『深夜特急』と「H鳳大学の3年生」

 『朗読・深夜特急:オン・ザ・ロード』(TBSラジオ)が1月末で終了した。沢木耕太郎の名作を俳優の斎藤工が朗読してゆくもので、2023年4月に始まった。当初は半年間の放送予定であったが、都合4ヶ月間伸びた。最終回は2時間ノンストップのロングランであり、ポルトガルからフランスのパリ、ロンドンまでの行程が一気に朗読された。
 『深夜特急:オン・ザ・ロード』は月曜日から金曜日まで毎日25分ずつオンエアされる。そのうち、定形のオープニングに続きCMが3分ほど(時折、沢木からのメッセージも流れる)、本編のうち最初の5分ほどは前回のあらすじであり、19分くらいで音楽が流れ出し「つづく」となる。実質的な本編は毎回10分強といったところだ。CMが入り定形のエンディングが終わると24分。さらに1分のCMが入る。
 ここまで番組の構成に詳しくなってしまったのは、全編を録音したためだ。録音ツールを用いるのは漏れがありそうなので、毎回MacBook Airにオーディオケーブルを繋ぎ、ICレコーダーに録音を続けた。毎週末にその週の5話分を録音し、音声のチェックを兼ねてまとめて聴くのが恒例となっていた。この作業は旅先でも繰り返された。その都度のネット環境に左右されるため、音声にノイズが入っている回もあるが、これも味だろう。
 「深夜特急」は1970年代なかば、26歳の沢木がわずかなドルを持ち、香港・マカオを皮切りにアジア、ヨーロッパを放浪する紀行文だ。10年を経た1986年に『第一便:黄金宮殿』『第二便:ペルシャの風』(新潮社)が上梓される。間を置いた1992年に『第三便:飛光よ、飛光よ』(同)が刊行され物語は完結した。
 「深夜特急」は貧乏旅行を好むバックパッカーのバイブルと言われるが、この本に対し私は距離を置いてきた。「深夜特急」には、ひたすら金の話が出てくる。沢木は値段に比して快適度の高い安宿を求め、量も味も十分な安食堂の探索に腐心する。土産物ひとつ買うにしても、タクシーに乗るにしても、細かい値下げ交渉を繰り返す。わずかでも得をしようと闇両替にも手を出す。ここまでケチなのは、もともと手持ちのドルが少ないためだ。沢木が旅した時代は1ドル=360円の固定相場はなくなっていたが、200~250円ほど。今より物価が安いとは言っても激安ではない。
 沢木が貧乏旅行をしていたのは、相応の理由があったにせよ、この「ケチさ」は悪い意味で今現在の日本人バックパッカーたちに受け継がれているようにも思える。それだけ「深夜特急」の影響力、神通力は大きい。このケチケチ話に加え、全体に漂う武勇伝感もどうにも苦手だったのだが、斎藤の朗読を通し全編を聴くと静かな感動がやって来た。
 私は「深夜特急」の文庫版1・香港・マカオ編と、2・マレー半島・シンガポールは旅先の持参本として何度か復読経験がある。その先は未踏のため1度通読したきりだ。アジアからヨーロッパへ入った沢木は、イタリアで「パスタがうまい」、スペインで「ワインがうまい」と食の感想を書いてゆくが、どうにも味気ない。ところが、旅の終わりかけの一幕に急激に惹かれる。
 イタリアからモナコを抜け、フランスへ入った沢木は南部の都市マルセイユへたどり着く。このままパリへ行けば終着地のロンドンはすぐそこだ。自身の中で旅を終わらせたくない沢木は目的地のロンドンから離れ、スペインのマドリードへ向かう。さらにポルトガルのリスボンへ足を伸ばし、イベリア半島の突端である南部の都市サグレスへ至る。この街は夏場はリゾート地として栄えるも、沢木が訪れたのは冬だ。サグレスへ直行する快速便はなく、鈍行のバスに揺られ無数の停車を繰り返しながら、ロンドンから離れ南へ進む。このさまは、サウダージ(ポルトガル語で郷愁や切なさを意味する)そのものではないか。沢木はリスボンの港で拾った英字新聞に、ケープタウン、ボンベイ、シンガポール、マニラを経由し神戸、横浜へ至る貨客船の広告を目にする。料金は290ドル、51日経てば日本へ戻れると心が揺らぐ場面も良い。望郷への思いを断ち切り、サグレスへ向かった沢木は、冬場は閉まる宿の部屋を開けてもらい、白いシーツにくるまり眠り旅の終わりを決意する。傍から「なぜそんな場所へ行くのだ」と問われても、沢木には明確な理由がある。この先のロンドンまでの道のりが、先述した2時間の最終回の内容となった。
