ナム・ジュン・パイクの日本(語)/ナム・ジュン・パイクの卒論

 『新潮』(新潮社)2023年9月号の毛利嘉孝「シェーンベルクを弾くパイク」を読んだ。7月20~21日に韓国のソウル国立大学美術館で行われたシンポジウムの様子が記されている。海外シンポの内容が2週間後に発売される文芸誌に掲載されるスピード感は良い。シンポではパイクが東京大学に提出した卒業論文が中心のトピックとして取り上げられたようだ。
 1932年、日本統治下の朝鮮に生まれたパイクは、香港を経て日本に移住し、1956年に東京大学文学部美学・美術史学科を卒業している。卒業論文の題目は「アーノルド・シェーンベルク研究」であり、卒業後はドイツに渡り作曲を志す。ビデオアートは自分に音楽の才能がなく挫折した結果、妥協案だとどこかでパイクが話していた記憶がある。
 論文はドイツのシュトゥットガルト州立美術館のアーカイブに収蔵されていたが、“展覧会などで資料として展示されることはあったが、日本語で書かれていることもありその内容が議論されることはなかった(p.226)”。今回、この論文のテキスト化が試みられたが、閲覧は許可されたが撮影もコピーも不可のため、すべて手書きで書き写されたという。
 パイクが2006年に没してから20年近くが経つ。灯台下暗しとでも言えばよいのか、卒業論文に注目されてこなかった事実は興味深い。原本がドイツの施設にあり(パイクの卒論同様に、東アジア圏の漢文や日本語の資料が欧米の図書館やアーカイブなどに死蔵されているケースはよくあるのではないか)、パイクが多言語の使い手であったといったいくつかの理由があるだろう。
 パイクは母国の韓国・朝鮮語のほか、香港に居住していた経験から広東語を話し、中国語(北京語)の読み書きも可能だった。さらに日本の大学を卒業し、のちに日本人の彫刻家であった久保田成子と結婚したため日本語にも堪能だ。留学先のドイツ語、隣り合う文化圏のフランス語、長らくアメリカを活動の拠点とし同地で没したため英語も使う。韓、中、日、独、仏、英の6ヶ国語を操った。それぞれの言語は分裂、分割されるのではなく分かちがたく混ざり合う。その姿は母国の名物料理にちなんでビビンバ的とも形容される(ビビンバは混ぜれば混ぜるほど旨さが増す)。
 私は2019年に行われた「美術手帖芸術評論賞」に「ナム・ジュン・パイクの日本(語)」を投稿している。題目の通りパイクにとっての日本と日本語に着目したものだ。入選は逃したが一次選考は通過し、選評では審査員の一人であった星野太さんから気になる論考として言及をいただいた。公募の賞は最終選考に残らない限りは明確な反応は得られないので貴重な経験だった。さらに私はテキストそのものよりも周辺の逸話、情報などマージナル部分に興味関心があるのだと知覚もできた。
 パイクにはいくつかの日本語のテキストがある。ワタリウム美術館で開かれた展覧会の図録『ナム・ジュン・パイク:2020年笑っているのは誰 ?+?=??』(平凡社)には、コピー用紙に刻まれた手書きテキストの写真も掲載されている。これらは実に奇妙なものだ。外国語の基本的な間違いといったものではない。もっと入り組んだパイクの思考/原理を感じさせる。それは専門的かつ精緻な検証を経たものではなく、ひとつの予感や感覚に過ぎないのだが、パイクの日本語の書き言葉には、おそらく中国語の影響があるように思われる。グローバルな活躍と言ってしまうのは単純だが、パイクには文化、文明、国境といった区分がない。それは東アジアからさらに領域を拡大し、ユーラシアを一つの姿として捉えても良い。ヨーゼフ・ボイスとの親交などその好例だろう。ただし、これは思考のレベルにおいてだ。パイクは兄弟が日本へ帰化しても、韓国のパスポートを強い意思として持ち続け、それにより入国不可、あるいは渡航が困難な場所があった逸話が久保田成子の回想録『私の愛、ナムジュン・パイク』(平凡社)に記されている。パイクが活躍した70年代から80年代は米ソ冷戦の時代だ。日本製の電子機器を駆使して活動するパイクはアメリカでは日本人だと思われていたとも聞く。さらにパイクは朝鮮戦争の動乱を逃れ祖国を捨てた人物とみなされており、母国の韓国には30年以上帰らない/帰れなかった。
 パイクは思考や作品にファジイな部分が多分に含まれる。パイクは技術的なブレーンであった阿部修也とともにシンセサイザーを作り上げた。かつては電圧の供給が不安定だったため、モニターにはうねうねとした波が出現したが、今は安定しているのでそれほど波打たないとも聞く。パイクの作品は時代背景とセットで捉える必要がある。パイクの映像を見ると「マッキントッシュで同じようなものを作れる」「テレビが壊れたような映像」といった印象を抱く。パイクは機械をあれこれと調整し「テレビが壊れたような映像」を作っていたのだし、その理論が体系化され、商品として量産された結果がマックで作れる前衛映像へと繋がっている。メディアの歴史、特に技術史の観点からもパイクは捉えられるべきだろう。
 「ナム・ジュン・パイクの日本(語)」執筆にあたり、もっとも参照されたのは『私の愛、ナムジュン・パイク』だ。2013年に発行された本書は、パイク夫人であった久保田成子に韓国人の南禎鎬(ナムジョンホ)が行ったインタビューを元にした評伝本としてまとめられている。タイトルの通りパイクと久保田のラブロマンスが記された「おはなし」でありとても読みやすい。日本でのパイク認知は、ビデオアーティストの著名人といった位置づけだろうが、韓国では子供向けの伝記本に取り上げられるような存在であり、だいぶ異なるようだ。本書の翻訳を手がけた在日の美術学芸員(キューレーター)であった高晟埈(コソンジュン)は2015年に40歳でトルコで客死/急死している。彼の仕事がなければ、この名著を日本語で読む機会はなかっただろう。同年には久保田も77歳で没している。取材時点で久保田は闘病中であり、記録/記憶が残る/残される最後のタイミングだったのではないか。
 2016年、パイクの没後10年を機に韓国のソウルで行われた大規模回顧展「ペク・ナムジュンショー」を見に行った。その後、ソウル郊外にある「ペクナムジュンアートセンター」にも足を運んだ。韓国は日本以上の都市集中が進み、ソウル首都圏に人口の半数が住む。アートセンターの最寄りとなる地下鉄は長大な京浜東北線といった感じで、1時間以上各駅停車に揺られていった記憶がある(快速はなかった)。この鉄道が開業する前はバスで行かねばならず利便性はだいぶ向上したようだ。パイクの作品もいくつか展示されていたが記念館というより、パイクの名前を冠したメディアアート美術館といった様相であり、社会科見学の子供たちがいた。ライブラリーもパイクと関係なさそうな子供向けの本も並ぶ「としょかん」であり、日本語、韓国語、英語、ドイツ語などで書かれたパイク資料が網羅されているわけではなかった。それゆえに、貴重な文献の一つであろう東京大学の卒業論文がドイツの施設に埋蔵されていたのも致し方ないように思われる。今回、テキスト化がなされたのは一つの進展であろう。
 パイクの活動/活躍は多言語/他分野に及ぶため体系化がなされていない。アーカイブ的な観点からはこの作業は進められるべきだろうが、そもそもパイクの活動や思考には体系化を拒む要素もある。バラバラで支離滅裂な断片の集積(それは90年代サブカルチャーであり村崎百郎であり鬼畜系の姿でもある)の魅力も拭い難い。

 

 

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