出会い、奇妙な友情が生まれる。華倫変の作品には退屈な日常に、ふいに現れる闖入者で世界がガラリと変わる設定がある。『カリクラ』にはセルフライナーノーツも付けられ本人が失敗作と酷評するものも多い。それでも、このバラバラなものがひとかたまりものとしてかろうじて成立しているのが良いのだと思う。華倫変が最後に活躍した『エロティクスF』(太田出版)編集長は「ものすごいこだわりを持っているものを逆に無造作に投げ出すような奇妙な距離感のねじれが本人にも作品にもあり、それが独特の存在感に結びついていました」と振り返っている。
・『カリクラ』は友人に返したが、手許にも欲しくなりブックオフを探すと100円棚であっさりと上下巻を見つけた。華倫変のマンガはプレミア価格がついているが、当時はまだそんなことはなかったのだろう。
・華倫変は『ヤングマガジン』(講談社)の編集長だった関純二の小説『担当の夜』(文藝春秋)に伽藍承(がらんしょう)の名で出てくる。作中で評される伽藍承は、男性作家でありながら自分の中に一人の少女がいるような作風であり、ドロドロとしたものを抱えていた。本人の強い希望でミステリを手がけるがうまく行かない。晩年はネットで大暴れしていたといったものだ。
・華倫変が2ちゃんねるに降臨し、大暴れしたスレッドは現在も過去ログで閲覧可能だ。最初は作家の本人降臨が珍しがられるのだが、自分のホームページに人を呼び込もうとして次第に疎まれだす。現在でもクリエイティブや表現に関わる人間は、自称ファンとの交流を積極的に行うか、そうではないタイプがいる。それは各人の好みだとしても、明らかにファンとの交流に関して決定的に向かないタイプがいる。華倫変はまさにそれであたように思う。以前、山野一さんの個展に行った時に、ねこぢるがパソコンやインターネットに触れていたかを訊ねたことがある。パソコンは買ってはいたが、仕事が忙しすぎるので、段ボールを開けてセットアップする時間もなかったという。ねこぢるがネットと繋がり自称ファンと交流を試みても絶対うまくはいかなかったように思う。華倫変もマンガ表現を通し、読者とのチューニングがかろうじて合っていたのではないだろうか。ダイレクトに繋がるのではなく、時間差やすれ違いを経て伝わる表現もある。没後20年に回顧展が開かれたのも示唆的だ。
・大阪へは4泊した。行きは新幹線のぷらっとこだまを使い、帰りは私鉄とJR線を乗り継いできた。こだまは4時間で1万1千円だが、帰りは10時間以上かかり9千円近くかかってしまった。近鉄と小田急の優待券の値段が高騰し、JRの回数券が昨年廃止になっているのも知らなかった。宿はキャンペーン期間中だったので1日2千円のクーポンが支給されたが、とにかく使い勝手がない。基本的に特定の飲食店でしか使えないのだが、1日2000円分飲み食いするのはなかなかハードルが高い。なんばの深夜営業のガストへ行き赤ワインのボトル1本と油にまみれた食い物をいくつか頼み、1割増の深夜料金が加わって3000円強だった。初めて食した梅蘭のフリスビーみたいな焼きそばは美味だったが(そもそもこの店は本店は横浜で大阪グルメですらない)、3000円のファミレス飲みは底辺の味合いがある。新今宮の安宿では、クーポンを早く使いたいからとチェックアウトを急かす行為は受け付けないと注意書きがあった。大阪グルメを堪能すべく空腹のいらだちをぶつける客もいるのだと思うとなんとも言えない気分になる。
・華倫変は東京へ住んだことはないはずだ。関西の大学を卒業しデビュー後も同地に留まっていたようだ。和歌山県の実家に住んでいたようだが、その場所がどこなのか。大阪へ気軽に出られる場所であったのか、さらに遠かったのか。スーパーカーがデビュー後もセカンドアルバムの『ジャンプアップ』まで青森に留まり創作活動を続けていた話も思い起こさせる。90年代の地方と東京の間の距離感も華倫変のたたずまいに重ねられる。華倫変は性をモチーフとしたが、作品に出てくる女性たちはショートカットで中性的だ。同性愛(それは男女問わず)もモチーフとされる。このあいまいな領域の交雑も90年代の空気を感じさせる。華倫変の作風は大雑把にくくれば「ヘタウマ」なのだろうが、その評価すら拒絶するような何かである。それは村崎百郎論の「鬼畜」や、見沢知廉論の「異物」に連なってゆく。

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