 この回り道こそ、旅の真髄ではないかと共感した。「深夜特急」はインドのデリーまでは飛行機を用い、香港とバンコクで途中降機するが、その先はすべてバスに乗る。イタリアでは「列車の方が便利だ」と言うアドバイスを頑として聞き入れず呆れられる。こうした旅に関する、およそどうでもよい拘泥は、私自身も持ち得ているだろう。
 カンボジアのエントリでも記したが、海外では日本では100円ショップで簡単に買えるものがどこにも売っておらず、専門店や問屋街まで行かねばならない。タイではステレオイヤホンの延長ケーブルがそうだった。イヤホンが断線し、長さが微妙に足りなかったので、50センチの延長ケーブルを探した。街角で売られているものは、ほとんどがスマホ用のワイヤレスイヤホンで、いまだにiPodClassicで音楽を聴いている私にとって最適な商品がない。電脳街へ向かい、細かいパーツを売る店にやっとあった。目的の50センチはなく、1メートルだった。この物探しだけで丸一日が潰れかねないのだが、同時に旅の理不尽を甘受する快楽もある。
 ロンドンへ着いた沢木は、トラファルガー広場近くの郵便局から友人へ電報を打とうとする。「深夜特急」の旅は「デリーからロンドンまですべてバスで移動できるか」と友人と賭けをしたもので、その成果報告のためだ。ところがスタッフから「電報は郵便局じゃなく電話局だろう」と言われる。
 トラファルガー広場はロンドンの中心部に位置する。私はこの場所を、『進め! 電波少年』(日本テレビ系)の企画、猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイクのゴール地点として知った。斎藤工の朗読で広場の名前を聞き、あの企画はここまで「深夜特急」に忠実だったのかと思い至った。
 猿岩石のヒッチハイクの元ネタは「深夜特急」にある。番組のプロデューサーだった土屋敏男は六本木の深夜営業の書店で、文庫化された「深夜特急」を目にし、学生時代に海外へ旅立った同級生の姿を思い浮かべ、企画を思い立った。この書店は青山ブックセンター(ABC)だろう。「深夜特急」の文庫化は1994年3月に始まる。猿岩石の企画は2年後の96年4月スタートしている。
 文庫化に際し3巻の単行本は地域別に6巻に分けられた。さらに巻末には解説に代わり、沢木と山口文憲、高倉健、此経啓助、今福龍太、高田宏、井上陽水との対談が収録される。この文庫化の構成や追加要素はとても良い。「深夜特急」は沢木が旅先で付けていた記録ノートと、友人たちに送った手紙を元に、実際に旅をした時代から約10年を経て執筆された。この時間の隔たりが名作を生み出したように思う。金子光晴の『マレー蘭印紀行』(中公文庫)は、ほぼリアルタイムで雑誌に発表されているが『西ひがし』『どくろ杯』『ねむれ巴里』(同)は、旅から数十年を経て、70歳を超えた晩年に書かれた。さらに金子は戦後は一度も海外へ行っていない。旅の記憶は反芻され、熟成されてこそ、生きてくるのだろう。
 沢木はインドからパキスタンを経て、アフガニスタンのカブール(正確な表記はカーブルのようだ)にしばらく滞在する。当時のカブールは物価も安く多くの旅人が行き交っていた。古来より続く東西文化の交錯は1970年代にも存在していたのだろう。だが、沢木が旅を終えた後、アフガニスタンには社会主義政権が樹立され、間もなくしてソ連侵攻が始まる。そこから40年以上、気軽に訪れられない場所になってしまった。失われた記憶とノスタルジアの喚起も、時間を経た旅行記の味わいとなる。
 猿岩石のヒッチハイク企画でも、政情不安定な3ヶ所(タイ・バンコク〜ミャンマー・ヤンゴン、ヤンゴン〜インド・カルカッタ/コルカタ、イラン・テヘラン〜トルコ・アンカラ)を飛行機で移動している。この事実はゴール後にスキャンダラスに暴かれた。それでも、旅好きの間では放送上「ミャンマーを陸路で通過」した時点で疑いの目は向けられていたようだ。
 バックパッカーが持つ、謎の拘りあるあるの一つに徹底した陸路移動が挙げられる。現在はLCC(格安航空会社)も普及し、むしろ陸路の方が高くつく場合も多いが、かつては安い移動方法だった。まずは大阪・神戸から上海までフェリーで渡る。そこから陸路で東南アジアを南下してゆく。今は閲覧できなくなってしまったが『GON!』(ミリオン出版)の名物編集者(長)だった島田うどんも、退社後に同じルートを辿る旅を行い、ウェブ日記を付けていた。さらに陸路へ拘る人間は、下関から韓国の釜山へ至る。北朝鮮は陸路で通過できないので、韓国から中国行のフェリーに乗る。
 土屋はどこかで猿岩石のヒッチハイク企画には「いまだバレていない」仕込みもある話をしていた。そもそも、旅先で仕事をしている時点で、専用のビザを用いていない場合は不法就労となる。就労ビザを得ているなら「職探し」はしないはずだ。このあたりの話に無数のツッコミを入れた『猿岩石大ウソ日記』(鹿砦社)なる隠れた名著もある。ブームへの便乗本でありながら、当時の国際情勢や物価、現地事情に対して細かい情報がフォローされている。

 「深夜特急」で沢木とにかくケチなのは、新たに金を得る手段がないためだ。それゆえにマカオで「大小」博打に挑む。対して猿岩石は「お話」「バラエティ番組の演出」ではあるのだが、旅そのものはリアルな経験ではないだろうか。ベストセラーとなった『猿岩石日記』(日本テレビ出版)はリアルタイムで買って読んだ。手元にある文庫を旅先で読むのも良いかもしれない。
 もう一つ、ケチな貧乏旅行で思い起こしたのは、ねこぢる『ぢるぢる旅行記:インド編』(ぶんか社)に出てくるある女子大生だ。「ぢるぢる旅行記」はねこぢると夫の山野一が1995年の春先に行ったインド旅行のルポルタージュマンガ作品だ。ちょうど現地でオウム真理教の地下鉄サリン事件にも遭遇している。連載は同年末から始まった。この時期、ねこぢると山野夫妻は1996年1月に新宿ロフトプラスワンで行われた青山正明や村崎百郎らが集ったイベント「鬼畜ナイト」観覧に訪れている逸話も興味深い。さらに別途ネパールを訪れた旅行記を連載していたが、ねこぢるの死去により未完となっている。
 沢木がロンドンを離れサグレスを目指した回り道は『ぢるぢる旅行記』にも出てくる。ねこぢると山野はバラナシ行の寝台列車に乗ろうとする。ところが出発地が「ツンドラ」なる別の街だったため、タクシーをチャーターし慌てて向かう。この街を訪れた人の動画もある。こうした無名の街には惹かれる。
 ねこぢるの死後、山野は彼女の実弟と追悼インド旅行へ出かける。この旅の様子『インドぢる』(文春ネスコ)にまとめられている。著者のねこぢるyは山野の別名義だ。弟は、あちこちで売られている小物雑貨を色違いで大量に買ってくるので(ねこぢるも同じタイプだった)「持ち運べねーだろが」と山野が怒る。結局、荷物が運びきれずインドから日本へ送ったようだ。チープな小物雑貨ほど色違いで欲しくなる感覚は私にもある。余剰、ジャンク、ノイズこそ旅の醍醐味だ。
 ねこぢるはインドで行きつけだったレストランで、日本人の男子大学生と知り合い、だらだらと話していると「日本人見つけた!」と女子大生が現れる。彼女は「コンサート無料」と聞いて店に入ったのに飲み物を注文させられた、店のコーラが外で買うより高いと文句を垂れる。さらに自分を「H鳳大学の3年生」と勝手に自己紹介を始める。これに対する山野の反応は「知らねーな」だ。
 さらにホテルの部屋で「なごみタバコ」を堪能するねこぢる、山野、男子大学生のもとに、彼女が「トイレ貸して」と押しかけ、あまりのガサツさに、とうとうねこぢるがブチ切れる。
 ねこぢるは100人の人間がいたならば、97人くらいを嫌いになるタイプだ。だからこそ吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(飛鳥新社/幻冬舎アウトロー文庫)で、ねこぢるが吉永や妻の巽早紀に気を許す姿は貴重だ。マンガでは「彼女も悪い人じゃない」とフォローされているが、ねこぢるにブチ切れられた「H鳳大学の3年生」のモデルはいたのだろうし、実際にあった話なのだろう。彼女は50歳手前になっているはずで、今はどうしているのだろうとふいに思い出す。
 やはり「深夜特急」が日本人の貧乏旅行者たちに「ケチの美徳」と免罪符を与えてしまった疑念は拭えない。ねこぢるは「私たちも貧乏旅行をしているが極端にケチな奴は嫌い」と記しているがこれに尽きるののではないか。ケチにも限度がある。極端なケチの姿は、日本ならば牛丼屋で米で紅生姜で飯を食っているようなものだ。クーロン黒沢の本では、カンボジアの屋台で、米だけ頼み、持ち込んだビニール袋に入ったおかずを何回かに分けて食っていた日本人が、店主にブチ切れられ出禁になった逸話が紹介されている。面白くもありながら、どこか切ない話ではある。
 以前、バンコク関連のエントリでも記したが、私にとって思い入れのあるアジア旅行記は『深夜特急』ではなく、小林紀晴『アジアンジャパニーズ』シリーズ(情報センター出版局/新潮文庫)だ。1はタイやインドを旅する著者と若者との邂逅録。小林が泊まった中華街の安宿は、1995年に閉鎖されたジュライホテルだろう。かつてこの場所にはジュライのほか、楽宮旅社、台北大旅社といった安宿が連なり、最盛期で最大100人ほどの日本人が長期滞在していたと聞く。宿のランクは、台北、ジュライ、楽宮の順であり、行きつけの屋台ごとに細かい派閥も存在していたと聞く。私がアジアを旅し始めた時点でジュライも楽宮もなく、台北が定宿となった。
 『アジアンジャパニーズ』で小林はバンコクの中華街(ヤワラート)をひたすら歩き、外れにある小さなインド人街を訪れる。国の規模に比して、タイのインド人街は本当に小さい。かつては実にうらぶれた場所であり、台北から歩いて向かい辛いカレー(なんと凡庸な表現かと思うが、そうとしか言いようがない)を食べ、甘いチャイを飲んだ。近年はオシャレエスニック料理ゾーンに様変わりし、白人やタイの若者が訪れている。インド人街そばを流れるの運河の上には、不法占拠の電脳街、サパーンレックもあったが、こちらも2015年に撤去されている。 
 『アジアンジャパニーズ』には、ジュライホテルに長逗留する日本人の老人が出てくる。本書では本名が出ているのだが、ここはTさんとしておく。小林が長らくウェブ上に、Tさんの遺族の了承を得ずに本を書いた件に関し謝罪文を出していたためだ(今、見に行ったら現在は削除されていた)。小林はザックに大量に詰め込んで来たフィルムの一部をTさんに預かってもらおうとし「私はずっとここにいますからいいですよ」と了承をもらう。後日、フィルムを取りに行くと、Tさんは「熱がある」と直接、床に横になっている。タイの安宿の床はタイル張りでよく冷えている。細かい描写を克明に覚えているのは何度も読み返したためだろう。武勇伝調の強気な「深夜特急」よりも、「アジアンジャパニーズ」の逡巡する弱さに惹かれるものはあった。
 Tさんはその後、病気で亡くなる。死後、仲間たちが追悼文集を作り、小林はそれを読み、学生運動の闘士を経て教員をしていたTさんの過去を知る。この文集はぜひとも読んでみたいので、情報が欲しい。ツイッターでは「現物を見た」なる人もいたので、三井理峯『我は平民』(自費出版)より見つかる可能性はありそうだ。Tさんの本名で検索をかけると、教育関係の専門雑誌に論文を寄稿していたため、まったく無名な人でもないのだろう。
 バンコクを訪れる度、私は何度かジュライサークル(の跡地)に足を運ぶ。現在、この場所は、かつて本当に100人の日本人がいたのかと思うほど寂れている。ジュライ前には少し日本語を話すおばちゃんの屋台が続いている。私はジュライや楽宮には間に合っていないが、楽宮の下にあった北京飯店には何度か行き、名物の「カシ丼」(カツ丼)を食べた。店主のスワニーさんは「アサリの味噌汁」を勧めてきたが、一度も食べていない(私も「ケチ」だったのだろう)。この店にあった日本語の書籍や情報ノートの行方は気になる。
 ある時期まで『地球の歩き方』には「7月22日ロータリー」を紹介する記述があった(今もあるのあるのだろうか)。特段訪れるべき価値はない変哲もない場所なのに、思い入れの強い人がいたのだろう。さらに古い同書の地図を見ると、聞いたことのない別の旅社や映画館の記載まである。かつての賑わいは遠く、現在は廃墟同然の建物が並ぶ。
 楽宮旅社は2004年まで存在していたので、もし私が大学生の時にタイ旅行をしていれば、泊まれた可能性もある。だが、おそらくはカオサンロードの安宿でイキっていただけだろうとも思う。私が初めてタイを訪れたのは27歳であり、この時は会社の社員旅行で行った。翌年、28歳で一人旅で再訪する。その時、宿泊したのはファランポーン駅近くのスルクリンホテルで、1泊は600バーツ。利用したベトナム航空ではまだリコンファーム(予約の再確認)が必要だったため、慣れない英語で電話をした。宿からファランポーン駅へ至る間に、ボロボロのよろず屋があり、深夜でも酒が買えた(タイのコンビニや商店では夜間の酒販売は禁止されている)。地下鉄の延伸工事が始まると、この店もいつの間にか消えてしまった。
 沢木は「旅に出るべき年齢」について、若すぎるよりも、自身が旅立った26歳くらいが丁度よいのではないかと話す。私の海外旅行歴は25歳で訪れた香港から始まる。これまで「深夜特急」から距離を置いてきたと書きつつも、沢木の言葉は意識していただろう。『朗読・深夜特急:オン・ザ・ロード』を通し10ヶ月かけ、この作品に出会い直せたのは良い経験だった。

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